さよならだけが人生か。でもさよならにも言い方がある。(37)

2月1日。
母はなんとか、月をまたぐことができた。
昨日は座薬のおかげで、静かになったので、
久しぶりに私も3時間ずつまとまった睡眠を
とることができた。
朝5時には平熱にもどっていて、ほっとする。

朝7時半、目を半目開けているが、
視点が定まっていないようす。
「おはよう」と声をかけても反応がない。
揺すっても、耳元で話しかけても反応がない。

焦って再び、昨晩話した当直医に電話。
「昨日入れた座薬が効きすぎていると思う。
様子をみてください」とのこと。
10〜15分に一度、母を覗き込みながら朝食。
相変わらず、静かに呼吸しながら、
定まらない視線を宙に結んでいる。
やや肌色が黄色っぽく変化していることに
不安になるが、観察をつづける。

9時15分。
さっきまで呼吸していた母が
息をしていないことに気づく。
すぐにクリニックに電話。
近くに住む弟にも連絡し、弟夫婦も駆けつけた。

母は戻ってこなかった。

同じ部屋にいたのに、息を引き取る瞬間に
手を握ってあげられなかったこと。
なぜ朝7時半に電話を受けた当直医が、
その可能性を微塵も示唆できなかったのか、
その可能性さえわかっていたら、
弟もその瞬間に立ち会えたのに……というのが、
ささやかな後悔となった。

朝ドラの録画を見ながら、朝食をとる、
私と夫の会話を聞きながら、
母は逝ってしまったのだろうか。
そばに家族がいると、感じてくれていたことを
いまとなっては、祈ることしかできない。

9時40分ごろ、看護師さんが到着して、
医師に状態を報告。
その後すぐに主治医が到着し、死亡を確認した。
「死因は老衰、だな。一番の卒業証書だよ。
もう仏さんみたいな顔をしてるじゃないか」
と主治医は言った。
2022年2月1日午前10時。85歳の人生だった。

まだあたたかい母の身体を拭いて、
あらかじめ用意しておいた旅立ちの服を着せる。
私が編んで、母が一度だけ袖を通した
アルパカのセーターを選んだ。

昨年の2月、できあがったばかりの
このセーターを試着したときに撮った写真を
遺影にすることは、
母が施設から戻ってきたときに、
ふたりで話して決めていた。
友人のグラフィックデザイナーに
編集をお願いし、
薄毛を気にしていた母のために、
髪の毛は、少しだけ盛ってもらった。

近くの写真店で、遺影を印刷してもらうために
4日ぶりに外に出た。
抜けるような青空だった。

実際のところ、いま振り返ってみて、
母が自宅に戻りたがっていたのかどうか、
私には100%の自信はない。

我が家は、十数年前に父も
自宅で看取っているのだが、
そのときは、末期癌で入院していた父が、
どうしても家に帰りたい、家で死にたい、
ということで、母がその希望を
受け入れるかたちで戻ってきた。
だから、家に帰った父は
本当に満足そうだったし、
最後に眠りにつくまでの数日間は、
彼にとって幸せな時間になったことを、
私も実感することができた。

一方、母の場合は、コロナ禍で病院にいては、
充分に面会もできないこと、
療養型病院に転院して死なせるくらいなら、
自宅で看取りたい、という私自身の希望から
実現した退院だった。

弟の「自宅に戻ってこられてよかったね」という
呼びかけに対しては、しっかりと頷いていたが、
私に対してぶつけられた母の感情は、
ポジティブなものだけではなかったと思う。

住み慣れた自宅に帰ってこられて
嬉しいと思う気持ちは、
もちろんあったと思うが、
自宅に帰ってきたのに、
指一本自分で動かせない、
というフラストレーション、
私に負担をかけてしまって
申し訳ないという気持ち、
自宅というあまりにリアリティのある環境で、
現在の状況を受けれなければいけない恐怖、
これがいつまでつづくのかわからない不安、
そんなありとあらゆる感情が
断続的につづくせん妄のなかで、
現れては消えてを繰り返していたように思う。

それでも、そんなすべての感情を
見せてもらえたこと、
母の最後の数日間の
お世話をさせてもらえたことは、
これからの私の人生において、ほかに代えがたい
ものの見方の「ものさし」をひとつ加えてくれた
大切な経験になるだろうことは間違いない。

これが、私と母の
「さよならの言い方」に関する話の幕引きである。

さよならのそのあとに関する
事務的な、実質的な話は、もしかしたら、
同じように海外に住む方々にとって、
参考になるかもしれないので、
もう少し私の体験を共有できればと思う。

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