カズ社長のダンスの歴史

僕のダンスの生い立ち 2012年 1

”僕がダンスを始めたきっかけ”

ダンス始めたい気持ちがある方

ダンス始めた頃など思い出しなら皆さんには読んで貰えればと思います。


僕がダンスを始めたきっかけは

絶対ダンス甲子園。


この番組のお陰でダンス始めました。

初めて見たのは中二後半!

人生で一番 衝撃的


その頃エロビデオ見るよりのインパクトだと言うのですからそれは相当だったと思います。(この時点で読む人2割減ですね?笑)

ダンスを始めた理由は

大半の男性の皆さんと一緒です。

モテソウやから。笑


ただ学校で一番初めにダンスを始めていたからやっていたんだと思います。

自分の性格は結構へそ曲がりで、

皆が先にやってたら今絶対に踊ってません。笑


当時天才タケシの元気が出るテレビの1コーナーだったダンス甲子園

初めはあまり興味は無かったのですが、お笑いあり カッコいいありで、

色々な用途が集約されていて気が付けば

ハートをがっちりワシ掴みでした。

ちなみに初めてみたはいいけど全然情報も曲も全くありません。
あるのは、ビデオデッキと週一のテレビ放送だけ


無いからこそ必死に色々な情報を集める手段を考え

そしてビデオは必需アイテムでした。

多分1990年のダンサーの一番大事な物ってビデオデッキだったのでは?

と思います。


今では当たり前にあるダンスの情報ですが当時はそんな事全くなかったです。
過去記事 当たり前だと思ってはいけない事


僕は初めに心つかまれたダンサーは田中君

(この人にまず憧れました。 一番はダンス甲子園第二回の決勝大会。)


田中君ダンスまとめ集。


全く無い中 僕には救世主がいたんです。


7つ上の姉ちゃん登場。

姉ちゃんは当時ディスコ通いだったので

当時の情報少し知っていてランニングマンを教えてもらいました。


うわ 走ってないのにランニングしてる。とか思いながら。笑

曲もわからないまま

とにかく週末までランニングマンしてました。

週末にアメ村に曲を買いに行くと言う当時の中学生に大きな目標を掲げ


ひたすらランニングマン

それだけやるならばランニングマンでアメ村いけたか?と今では思います。笑


中学生の僕のイメージではアメ村は暗黒街

ナタのような包丁を持った人がうろうろしている街に行くと言うイメージだったので

でもこれがダンスやるためだと決死の覚悟でした。笑

初めて手に入れたCDはボビーブラウン

EVERY LITTLE STEP

輸入版なので入れ物が長かった。笑


それを片手に即効帰路につきました。


曲を手に入れたという事で

仲間も欲しく

学校の仲のいい子とダンスする事になりました。

はじめのメンバーは、

カズ  (僕です。)

エイジ(トーマスを始めてで出来た天才)

じゅんぺい(空手アジアチャンピオン POPが好き)

うえP(見た目ヤンキー)

ヘルシー(今はハゲてきてます。当時はアベヒロシ)

の五人で

その一週間後たまたま近所の幼馴染 

トオルが遊びに来て(後にエアーを日本で始めてした男)

やりたい?って聞いたら

ウン!!即答

でトオルも参加する事になりました。

初めのチーム名は

ファンタステックス(プロレス大好きだったので名前パクリました)

その次が

ぼけ&ツッコミ
(このメンバーがボケ倒すのでこれになりました。)


その後のぼけ&ツッコミも凄いメンバーですね。

初ショーは中学校の修学旅行のドームの中 

下は土の上で踊ったのでドロドロになったの覚えてます。


ちなみにこの時点は僕らブレイクやっておりません。

ホーシングと言うジャンルをしていたのですが、

当時ジャンル自体の細分化もあまり無く

立ち踊りに 

アクロバット

ブレイク的な事他

色々入っていたのでやりたい事をやるホーシングのスタイルでした。


こんなスタイルです。
(今で言うNEWJACKSWINGです。)

踊り的にはこういう感じの凄く下手なのが僕達。笑


意気揚々

順風満帆

にこれからダンスを頑張ろうと思っていた矢先どん底の事が起こります。


歳は高校上る少し前。

ダンス甲子園終了。

ダンスの目標も終了みたいな

その後ホーシングブームも終了。
笑えません。

情報の無い僕達 チームぼけ&ツッコミ 
そしてダンス甲子園終了後のダンスシーンは?
どうなって行くのか?



