Lはなぜ夜神月をキラとして疑うことができたのか。映画版と異なった最終判断の意図。【アニメ「DEATH NOTE デスノート」】
アマプラにアニメ「デスノート」が解放されたので見た。
十数年ぶりの鑑賞となると月の手口よりはLがいかにして捜査し本人が語る5%の確率で彼を疑うことができたのか見るようになる。月の世直し正義の過程に熱狂するのはやはり高校生までのガキだけだろう。
Lがキラ事件に関わり始めるのはインターポールが謎に満ちた能力による事件だと認知したところで捜査協力の依頼が来る。Lは全世界の警察を唯一動かせる探偵である。
Lはこの時点でプロファイリングによりキラの人物像を「極めて優秀な頭脳を持った学生」で「近親者に捜査情報を知る立場の人間がいる者」と仮説する。
学生だと絞った理由は悪人に絞った裁きを見せしめに世直しをしようとする正義は小学生から高校生までの精神性だからだと語る。それより年齢が高いと逆に自分の身の回りのためにしか使わない。
この時点でのプロファイリング能力がのちにすべて繋がり始めていく。
ここからざっくりと月までに絞っていく過程を書いていくと
1,テレビを利用した挑発を行いキラの活動拠点を日本の関東地方にあると証明する。(キラは完璧すぎるが故に負けず嫌いだとみなし自らの顔と名前を偽って挑発。番組も全世界放送と偽り地方ごとに時間差で放送して拠点を絞り出す罠を仕掛けた。)
2,キラは捜査情報を知ることから関東の警察の家族に絞り、極秘でFBI捜査官を潜入させる。監視についたレイペンバーは月に利用され他の捜査官の情報も与えてしまった上で殉職。
3,FBI捜査官が亡くなる直前を分析しレイが遺留品になかった封筒を手にし、駅構内で電車内を必死に見ようとした様子によりキラの存在を推理。その後日フィアンセが行方不明になっていることで、レイの捜査対象であった月の家族ともう一つの家族に絞った家の監視を始めた。
4,監視中テレビに「キラ事件にFBI捜査官1500人を派遣した」という速報を流させる。揺さぶりを見るための誤報であるが月は動じず、Lの思惑までも的中する見解を語っている姿を見たことで月に5%のキラの疑いをかけ始める。
Lは月をなぜ疑うことができたのか
月は監視対象になっている中でも普通の高校生として振舞いつつ、キラとしての活動もポテチの袋にポータブルテレビを入れて悪人を裁いて継続させて見せるなどアリバイも疑いようのない完璧な振舞であった。
しかしその完璧すぎるが故にLは月を疑い始める。
Lは先述した通りキラ事件を見たプロファイリングの時点で「極めて優秀な頭脳を持った学生」だと見なすことができていたからである。
そしてその仮説に引っかかった月の最初の言動が、捜査官1500人を流したハッタリに見解している姿だった。
月は千人規模の捜査なんて嘘に決まっていると蹴散らせた上で「Lは相変わらず何も変わらないな」と挑発と取れる言葉を最後に添えていく。この時点でLは初めて月に対して何かが見えたかのように静かに反応する。
Lはテレビで拠点を絞って以降それまでの流れまでキラに対して強く挑発され続けていることを直に感じている。
最初にプロファイリングした「極めて優秀な頭脳を持った学生」は裏を返せば「幼稚で負けず嫌い」であることもすでに理解し月の一瞬の言動にみることができた。それはLもまさに同じだからであることともいえる。
その後月と同じ大学に捜査として直接近づいていき、キラ事件への推理を促し月に見出した仮説によるキラの本質を徐々に確認していく。
月によるキラのプロファイリングも「不自由ない裕福な家庭」「天才的に頭がいい」「小学生から高校生」という仮説も同じであった。
唯一見解が異なったのはそれらの条件が「純粋性」から来るものと語ったところだろう。
全てを見たうえで語る「幼稚で負けず嫌い」というLの見解と、「純粋性」から来るという月の見解のズレがこの物語の正義の対立構造と心理戦の境地にいる互いの理解力を象徴する場面にもなっている。
ここまでのLだけの行動を見るとかなり大胆にも見えるが、自分が制御できること以外には極めて慎重である。
月にキラの疑いをかけた際も5%という確率の数字を出して捜査班に語るが、その後の月への接触をみると実際はそんな低いはずがないのも分かる。
高い数字を出すことで無暗に警察の慎重さを解いたり、月への警戒を高めないための描写されない彼の心理であったら面白い。
大胆な監視カメラ捜査についてもキラの頭脳を計算に入れているならば確証的な証拠の発見は目的としてはそもそもなく、キラの裏に隠れた本質を見るためのものであったとするなら全てのLの大胆さの心理は繋がっていく。
