見出し画像

散歩する侵略者(+映画)2017.10.28

1日のうちに「散歩する侵略者」の映画と舞台をキメてきました。
最初に映画、あとにソワレで舞台。
新文芸坐でクーリンチェ少年殺人事件を見に行くかで直前まで迷ってたが、早起きチャレンジにあえなく失敗したため、映画「散歩する侵略者」に。
これ「どっちが好きでしたか?」という問い、確実に見る側の興味というか趣味でしか結論つけられないだろうと思うけど、私は舞台の方が「ああ」と腑に落ちる、落ち着くという点で、好きかなあ。
対して映画版は後から確かめないといけないところ山積みで、何度も見てられるスルメ系作品の予感がする。

以下ネタバレ等の配慮は無しでつらつら気になったところを羅列します。


■関係の積み重ね
しんちゃん、がかつての真治が呼ばれると嫌がったってエピソード、映画にあったっけ。
2007年版小説では読んだ記憶ある。鳴海と真治の関係の積み重ねが見えてくるので、2017年舞台だと早めに出てくるエピソードなのはいいなと思う。
映画だと「手をつけなかった料理を手料理うまいと食べてくれる真治」ですね。
あと全然ストーリーラインが違うからあんまり比較対象ではないけど、舞台版の人物関係の構成めっちゃしっかりしていて取りこぼされる人がいないのが本当に上手い。
例えば映画版では桜井って言うなれば街の外からやってきた、めちゃめちゃ分かりやすい「ストレンジャー」な存在だけど、舞台版だと違う。
元警官で同僚の浩紀という存在がそうさせないし、元々そこに桜井も住んでいた存在な訳で。
関係といえば、今回の丸尾と長谷部エピソードの盛りっぷりはものすごく意図的なものを感じます。
勿論、いま身近な「戦争」への感情って?みたいな提起の為はあるけど、いやそれ以上に二人のわりと濃い関係の「そこまでのエピソードと二人の間に発生する感情、いる??」みたいな戸惑いをめちゃくちゃ受けました。
あそこまで端正に人間関係最小限に綿密に入れ込まれている中、あの二人は浮いてませんか。正直、削るとこならあそこじゃないですか(小声)
でも、そこで削らないところが、こだわり、性癖?なのですかね。
前川知大こだわりの関係、「友達」という概念…。根深い…。(太陽から天の敵などの方を向きながら)

■桜井の倫理観
どちら側の桜井もわりと倫理観を強く持ってる人物な気がする。
結果的には映画と舞台では天野くんとの関係への決着のつけ方がかなり異なるのだけど、これはぶれないんだなと。
映画の桜井はあれでわりと倫理観はあるんだと思ったのは、ゴミ箱だ。車で加瀬夫妻を追って、ショッピングモールみたいな所に着いて、事故にあってからの演説、の後に飲んでたジュースをちゃんとゴミ箱に入れる。
身体に身に付いた習慣なんだろうけど、そういうところ、「この人、普通のいい人なんだろうな」と思った。
だからその後の「サンプルにしてくれない?」発言にはちょっと驚いた。あれ、そんな時間経ってないよな?みたいに。この辺りからの映画版の桜井と天野の同化化というか、二人で一人的な関係が色濃くなり、ラストの桜井問題になるんだけど、サングラスの桜井は天野という事で(監督がそんな事を言っていると聞いた)良いのだろうか。それを確認にまた観たい、映画版。

舞台版の桜井は惹かれはしても、人間側を譲らない。
これは最近のイキウメに言えることなんじゃないかなと思うんだけど、安井さんが演じる役柄は、わりとアチラに惹かれながらも、こちらに留まる人の役が多い。(関数ドミノは微妙なとこ)
今回の桜井と天野のラストは「立場としてこうだから、こうしなくてはならない」という要請が前面に立っているから、ああなったのかな、と思った。
流れと全く関係ないが天野の「ウルトラマン」あたりの台詞が凄く好き。

■水、ドリンクバー、ひび割れ、壁
片鱗」を観た時から、なんとなくイキウメを見る時は「水」とか「液体」が小道具で出てきた時、ちょっとだけ余計に注目する。あちらとこちらを渡る時に出てきがち、という傾向がある、というのを感じている。
今回は、コーラ(恐らく)メロンソーダ(恐らく)
これ、ふたつコップに入れて持って来ただけで「ドリンクバー」って答えに行きつける構造めちゃくちゃ上手くて感動する。恐らくはファミレスですよね。
また脱線するんですが、この作品のキャッチコピーのようなもので、「地球侵略会議はファミレスで」すごく好きで、あって嬉しかった。映画版では無かったと思う。
で、そのコップ二つを、その後の場面で逆さにするんだけど、そのタイミングも「なるほど」と思った。
話は少しずれて舞台セットの話になるんだけど、今回のセット地続きじゃなく、すこしひび割れ・亀裂みたいなものが床に走っていて、この間に何故か最初「水がたまってるんだろうな」って思い込んでたんだが、別にそういう事は無かった。車田さんが足をとられるところで、「あれ、水ないじゃん」と思ってたけどこの思い込みは酷い。けど、そう思わせる何かはあったと思うんですよ(開き直り)
あと、既にこれは色んな方がお気付きかと思いますが、直近の太陽再演と舞台セットが既視感ある。演出も狙われているところもある。

■女、愛のエゴ
舞台版の鳴海について、「はっ」とした場面がある。
ラストの「私から奪って」の例のシーン、他の人から奪おうと行く真治に対してとても必死な形相で引き止める。これを見て、「他の人からじゃ駄目」の理由は鳴海の真治への独占欲もあるんだと思った。
何故なら、一度、奪われているから。浮気されているから。
だから、鳴海は不安だし、拘る。
愛人じゃなくて、私から、と。
だから、この「愛」とは、エゴでもあり、奪われるもの・与えられるものとしても描かれていて、「善い」ものだけではないのだ。
しかし、それをラストでは当事者以外は気付いていないからすごく温度差を感じる。愛を奪った真治にとって、それだけで手いっぱいだし他のものまで抱えられるものじゃない。

対して映画版。
映画版は真治と鳴海は、ホテルでのあのシーンまでは保護者と子どもの関係が強い。
ただ少し違うのは、真治が舞台版よりも「前の真治になる」「鳴海の期待にこたえる真治になる」ということに、かなり早い段階で拘っていたところだろうか。
二人の関係がものすごく濃くなるのはあのホテルシーンからなんだが、鳴海の絶望感が比較対象がないくらい半端ないものに感じた。
「愛」よりも「死にたい」が先に出てきたのが印象深い。
ここの二人の関係からはイキウメの「獣の柱」のラッパ屋の寺田夫妻の姿と重なってみてしまった。
修子も自ら死を選ぶし、それも夫のせいにして(爪痕を残すかたちで)死を選ぶところだったり、映画版の最期まで連れそっているところなど符号が多い気がする。

このラストの部分の解釈では、舞台版の方が好みではあるけれど、映画のあのシーンを見る事が出来たのはとても満足しているんで、やっぱり難しいですね、どっちか選ぶのは。

と、まず気になった事メモ。
次は俳優関係とか諸々を上げられたら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?