”どうなる? ぼけ&ツッコミ?”

中学生の自分が目標とする事が
出来てダンスを本気にと思った矢先
ダンス甲子園終了って


どうなる?
ぼけ&ツッコミ?

どうにもなりませんでした。
笑(どうにもならんのかえ?って突っ込む)



ではダンス辞めた?とか言うと全然 
逆にやる気が出て家の下の道にダンボールを引いて練習してました。

でもね ぼけ&ツッコミは皆やりたい事バラバラ



僕はホーシング(れいかんやまかんトンチンカンの田中君命)



トオル エイジ(インペリアルが大好き)
ヘルシー(健康)



じゅんぺい(POPが好きでPOPんも最中に全宙とかの空手アジアチャンプ!LL好き)
うえP(単車に乗りたい中学生 マリオ君のヘッドスピン命)




ダンス甲子園は終わりましたが
ダンス好きなメンバーは
中学生の最後の見せ場 文化祭を目指して踊りました。笑



文化祭 中学生
ダンス踊るとなると対抗勢力が出てきました。

学校のヤンキー君達が僕らに対抗してダンスチームを作ってきました。
闘いです。
喧嘩では負けるでしょう?(ジュンペイいるから負けないか?笑)



でもダンスでは僕たちの方が少し早く始めていたので、負けれません。



考えれば当時の服装と髪型では何の変わりもございません。


リーゼント=ボックスヘアー
花柄シャツ=ホーシングスタイル?
ビーバップ=深夜再放送(ノリで乗せましたが関係ないです。笑)


お互いライバルチームが
いい刺激になって文化祭めちゃめちゃ盛り上がりました。

ライバルの影響でヤンキーも僕らも頑張ったのでしょうね?
(ヤンマガとかで漫画として出てきそうな熱さのでした。)

文化祭は大いに盛り上がり
自分達になりに大盛況に終わり
ダンス楽しくなって来た時 俺ら学年は中三でした。



次に中学生に来るほぼ誰もが経験する大きな問題勃発<
当然受験ですよ。 受験。



受験でございます。
生まれてこの方勉強なんかした事無い自分達
揃いも揃って頭悪いんですよ。 笑

皆さんイツキの模試行くでしょ?
行きたい高校→測定不能→呆然苦悩(MC風俺らみたいな)


だって偏差値の意味が解らなかった。笑(未だ謎)
それが高校ですよ。高校。

ぼけ&ツッコミ 
メンバー全員大体偏差値40前後の所に狙った感じです。
(あーって落胆の声ださない。笑)

エイジに至っては、英語の問題で”ITを用いて”と言う文章を
『この問題得意やで』
『ITをよういて使う奴』
用いて→もちいて


英語の前に日本語を勉強しないとあかんとは?


頭の中大分テカテカです。 笑
(受験と言えば赤本)



勉強もしてましたがダンスも当然してました。

受験する
ダンスもする。
受験があってダンスは全く辞めなかったですね。


辞める選択肢は無かったですね。


僕の記憶ではテスト2日前までダンス練習していました。笑
(行った学校がそれ程のレベルではなかったからだと思います。)



ややこしい そんな中 新メンバー加入
ゴウ君(西本印刷の息子 野生的な内弁慶。)

受験テスト間近 勉強も最終段階に入り
展開は受験所ではなくなります。


その頃から情報収集をしまくっている僕がタマタマ見つけて着ました。



ダンスコンテスト開催。と言う文面を
何も解らぬ中学生ダンサーは怖いもの無しで挑みます。
 
ぼけ&ツッコミ 初コンテスト出場です。
(ちなみに受験はまだ終わってません。笑)


俺のダンスの生い立ち 3話  ”初コンテストー”


受験を控えもう追い込みの時期に入っていたのですが、
そりゃーもうダンスの熱は文化祭を超え
盛り上った事によって


有頂天ーーー


受験ところではないテンションの所に
舞い込んで来た
ダンスコンテストの話。


僕たちは何も迷う事無く挑戦です。笑



頭が賢く無いがゆえ?
勝ち負けとかより
勉強が?とか 
自分達のダンスレベルが?とか
何も考えて無かったですね。笑


とにかく出たかった。笑


場所は千里中央でダンスコンテスト開催。
審査員はあのダンス甲子園で死ぬほど見たLLブラザース

画像1


そしてキンタミーノさん(誰?)