プロファイリングの時点で9割は決まっていた。
Lの死から蛇足化し映画で再編されたifルート
ミサの登場により死神とノートの存在までLは明らかにしていったが、ノートの所有権が変われば記憶を消すことができるという後付けルールで月から目線を逸らされる。
月はLの目線を新たな所有者に完全に逸らせたところにミサを敢えて窮地に追い込ませ、レムに亘とLの名をノートに書かせるように仕向けあっさりと二人は退場してしまう。
Lは月が最後に死神の心理をも利用することだけは読めなかった。
ここからLと同じハウス出身だったニアとメロが継いでキラを捜査し、月はLとして生きながらキラとしても戦う第2部が始まる。ここからは鎬を削る一対一だった構造から複数構造で話がばらけて面白くなくなる。
月に取り巻く周りの人間も優秀すぎるが故にニアとメロの存在感が弱くなり大切な対立構造の軸も終盤まではここで飽きてきてしまう。月にLの役割担わせたのも余計だったかもしれない。
この辺は連載を続けさせるためだけの大人の都合にしか感じない蛇足感。
映画版は本来原作でやりたかったはずの終わりをIFルートとして描かれた。
映画版Lは記憶を取り戻したミサのノートを偽物にすり替え、L自らの名前と先の時刻を本物ノートに書いて月による殺害を防ぎ月の最後の失言を証拠にキラとして暴かれる。
Lはここでも月が死神を利用するまでの行動は予測できていない。ではなぜLは自らの名を本物のノートに書いたのか。
Lは所有権が第三者に渡った高田がどうやって月に殺害されたのか分かっていなかった。月はLの横でノートの切れ端に名前を書いている。
原作、アニメ、映画で共通するLの唯一欠陥だったのはノートの切れ端に名を書いても殺害できるかを死神に聞かなかったことである。
その点ニアは死神に出会った最初の質問にノートの切れ端について聞いている。その差が事件解決のすりかえたノートについての最後の糸口として月と魅上の誤算に繋がる。
映画版Lは紙の切れ端による殺害は確証していなかったが何らかのイレギュラーな手段が起きており、最後はそれによって自らがやられることの予測はしていた。
明確な確証はないが「不測の事態」に最大に備えたのが自らの名前をノートに書くことだった。制御できないことに関して極めて慎重だったLらしい終わりでもある。
映画版Lの目的は一騎打ちではなく「事件の幕引き」のみ
結局Lの負けだと語る人もいたが、映画版Lの目的は「事件を終わらせる」ことだった。
原作では確保と殺しを目的とするLと月の一騎打ちであり、被害をこれ以上出したくない警察とは対立する。終盤のニアと月に対してもその軸は変わらず、警察はほとんど除外させられている。
しかし映画版でのLは最終的に警察の人命優先の目的を共有し、事件を終わらせることを最優先した結果がああいうことだった。
映画媒体である都合もあるだろうがもうひとつ大人になったLが、あらゆるノートの策略を想定して自分の命と引き換えに人命を優先したのは話としては正しい終わりだった。
月に関しても対立感情ではなく「救えなかった」ことを口にしたのも良かった。この時代までの実写映画は原作補完の役割が多くて素晴らしかったと改めて思える。
日常の退屈から現れる世直しと暴力
十数年ぶりに月の姿を見ると少し前に現れた私人逮捕者の登場を思い出す。
それを見て熱狂していたのは学生だったかもしれないが当事者たちはそれよりもはるか上だったのも残念になる。当時のLの仮説の本質はあっているが外からではもう当てはまらなくなってくる。
デスノートの話の構造も英雄譚の神話の流れが採用されているといわれる。
正しい英雄でも間違った英雄でも入り口はいつも日常の退屈から始まる。月もリュークも自分の世界に退屈し、そこで努力をしていれば何を頑張っているのかとバカにされる「ここではないどこか」への脱却から始まっていく。
結果として節度のない暴力への道に月は向かい「何をしても罰されない」環境へとみずから作り出していく。
ある日平穏だった人間が人間らしさを失い容赦ない暴力の方向に向かう状況は「何をしても罰されない」環境になった時だといわれる。現代ではそれらの役割を果たしてしまうのが我々の民意とインターネットになるのだろう。
全員がLにはなれないが個人としては何をしても罰されない環境にさせない思念と感情による想像性を持つことの努力しかできない。
他人についての想像性を持つためにも物語を多く享受することで感情を育むことが正しい現代の教育の姿だろう。
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