South by Southeast : (0) Prologue

(有料にしていますが全文公開しています)

様々な背景から精神の不調を来たしかつてのような生活が送れなくなった人、あるいは精神的な負担が原因である可能性が高い身体症状、いわゆる心身症を訴える人、などと対話する機会が増えてきている。

その中で、そのような精神的不調の根本的な原因あるいはそれを引き起こすベースとなっているであろう個人的なヒストリーを対話によってあぶり出すようなことを繰り返していると、多くの人は自分の内面的世界を違う角度から見るとということに気が付いていく。

そして自分の体調不良がひょっとしたらそのような構造なのかも知れない、と考えるようになると暗闇の中でもがいている状態から、遠くに少し光が漏れているように感じられるようになる。

そのようなことを繰り返し徐々に心的な負担が減った後、ほとんどの人は共通の問いに突き当たることになる。

”では、自分は今どうすればいいのか?”

家族や知り合いと会話をすると、その人なりの「こうすべきだ」と言う意見をもらうこともある。自分が一目おく人、あるいは尊敬する人などであると確固たる意見を持っていることも多く、その人の言うことを正しいと信頼して実行してみようとしてはみるものの、また迷いに陥ると言うことを繰り返してしまうことを経験したことがあるひとも多くいるのではないだろうか。

厄介なことは、何人かに話を聞くとそれらの人の助言が相反するものであったりすることが割と珍しくないことである。

では、精神科医やカウンセラーなどプロフェッショナルに頼ってみたらどうだろうか。あるひとは共感を持って話を聞いてくれるが具体的な指導はしてくれないというスタンスであったり、あるひとはその人の持論を述べてくれるが今ひとつ腹落ちしないと言うこともあるだろう。

ではどうすればいいのか?と直接質問をぶつけてみると、それは自分自身で判断しないといけない、自分たちはそれを手助けすることしかできない、と言う答えが返って来ることが多い。

そしてそれはおそらく正しい。結局各人は各人の固有な背景を元に人格を形成し、特有の環境において判断を強いられる以上それぞれが自分で判断する以外にないのは確かである。しかしそうは言ってもそれができないからぬかるみにハマっているのであり、それはある意味無理な相談でもあろう。

発展途上国を援助する際に、先進国の人たちが入ってきて例えば井戸を掘ったり橋を作ったりしてそのまま帰って行き、当初はよかったものの結局維持をすることができず壊れて使い物にならなくなったと言う話をよく聞くことがあるが、援助とは本来、井戸を掘ったり橋を作ることではなく、現地の人が井戸を掘りそれを維持する、あるいは橋を作ってそれを修繕する方法を指導することであり、自分たちが作ってあげることではないはずである(実際は日本の企業が作ることが目的の海外を舞台にした日本の公共事業でしかない、と言う話も言われたりしているが)。

その意味でぬかるみにハマった人の立ち直りを手助けする際には、どう動くかを指示することではなく、どう動くか自分で判断することを伴走者としてコーチしていくことが理想なのであろうと考えている。

しかしその際に他の人が過去の挫折や不調から立ち直った過程を参考にすることは自分が判断する上で極めて参考になるのも事実である。むしろ成功者の成功談を聞くよりも、挫折を体験したものがどのように人生をもう一度軌道に乗せるのかと言う話は同じく大きな困難を経て立ち直りを模索する者にとっては極めて有用であろうと考えている。

そんなことを考え、少し自分の経験を共有してみることとした。私自身は自分が立ち直ったとは正直なところ考えていない。またいわゆる”一般の人”からみると挫折者あるいはしくじった人と言う風にみられるだろうとも思っている。しかし当事者からの視点からみるとおそらく”一般の人”とは違った景色が見えているのも事実である。

私自身は自分自身は相変わらず人生というアドベンチャーゲームのただ中にいる、と感じている。あるひとは順調に大過なく学校を卒業し社会人となりそこそこに頑張り定年を迎え死を迎えるという物語を描く一方、あるひとは映画さながらの波乱万丈危機一髪な物語を終えるのかもしれない。

どちらにしても、人生という冒険小説の主人公としてどのような作品を描くかは各個人が決めることであり、どのようなジャンルの小説を好むかもまた各人の好みであろう。自分がどう思おうが時は流れ人生の物語は続いていく。主人公自体が生きてさえいれば。

そう考え、自分自身がまだ執筆最中の冒険小説の連載の一部だと思って興味のある人には読んでいただければ幸いである。個人的な話でもあるので有料とすることをご了承いただければ幸いである。

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