 
司会 東野コウジ
凄く豪華でした。

僕達的なりの最強の布陣で挑みたかったので、
中学の対抗チームのリーダーの徳さんも入り

そして後に神様と呼ばれる男 GODトオルも入って 



8人での出場。

初コンテストの事未だに覚えています。


緊張したと言うような事は一切無く
”ここにやっと立つ事が出来た”と思った覚えがあります。


初コンテストでこう思える自分って。笑


参加チーム数は20チームぐらいだったかな?

初ダンスコンテスト


結果はなんと

キンタミーノ賞でした。

キンタミーノは未だに誰か解りません。歌ってました。


初コンテストで特別賞ですよ。


僕ら中学生心に今まで感じた事無く
嬉しくそしてダンスにハマッタ瞬間はここでした。笑



親や周りの誰かに力を借りずに
言われた事をやるのではなく、
自分の意思で出て 自分達で考えた事 自分達で練習した事



そりゃ世間の何もわからない中学生に特別賞は、調子に乗る 乗りまくる。


でも今考えると一番年齢の小さい歳
やったから的な枠での特別賞ですね?笑

(ちなみに遅いウインドミルをあんなスピードで回れたな?
って覚えております。。笑)

特別賞に入った僕らの勢いは落ちる事も無く


受験戦争も勝利

全員偏差値のひくーい高校の受験に成功いたしました。笑
(ジュンペイだけは前日ゲーセン(城)
って店に行って併願落ちましたけど。笑)


ある意味人生の道が決まった瞬間でした。


僕はぼけ&ツッコミのリーダーと言う事も合ったのですが、
当時ダンス甲子園終わってからはダンス自体の情報が極端に少なくなり、
大阪では唯一残っていたダンスダンスダンス



独自にもっともっとダンスが上手くなりたいが為 
そして仲間とともに今後も頑張りたいと思っていたので 


必死で情報を得て

ビデオを毎日見てダンスステップの研究
覚えては仲間に教える。


こんな事やっていたので、
賞を取ったという事実は、
自分の中で誰かに自分を認めてもらった瞬間で
僕の人生がダンスの世界で行くぞ!


って言うのが決まったんだと思います。

一つのちょっとしたきっかけで、
自分の夢が決まるって青春 や若さですね。


あの時挑戦していなかったら、
今頃何をしていたのか?と思います。笑


ダンスを毎日続ける日は続きますが、
自分がダンスを好きな気持ちとは裏腹に
ドンドン少なくなっていく情報



そして迎える新学期
学年が上がるのではなく
新生活が始まります。



仲間だったみんながそれぞれの高校へ
学校が変われば生活合うリズムが変わってきます。
(誰でが経験することだと思います。)

大切なダンスの仲間達  



初コンテストも終わり高校生になった僕達
プロダンサーへの夢はドンドン膨らみます。



実際この時プロダンサーと言う方が今程 
居た訳でも無くスタジオも無く
情報も無かったので、
何がプロなのか?と言う事を理解していない中


一番の近道はダンスを凄く上手くなる事が、
一番近道だと思っておりました。笑


コンテストなどはほぼ無い状態の中
目標も無くただただ毎日 
自分達のペースでゆるい練習をしてたと思います。


そんな時偶然発見した
まずはアベノベルタでの ”名人芸コンテスト”
とにかく何処でも出て行きたかった僕は名人芸コンテストに応募


そして又3ヶ月何も無いそんな状態でした。
今では考えれないでしょ?



そして僕たちの中で大きな進歩の兆しとなった。
”高校生限定ヒューマンダンスコンテスト”


高校生限定と言う事で同世代ダンサーと出会えて
しかもその時のゲストがなんとこの2チーム



インペリアルJBZ


スクラップ&トラッシュ出るしかないでしょ?

単純な僕たちはヒューマンダンスコンテストに
向けて全力で突っ走ります。笑



何も発散する事がほとんどできていなかった自分達は集中して練習
そうこうする内にこの日が訪れました


ダンスコンテスト当日
緊張のまま2度目のアメリカ村

(完全にチェーン持った人が
バンダナ巻いてハレー乗ってる人だらけと思ってた)

超緊張。
クラブアンテナの位置がわからない。


迷い迷いながら必死の思いで見つけたら入り口に
付近ポロシャツのマシーン原田(さん)みたいな。

(ナイトインナイトという深夜番組に登場していたので、
僕は知っておりました。笑)


コワー本物や ジャッキーチェンにてる ナイトインナイト出てた!

