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その「反省」は本当の「反省」か?ただの「自己正当化」か?

なにか失敗をしたときやうまくいかなかったとき、私たちは「反省」をする。
「なぜうまくいかなかったのか」「何が悪かったのか」「何をどう変えていたら結果が変わっていたのだろうか」

特に、自分の非が明らかな場合は、「どうしてこんなことをしてしまったんだろうか」「自分はなんてダメな人間なんだ」「あの人に嫌われてしまった。もう人生最悪だ。」と落ち込む。

普通、失敗をすることは人間にとって大きな苦痛なので、こうして「落ち込み」と「反省」を行ったり来たりして、最終的に「教訓」を学び、次に同じような失敗をすることを避けようとする。これは人間が何万年も進化の過程で身に着けてきた「能力」であり、それによってこんなに弱い動物にも関わらず生き延びてこれほどの繁栄と進歩を手に入れてきたのだと思う。

しかし、最近、年単位で相談にのってきた知り合いが、「自分の過ちや失敗について落ち込み、反省している」ように見えるのに、まったく「教訓」を学ばずにすませていることに気が付いた。失敗から「教訓」を学ばないので、当然ながら同じような失敗を繰り返す。当たり前だが、それによって相手からの信頼を失う。それによって更に「落ち込み、反省する」ような状態になり私に相談が来る。私はもちろんその人の話を親身に聞き、できる限りのアドバイスをする。が、それでも「どうすればこの失敗を避けられるか」という教訓は学ばない。

これは、単に「頭が悪いから」ということではなく(確かに知能レベルが低いとそういうことは起こりやすいだろうけど)、この人の知能レベルや知性は、標準よりも上だと思う。少なくとも、普通に話している範囲で「この人話通じないな」と思ったことは一度もない。(お前は何様だという指摘はもっともだが、それはとりあえず横に置いておいていただきたい。)

が、相談内容になると途端に上記のようなループを繰り返すのだ。私は何年にもわたって、同じような話を聞かされ、その都度「何度も言いますけど…」と同じアドバイスを手を変え品を変え、アナロジーを変え伝えた。が、結果は同じである。

よくある、「落ち込んでる自分に酔っている」という状態かとも思ったが(そういう側面もなくはないが)、それだけで切り捨てるには少し違和感がある。

なぜなら、普通「落ち込んでる自分に酔いたい」人は、私のように正論で「問題点は○○だから、XXをしないと解決しませんよ」とぶった切る人にはそんなに何度も相談してこない。なぜなら「そんなの○○さん可哀そう!相手が悪いわね!」と同調してくれる人に話をきいてもらって、「可哀そうな自分」に酔いたいからである。

数年にわたって、まったく「教訓」も学ばないし、その教訓を生かすためのアドバイスも「ほぼ」馬耳東風状態だった相手に対し、私はいつも非常に不思議な感覚を抱いていた。

それは、「そんなに辛い目に何度も合うのに、なぜ「今度こそ自分を変えたい!とか教訓を学んで次に生かしたい!」とならないのだろう?しかも、それを私に相談してその都度正論をぶたれて落ち込むというのはどういう思考回路なのか?」という「未知の思考回路に対する好奇心」である。

逆に私は、なにか辛いことやうまくいかないことがあると、なんとしてでも教訓を学んでこの辛い境遇から抜け出したい!次に活かしたい!と思う、「教訓オタク」である。人生、すべてのことから、自分と周りの人の人生をよりよく、楽しく、幸せに生きるための学びを得られると信じている「学び信者」でもある。ちなみに、私の周りもそういう友人知人が多い上に、私の夫もそんな人である。

だから、こんな風に「辛い目に遭ってなんとかしたいと言ってる割にまったく教訓を学んで生かそうとしない人」がいったいどんな「そうしない合理的な理由(頭が悪いからできないのではなく)」によってそのように行動しているのか興味が搔き立てられたのである。

様々な本や記事を読んで考えた結果、タイトルの「自己正当化」という結論にたどり着いた。

どういうことか?

本人は「辛いと思い悩むこと、反省したように振舞うこと」で「自分はこんだけ辛い思いをしているのだから十分に責めを負った(つまり、もう自分の罪は許された)」と考えているのではないか、という結論にたどり着いたのだ。

「思い悩み、苦しみ、反省すること」だけで「自分の落ち度は許される」と考えるから、さらに大変な思いをして頭を使って教訓を学んだり、自己改革したり、考え方や行動を変える必要はない。「悩むだけ」で自分側の果たすべき責任は果たせてしまっているのだから。

そう考えると、落ち込んだり反省した後必ず、その人から「自分を信頼しない相手を責める」という言動が出てくるのも納得できる。なぜなら「自分は思い悩んだことで免罪されたはずなのに、相手はまだ自分に「信頼しない」という罰を与えてくる。免罪された自分を責める狭量な相手が悪い。」という理論になるからだ。

普通、自分が何かを失敗した場合(しかも何度も)、相手からの信頼を再度勝ち取るためには「自分が変わったことを示して、「もう同じ失敗はしない」ということを証明する」ことが必要だと考えるのが論理的な考え方だと思うのだが、この人の場合、「自分が変わるかどうか」は問題ではない。なぜなら「思い悩み苦しんだこと」自体が免罪になるわけだから、その理論では相手は「こんなに苦しんだならきっとこの人は変わって今度こそ同じ失敗はしないに違いない」と思わなければならないからである。「自分が思い悩んだのに、そうなっていない相手が悪い」という論理である。

ここまで考えて、自分なりにとても納得がいった。私の違和感の正体がようやく見えたような感覚だった。

おそらく、この人自身は自分がそのような「自己正当化」をしていることは気づいていないだろう。すべては「無意識」レベルで行われていて、意識のレベルでは「自分は正しく思い悩み反省している」と思っているだろう。

私に相談しているのも、「教訓を学んで生かしたい」というより、「こんなに思い悩んでいる自分のことを知ってもらって、あわよくば相手に「こんなに悩んでたよ(だから許してあげなよ)」と口添えしてほしい」ということだったのではないかと思い始めた。

こうして、「教訓オタク」の私は2つ教訓を学んだ。

まず、「反省や落ち込み」が「私はこんなに思い悩んだんだから○○ができなくてもしかたない。その頑張りを認めない周りが悪い」という自己正当化の手段になっていないかということを常に自問自答しよう、と。

そして、もしも今後誰かの相談にのることになった時に、その人がこの自己正当化に陥っている人だったら、今度は速やかにその相談からは撤退し、距離を置くようにしよう。彼ら彼女らは、おそらくその自己正当化を何年も何十年もやり続けてきたプロである。しかもその思考は無意識化で行われているため、指摘しても本人が気づいて変えられる可能性は非常に低い。うん、ダッシュで撤退しよう。

これを読んでくれた人の役に立つかどうかはわからないが、もしも周りにそういう人がいたら、少し距離を置いて付き合う方がいいかもしれない、くらいの参考にはなっていることを祈ってこの投稿はここまで。

私なんぞの体験でも何かのお役に立てればと思って書いていますが、サポート頂くと続きを書く励みになります。