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無音で言語制限して子供の邪悪さを強調させただけのサバイバルホラー【映画「クワイエットプレイス/破られた沈黙】

クワイエットプレイスの新作がそろそろ公開されるということで、全く触れていなかった過去のシリーズを観てみた。

正直ホラーとしても「ドントブリーズ」の二番煎じ感はぬぐえていないし、パニック映画としてもクリーチャーや展開の詰めが甘くて駄作としか思えなかったのだが、

新作はまた雰囲気や表現性を180度変えて期待はできそうなのでここまでのシリーズはどういうものだったのか一応整理しておきたい。


あらすじ
怪物の出現により荒廃した世界。その怪物は音に反応し、即座に音源に襲いかかる。ある一家は細心の注意を払い、静寂を保ちながら生活していた。しかし、かすかな音すら即死に繋がる状況の中、一家の母親の出産が迫る。それは彼らにとって、最大の危機の到来だった。


子供の行動にイライラさせられるアメリカ映画の伝統芸

一作目からクリーチャーが街を占拠するディストピア世界となっており、なぜそんな世界になったのか、クリーチャーがどういった目的でなぜ地球に降り立って人間を襲うのかなど核心に迫るところは残念ながら2作目を通じても何も見えてこない。

この辺は突っ込んでもキリがなさそうなので物語の流れや世界観の歴史などは無視するしかないだろう。

その上で作り手がこの世界観で何を表現したかったのかを見ると「音を強制的に排除したディストピアの人間模様」である。

1作目では「家族」という限定的な共同体だけに焦点を充て、二作目ではその家族とご近所だった主人というこちらも限りなく限定的な人間だけに焦点を充てて描かれた。

アメリカ映画のディストピア世界を描いた作品において個人的に注目するのは、

どういうタイプの人間でどういう行動をしてしまう人間ほどアクシデントに巻き込まれたり、先に死んでしまったりするのかということ。

そこで鉄板である二つが「不意に余計なことまで話してしまう人間」と「生意気な子供によって行動の邪魔をされる親」である。

あくまでアメリカの映画においての話であるが。

クワイエットプレイスの世界観においては音を立てればクリーチャーに見つかるため、言語の習得や使用も自制された映画だった。

ジェスチャーが会話の基本となり、よっぽど安全な場では小声の少ない会話が許されるといった限られたコミュニケーションが基本となる。

言語はほとんど互いに発しないため家族の中に培われた了解における「以心伝心」で行動しているシーンもよく見られる。

そのため主人公の家族らやその後に出会う生き残った者たちは余計な言葉をほとんど発していない。

ディストピアにおいて長く生き延びるためには「しゃべりすぎてはいけない」ことがこの映画においても語られており、言語が無くても生き延びることはできることを証明し警告している。

ただそんな世界観と論理の中で生き延びていた家族でイレギュラーな存在だったのが唯一耳が聞こえない娘の存在だった。

この2作に共通するのはこの娘の行動が家族を致命的なトラブルに巻き込んでしまう。

皆がコミュニケーションが限られる中、彼女だけは手話を使って会話することができるため口数がとにかく多く感情的な発言や行為が家族の中で目立つのが分かる。

この映画においては耳が聞こえないというハンディキャップが言語ではない家族内の共通理解も通じていないことを示す存在でもあった。

それは1作目の序盤の弟の死の原因からも強調され最終的な父の死、2作目でも彼女の独断が近所のおっちゃんまで厄介に巻き込み、辿り着いたユートピアにもクリーチャーを誘い最後の破壊まで結びついた。

このシリーズにおいて全ての元凶はあの娘の行動であり、制作側も無音かつ言語が制限される世界の中で子供の生意気さや邪悪さを強調させるように見てる側がイライラするように作っている。

アメリカの映画では子供をあえて親や大人の邪魔者になったり、子供とは思えない暴力性で大人を脅かす生意気な悪ガキを描く作品が実は多い。

宇宙戦争やホームアローン、チャイルドプレイなど古典的なものをあげてもそうだろう。

悪魔映画でも子供の身体ほど狙われるのが鉄則で、「無垢な子供の身体ほど邪悪な魂が入り込む」という信憑性は社会の共通認識としてあるのだろうとも思える。

パニック映画でもひどいものほどそれを強調するかのように子供に邪魔される大人は大体庇って死ぬ。

クワイエットプレイスも見ていてイライラする人は多かったと思うがこれがハリウッドも量産する伝統芸であったりするのだ。

あの娘役の子も誤解を恐れずいえばイライラするように敢えてキャスティングしたとしか思えないところも私は感じる。


娘だけが抱えた家族の「抑圧」と夫婦が避妊をしなかった理由




ただこの作品の娘の立場にも立つとするなら、あの娘も家族内で制限される「抑圧」もあったうえでの彼女の行動だろうとも思える。

耳が聞こえないことで時折家族間で見せる重要な小声の会話が聞こえなかったり、

唯一手話によって言語や感情を表現できることで共通理解から輪を乱すことが共同体においてのハンディキャップとして生じていることも描かれている。

それは父親がパトロールの共に気の強いその娘ではなく、繊細な性格の弟を選んでいる些細な選択も「共同体としての安寧」として最良のを判断に彼女が除かれることも本人も勘づいている。

だからあの娘はしきりに父親に歯向かうのだろう。

このディストピアの世界においても彼女は共同体においてのハンディキャップは抱えていたのだ。

そしてここは想像だが新たに生まれる赤子の存在も彼女の不安を助長していたのかもしれない。

「こんな世界になって子供を作る親もバカバカしい」という感想もあって私もそう思うところもあるが、

ただフォローするなら文明が滅びた世界でもしあの家族のように自給自足で生きるなら子供は貴重な「労働力」なのである。

マルクスの資本主義が定着するまでは子供をたくさん産み、その子供を労働力として早くから機能させることは当たり前であった。

あの親子もその論理と価値観で子を作っていたとしたら(あの小さい弟をパトロールに出してる時点であり得る)、あの娘はあの家族の共同体の立場としても居たたまれない立場になる可能性も既に予見していたのかもしれない。

だからこそ続編で父親が死んでからは彼女は何かに突き動かされるように生き生きと独断で行動し始める。

彼女一人の人間としては未熟でも、共同体から外れ、言語が強制的に制限されるこの世界では「生き延びる力」が圧倒的に高いからである。

彼女が一人になった途端不意に大声を出したり、話しすぎる恐れも全くないから思い切った選択が誰よりもできてしまうのだ。

また補聴器を持ったことでクリーチャーと同じような身体感覚を持ったことで唯一弱点を見つけた存在になったのも、あの世界の限りにおいての彼女の特別な力に繋がる。

彼女が動くことで取り巻く周りは厄介に巻き込まれるだけではあるが、過去の父との生活や平常世界では発揮できなかった力を彼女自身が認識していくだけの話がこのシリーズをあえて追いかけて見る肝だったとも感じる。


最新作「クワイエットプレイス:DAY1」は2作目に繋がるニューヨーク編か。


最新作の予告を見ると2作目「破られた沈黙」で出会った黒人によるニューヨークの話になるのだろう。

おそらく主人公を助けて生き残った男が彼で本編の主人公と繋げる算段はありそうだがあの家族編はもういいかな。

今作は余計な子供や家族の話はなさそうなので、映像の雰囲気通り硬派なパニック映画を期待したい。クリーチャーに迫る話を見せるならサクサク見せないと大半は誰もついてこないと思う。






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