みたいなブラウン管の中のスターに会い緊張まみれ。
生まれて始めての足を運ぶクラブ

緊張と訳のわからないイメージで
コワー 絶対に地下室連れていかれるわ。
とか思いながら入っていきました。


中には、
自分達以外では見た事無い高校生ダンサー達が一杯いました。。


っていうても全部で十チームぐらいかな?
でも地元で細々とダンスをしていた僕達からすれば


10チーム○十人の数だけで
凄い数のダンサーに会えたと思い興奮しました。


コンテストの形式は
昼間に予選して夜から5チームだけが
決勝大会に出れるとかやったと思います。


僕らの出番。
多分ですよ


テクノの曲でホーシングしてブレイクちょっとしたと思います。
今日は2アンリミッテドのトワイライトゾーン(これは間違いない)

今考えればとんでもない選曲です。パラパラの元祖?笑


めちゃめちゃでしたがなんと予選通過しました。


予選と決勝大会の間に空き時間があり
一人の最強怪しいの金川君が話しかけてきました。


(この金川君今現在名物プロデゥーサーのキムさん 
あコトバタクミさんです。笑)


今も久々に会うと怪しさ全開ですが、
この当時黄色と黒のデニムパンツに鎖のグラフティの
アレンジをしていてこうな話をしてきました
(怪しいですよ。)


キ『なあなあ高校生?』
(高校生限定ですので)


キ『今度俺ら同年代でダンスの集まり作ろう思うねん』
(いいやん。)

キ『解りやすく言えば暴走族が集まって集会するやんそんな感じ。』
(解り易く言ったらイメージ悪くなってるし)

キ『よかったら連絡先教えてや。』
(完全に良くないでしょ。連絡なんかしてこないで)


と思いながら怖かったのエイジに話振りました。笑
(今見ると僕も悪ですねー。笑)

この怪しい男キムのお陰でバラバラだった同じ境遇の高校生ダンサー
知り合い交流を深める事になったのです。


僕達以外に声かけられたのは土居さん(ayaさん) 

永松めぐみ(メーちゃん) ガク シマダ ジュンさん
 
クロスM S Aってチームもいたな。
色々いたな。

肝心のキムのチーム名 
”東百舌鳥ダンススクール”やったもんな。ダサー。


俺らもぼけ&ツッコミやけど。笑


決勝大会 僕達 全然かすらず


優勝はG ON THE DOPE
(現 bebopcrew カヨちゃん)


ダンス甲子園終わって会う事の
出来なかったスーパーダンスチーム


インペリアル トラッシュ2チームを見れたお陰で
負けても大満足な一日でした。



そして本当の大きな成果はキムと言う人との出会い。
キムの存在のお陰で今大阪のシーンが
広がったと言ってもいいんじゃないでしょうか?
(後にもyokoi氏(wco)と知り合うのもキムの怪しい行動力)



後にキム達がスタイルオブを作り
僕らがぼけ&ツッコミ→後にBRONXを作る


今考えればわかる事なのですが、
こうやって広がった当時無名ダンサー達が出会った事で


自分達だけのシーンしか知らなかった自分達が本当の実力を解るきっかけになり
今後ライバルと思えるダンス好きと知り合えた事が一番の成果



凄いのは登場キムせよ ayaさん(土居さん) 
永松メーちゃん 
皆まだ20年経った今でもダンスの業界でいる事は本当に凄い事

そして後日キムの連絡から合同練習会が行われました。


場所は”大阪城公園”


今は全国でも売れっ子司会者 昔は超ドヤンキーケンサク氏登場


ヒューマンダンスコンテストが終わり
忘れもしません。
大阪城公園でキム曰く
”暴走族の集会 ダンサー版”開催のお誘いが着たので、
初めから全く乗り気が無く行く事になりました。笑



恐怖のキム主催ダンサー版って言っても出てきた言葉が暴走族の集会です
(たとえ話”下手 of yers”ですよね。笑)



おそるおそる僕達もぼけ&ツッコミのメンバーで行きました。


ダンスの合同練習会スタート。


7G
(このチームは大阪ダンディラのグランドチャンピオンになるチーム 現JAPAN)

メーちゃん 
土居さん 
ケイチャン
キムの東百舌鳥のチーム
俺らボケ&メンバー(トオルこの時身長140センチ未満 中三当時)
って感じで集まってみたら普通やん。と思いました。


自分達以外のダンサーと言える人と練習するは初めてなので、
意気揚々と練習していると


駅から極悪ヤンキーとしか
言いようが無い奴らがこっちに向いて歩いてきます。



物凄い異様な集団です。
リーゼントやし 
前歯ないし 
顔傷だらけやし 
ジョッパーズはいてるし 
ダンスする言うテルのに皮のローファー踵踏んでるし 笑



それが1人では無く5人もいました!


