某国への反抗心も見える、「映画」を利用した完全犯罪。ヤギの描写の意味は何だったのか。【映画「共謀家族」】
インド映画「ビジョン」を中国リメイクした作品となるサスペンス映画だが、間接的に「過度な共〇主義への反抗」と「自由」が裏テーマに重ねた近年の中国映画らしい作品に思える。向こうではその年の興行成績も高かったらしい。
話は主人公の娘ピンピンがサマーキャンプに出掛けた際に同級生に強姦をされたことで事件が始まっていく。主犯は警官所長の母と市長候補の政治家の父を持つ息子であり、過去の罪も全て親の力でもみ消される好き放題な不良。
ピンピンはその際に撮られた動画で脅される立場になるが母親との共犯で誤って殺害してしまい、父親は娘らを守るため完全犯罪を目論む。映画オタクだった父親はそれまでに見た犯罪映画のトリックやアリバイを総動員して警察の視線をずらしていく。その過程は最後まで「映画的な手法」で紡がれていたことになり、よくできていて面白い。
エンディング後の最後は、冒頭の場面に繋がるシーンとなっており彼の大局的な印象をつけて終わっていく。あの終わりこそが冒頭の主人公の会話から繋がるこの映画の裏テーマを問いかける場面だったと思える。
冒頭の妄想映画シーンの後、父親は「ショーシャンクの空に」を毎日通う店主に「自由」を象徴する映画として紹介している。ショーシャンクの主人公は無罪で捕まり脱獄することによって自由を得るスッキリする映画だった。
彼も警察から目をそらせ無罪まで獲得しても最後はあのように終わっていく。彼はなぜ最後の決断をしたのかは寺院へのお布施を受け入れてもらえなかったことで、息子探しに躍起になる警察署長の母、市長候補の父である「絶対的な権力」の目を欺いても救いを感じない自由への問いかけがあそこに込められている。
この作品の舞台はタイだったがメイン人物は某国籍の移民であったり警察と市民への権力行使へのやり方が最近の某国と似ている点でも、市民が権力に抗う一つの構図を分かりやすく作りたかったのだと思う。
あの父親だけでなく市民も常に身近な警察に監視されたり被害を金でもみ消されたりと自由の身ではなく、市民が主人公のアリバイに協力し終盤に暴動が起きたのも彼らなりのストレスと反抗の形として描いたのだろう。
あれだけ温厚で有能な父親でさえも格差のまま下請けでしか働くことができない実態の上で無意識に復讐の共犯になっていく過程を描いたとも思える。
同じ21年に公開された「少年の君へ」も正にそれを裏テーマにしたような作品だったのも偶然とは思えない。
共〇主義のはずが資本主義にも片足突っ込んでいる息苦しい少年少女の格差学校社会を描き、立場も真逆の主人公二人が共生できてしまっていくことでより反抗的なメッセージを感じる映画だった。
どちらも国内で高い興行成績を残して世界に広がり始めているのも某国内の強い反発心の代弁の役割として映画が機能し始めているのも感じる。
作中のヤギの象徴とは
作中に度々現れ終盤の重要な場面でも現れたヤギ。おそらくあれは旧約聖書に通ずる「身代わり」を表わしている。
聖書でのヤギは人間の罪の担い神へ捧げる身代わりとしてヤギが使われていた。キレた警官の空砲として殺された場面は主人公、墓から現れたのは所長の息子の身代わりの象徴となる。
またピンピンの学校の授業では「ヤギは目が悪く遠くが見えないために群れから一人ではぐれてしまい捕食される」という教師の説明がある。妹が最後に署長室に一人連れられ真実を吐かせたシーンはその皮肉だろう。
妹がもしあの夜、目が悪く遠くが見えなければ真実を語れることもなかった。しかし見えてしまったことで捕食されたという人間界との対比も加味した表現だったと思われる。
普通に一通り観ても楽しめるサスペンス映画だが近年の本国映画と○○家族映画によるメッセージ性の傾向を見ると、こちらが本メッセージなのも理解できる作りになっている作品だった。
ちなみにトリックの元となった「悪魔は誰だ」の話の繋がりも似ている部分もある。あれも家族観における母性の復讐と父性による歪んだ善意の対比を見せるテーマの話だった。
サスペンス性としては正直こちらの方が面白いがモチーフにするほどアジア全体で韓国映画にも目線が行っているのもよくわかる。
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