怖すぎです。


その怖い集団に上から寄っていて気軽に話す  キム

この極悪ヤンキーズ キムの後輩です。

この時一番初めに極悪ヤンキーズが先で
順番が逆やったら確実に僕らは駅着いた瞬間 


無かったものにして家にリターンでしょうね?笑


極悪ヤンキーズの中に


画像2

皆さんご存知MCケンサクがいました。



ケンサクも例外では無く120パーセントヤンキーでした。笑



ダンスはクラブ(ステップの方)
バク宙


この曲でヤンキーズ肩組んで円陣になりクラブステップからのバク宙
と言う事でした。

音楽はこれ
ちなみにチーム名はブラックスフィンクス
(大人のおもちゃ級の名前?)

ただ見た目は超怖いですが、僕達の一つ下だったので、

上下関係しっかりしているので、
丁寧に接してくれていたように思います。笑


合同練習会集まる事 

練習会の回を重ねる事で深まる友情

衝撃のケンサクとの出会い
何より同世代の仲間達との出会いは
自分達の未来  
ダンス上手くなりたいと言う事を踏まえ
様々な知識や経験を身につけて行ったと思います。
 

今思えば約20年経ってもこの歳までダンス続けてる
仲間がまだシーンに残っているなんて思って無かったです。


僕達 皆も同じような境遇で同じような年齢の仲間が出来た事で


ダンスを通じて負けれないライバルが、初めて誕生した瞬間でした


6話 ”仲間との別れ”


僕自身ダンスを上手くなるだけに自分の生活の中心を定め

色々な所にダンスで繋がった友達が増えクラブにもちょっと慣れた頃

高校卒業という事で別れの季節が訪れます。
(ちなみに高校は凄く真面目に毎日行ってました。笑)


誰もがある事だと思うのですが、4月になり新生活を迎え生活リズムの変化で

ダンスをやめて行く
18歳の4月ここより3ヶ月以内に
ぼけ&ツッコミメンバーの大半がダンスを辞める事になりました。


僕らの時は2つに理由があり
ジャンルの確立された事 
これも小さな要因だと思いますが、シーンの事だけ掲載させてください。


前ほど自由な好きに踊るスタイルが、無くなり
ジャンルが確立されだした頃
自分の好きな事出来なかったのもあるのでしょうね?



僕の元には92 3年当時アライブTVって言うビデオが入ってきて
ダンス自体NYスタイルのヒップホップ一色になりかけてました。
僕も当然HIPHOPやってましたよ。ぐにゃぐにゃの色々動く奴。




POLO着て。 それもぼけ&のメンバーには辛かったと思います。
メンバーはトオルを含め皆ブレイクが一番したかったみたいだったので。


リーダーの僕のやりたい事でコンテストなどに望むので
皆本当にしたい事も出来なくなっていたんだと思います。

>最大の理由



理由は就職です。
(ダンス辞める人一杯いますが、
辞めない人辞める人共に考えてくださいね。 )



学生だから出来た
学生だからダンスしても良かった。

親もそんな遊びいつまでやってるの?
安定した生活をしなさいと言う事を言ってきます。


今まで仲良くして
目線は同じ目標を持っていた仲間でありチーム



就職すると言う事で責任があるんですね。


僕はダンスが全てだったので、
ダンスを辞めると言う事は一切考えなかったですが、

他のメンバーはどちらかと言うと、



僕がしていたからダンスをしていたと言う事もあっただと思います。


18歳 
就職を機にそれまで
一緒にぼけ&ツッコミの仲間がダンスからドンドン離れて行きます。

18歳って色々できる歳なんですよね
車の免許取れたり 色々な規制が無くなったり
僕と仲間のダンスへの心はドンドン離れていく。



辞めていくメンバーに寂しさから
逆の事言うんです。
『お前等ダンス辞めてしまえ』的な事
言った覚えは無いですが、行動や態度に出ていたんだと思います。



本当の事言えればいいんですけどね。

『寂しから辞めて欲しくない』
言えないです

18歳なんですね。

18歳なりにカッコつけていたかったんです。


辞めていく仲間に対し若いと絶対に
自分のことしか考えれないから強く言ってしまう。



強く言うと逆効果。
ダンス以前に人間関係が崩れてしまいます。


趣味でも続けてもらえるようにしておけばいいんです。



でわ気が変わるって事もあります。
本心は辞めていく奴を見ていくときは悲しかった。



練習場所にいつも見る顔

いつもの会話
いつもダンス
何処を見ても前のようにワイワイ賑わっていません。

寂しい 


それぞれ進む道があり
夢があり 目標があり
自分で決める時が来る


自分の本当の気持ちがわかるんです。

ダンス辞めていく奴見ても
ダンス辞めようとは思わなかった。



自分はダンス好きやったから
人の為にやっているのでは無く
自分ガ好きだからダンスをやっている。


ダンスは好きでしたが今の自分から考えればブレイクせずに
HIPHOPそしてハウス(一年半ぐらい)いたしました。


僕はブレイクからドンドン離れて行きます。笑

何故ブレイクじゃない?のって思われるかも知れないです。
それは大阪にブレイクシーンほぼなかったんですよ。


誰もいないぐらいの勢いでした。
一番の理由はれいかんやまかんとんちんかんを
見てダンスを始めようと思う衝撃程


カッコいいの見た事なかったんですよ。


人生を変える衝撃の一瞬

ぼけ&ツッコミのメンバー皆辞めて残ったのは

僕とトオル

周りの知り合ったダンサーの
皆上手くなる中俺はハウス踊るって言う。
まあ最悪な環境の中
(HIPHOIPとハウスで弟子迄出来る始末)



絶対に辞めずに踊ってました。笑

何故ブレイクに??


なぜ?ブレイクを選んだのか?

ホーシング→HIPHOP→ハウス

そしてブレイクへ


きっかけは二つあります。

一つは周りの知り合ったダンサー達が活躍始めたです。

横井氏 リュウイチ氏はEXIST 

土居さんは7Gで色々なコンテストに入賞するわ。

怪しかったキムは、ハナちゃん達とNEEDSってチーム作るわ。

皆が物凄いスピードで輝きだしました。


そんなみんなを舞台の下から眺めていた自分がいたんですね。

いいなー。うらやましいなー。

本心は身震いする程悔しかった


下から見ているけど自分はってなるでしょ?

凄い焦るんですよね。

どうしよー。って


焦る事でどうにかなる訳では無いのですが、焦るんです。


簡単な答えは

客観的に見ると解る事で

自分も頑張っている人ぐらい練習すればいい

って思いそうですが、


自分が焦る側だと気が付かない。


むしろ他に理由を探したりしてしまったりするんです。


負のスパイラル


悔しい思いをして焦っている時にその時もう一つの理由

情報が超少なかった時代に

原田さんから頂いた

ブレイキンナイト2って言うビデオを見たんです。

衝撃的でした。

ROCKSTEADYCREWの日本支部になったときのイベントだったと思うのですが、

僕のダンスの原点になった人の一人のチノサンがROCKSTEADYの外人相手に

負けず劣らず 同じ外人部隊の一員になっているように見えて

人生2度目特大インパクト


自分がしたかった事がやっと見つかった瞬間でした。
映像よりかなり後なんですが、凄すぎました。


迷っていた自分に大きなハンマーでガチーン殴られた程の衝撃で
俺にはブレイクしかないな

ただブレイクってなったのはいいですが、それまでダンスはしていましたが、ブレイクはほぼや
っていなかったので、僕には天才トオルとの差は大きすぎた。


トオルはブレイク暦5年とかで僕はダンスはやっていても
ブレイクは全然やってなかったのですからもう最悪です。笑


歳は多分18終わりぐらいです。

初め二人 僕とトオル
頑張りますが差は埋まる物ではないです。


信じれない話ですが、ちなみにこの時代 

ぼくとトオル2人以外 
大阪にはブレイク専門にやっている人は居なかったです。
大阪に全くイベントが無かった時期を越えて少しイベントも増えて
ディライトは4 5回とかでして
TRUESKOOL と言うイベントが出来た頃かな?

今では人気イベントTRUESKOOLですが、
僕は第2回から挑戦していたのですが、

初めは3チームとかざらにありました。笑

僕達ぼけ&ツッコミ二人で
TURE SKOOLは優勝するまでも何回も出ました。


出場3チームの内ブレイク2チームで負けた事
2チームで負けた事もあります。



TRUESKOOL始まって少ししてから
原田さんがスクールも始めたと思います。


その生徒の中でとんでもない女が現れました。
ピカイチ 舞ちゃんです。

女子で僕より遥か上手く原田さんとルーティーン合わせていたので、
彼女も天才少女だったと思います。
(変な髪型してましたが。笑)


大阪にほぼ存在しなくなっていたブレイク

原田さんのブレイクレッスン
僕達ぼけ&ツッコミがブレイクのチームになり
ブレイク自体をやる人が徐々に増えたのを感じる事が出来ました。


ぼけ&ツッコミも目指すものが見つかった事もあり、
飛躍的に躍進できたと思います。


今では考えれないことだと思いますが、

ほぼ2人でやっていた大阪のブレイクシーンも 
山下やカラテカ ヒデ等少し人が増え

少しづつ大阪のブレイクシーンが作り上げられていきました。


 ”1度目の挫折”です。


大阪にブレイクをする人が徐々に増えだし
二人で活動しているぼけ&ツッコミメンバーを増やそうという事で


新メンバー天才 少女 ピカイチ舞ちゃんが入りました。
そして僕がHIPHOPをしていた頃に面識のあった 
キャラクターのある男


ヒデも入りました。
キャラクターの濃い面子の二人が入り新たな活動が始まります。


二人の特徴を説明すると

ヒデ 身体は小さいが運動神経がいい 身が軽い

舞ちゃん この時大阪で誰よりも一番フットワーク系出来た人です。
(実は完全に芸人オタクです。)


メンバーを増強し今からやるよ。と言う時に


JAPANの第一回目を開催して僕の周りでいた人はほぼ全員出てました。



自分だけが出れ無かったので最大の屈辱でした。


出れなくて悔しい気持ちを胸に

無言のまま舞台の下から
舞台の上で輝いている仲間の勇姿を、歯を食いしばりじっと胸に
焼き付けておりました。

新たなぼけ&ツッコミ

メンバーでどうにかJAPANに望める凄い
チームを作っていこうと胸に決めた瞬間です。


メンバーは皆上手いんです。
僕だけ他ジャンルばっかりやっていたのでブレイク全然出来ません。

ただ悲しいければリーダー(年齢だけで)なんですよ。

そんな時こんな声が聞こえてきます。

『カズリーダーやけど一番下手で足引っ張ってるやん。』


自分でも感じてました。
十分解っていました。

自分自身この言葉を聞いた時

ムカつきました 
泣きそうなりました 
でもこれ正直自分でも認めるしかありません。

けど他の人に言われると真実 そして現実なんですよね。


認めざるを得ません。


誰に言ったらいいのか?解らない
どうしようもないぐらい悔しかった。


これ程衝撃をある言葉
そして挫折した言葉はないです。
ってぐらい自分の中で爆発しました。

今考えればこの言葉が無かったらダンスは辞めているでしょうが、

悔しい想いが人を成長させるんですね。



それまでフラフラ色々なジャンルを渡り歩いていた自分


18歳後半
真のブレイク人生スタート。

負けず嫌いは人の倍以上なのでやるしかないです。



ブレイクのスタート台にたった訳です。
スタート台にやっと立った自分がまずはやる事は

遅れた分皆との差を取り返す為にどうすれば差を取り戻せる? ?



ここを非常に考えました。
結果全てをダンスに捧げよう


誰よりも練習すればいいと言う


言葉にすればこんなに簡単な結果になりました。


ただ自分的には他とは違います。
とにかく生活の全てをダンスに向けたので、
普段は毎日ビデオの動きを見て全部パクルつもりでやっていきました。



ビデオからパクルのは情報が少なかった当時の延長だったのか?
ただパクルだけでは無く、

頭の中でパクッた動き同士を繋ぎ合わせたりで自分の動きになっていきます。


僕の中で
誰の動きかわからない小さい部分ばっかり繋ぎ合わせるので、
気が付けば自分の動きになっていました。



(こういうビデオを毎日片っ端からみてました。)


自分の向かう方向を全部変えたお陰で遅れてた差は
少し回復出来たのではないでしょうか?


自分の運命と言う物は
自分の行動次第で変わっていくと、

変わるの待っていると何も起こらない
自分の力で変えるのだ!!


誰かが言った
『カズリーダーやけど一番下手で足引っ張ってるやん。』


この言葉を受けた時の衝撃は凄かったですが、
この言葉があって
もう一つあった大きな言葉
”横川さんの言葉”

人生を変えたコンビ二の兄ちゃんの言葉LINK


この二つの言葉で決意を持って
ダンスに挑めたと思います。


挫折って僕は大事だと思います。

人生で味わった大きな挫折は4度あります。
(4度目は去年末なんですけどね。笑)

挫折は自分の今の状況を気付かせてくれる大切な瞬間だと思います。

挫折する事で

悔しい思いをする事で人は成長すると言うのを実感出来たときでした。

挫折から立ち直り 自分に向き合い本気で挑戦する事になった自分


ここからぼけ&ツッコミがブレイクチームとしての活動が本格的に始まります。


”ぼけツ上手なったなー”です。


僕がリーダーとして練習内容を変え 
練習量を増やした事でチームに活気が溢れます。
この時リーダーの存在はこうあるべきだというのを教えて貰った気がします。


勝つ為に色々と考えた結果
こうなりました。


勝っているチーム
負けているチーム
分析 比較

そのデータを客観的 
客目線 審査員目線で分析する

こういう事を繰り返し


自分達がここならば勝負できると言う強みを見つける。
新ぼけ&ツッコミになって初めて音を自分が指示して作って貰ったのですが


ディライト9
その甲斐あってか?
ぼけ&ツッコミがダンスディライト9で特別賞に入りました。


正になせばなる。ですね!!


93~94年頃のダンスシーンはHIPHOPとハウスばっかりだったので、

今程オールドスクールする人居なく
ブレイクはぼけ&ツッコミ以外は居なかったです。
(関西以外のにはいたと思います。)


今冷静に考えれば実力では無く珍しかったからかも知れないですね。笑
ただ一つの勝利が人をこんなにも変えるのか?というぐらい


もっともっと寡黙に 
色々調べ上げJAPAN出場を目指しました。


ちなみはこの特別賞は僕たちに取っても 
この後のシーンに思わぬ影響を生みました。
(このビデオでニットやシンはブレイク始めたみたいです。)



その頃から少しづつ言われるようになります。
『ぼけツウマなったなー!』と言う声


やっと当時知り合ったダンス仲間でありライバル達と一緒の
スタートラインに立てた気がしました。


そんなある日
名古屋のディライト観戦に行った時
当時アメ村のビックステップの裏で練習してたら
訛りだらけの超田舎者の方が話しかけてきました。

『踊っているのですか?僕もダンスしております。』的な事だったと思います。

名古屋の会場にいたらその人居てるじゃないですか?

しかも”出る”とか言うてるし!!

知る人ぞ知る 北陸と言えばあの人
スペシャルK 北野さんです。笑 



ディライト地方予選に名古屋に来て
タマタマ僕たちを見つけて又声をかけてくれたんです。



北野さんのチームメイトに
日本のBBOYシーンに今や欠かせない男がいました。


山村 たけし


誰かわかりませんね?
曲をどうぞー。

こうすると解りますかね?

今や世界的に活動するスーパーDJ‘DJ TEE‘
 山さんがいたんです。


山さんに会った瞬間言われました。


『ディライトの9見て”ビデオから音落として練習してる。” 』
(ビデオから音落とすのは時代ですね。笑)
めっちゃカッコいいと言ってくれました。



ちなみに屋外のアスファルトでの屋外イベントだったのですが、

北野さん 山さんの乗って来た車のトランクにダンボールがあるので、
すぐバトルしようと言う流れになりました。笑



根っからのブレイカー同士です。
(当時BBOYと言う言葉は日本では皆無でした。)

山さんとの出会いが無ければ
自分達の未来は無かったと言っても過言では無いです。

僕の中で人生で身近に話せる人で

初めて曲をきっちり繋げるHIPHOPの文化をわかった人との出会いです。



名古屋で出会った山さん
大阪が実家だから大阪まで車乗せて帰ってという流れになり

大阪までの車中で仲良くなり
『又踊りましょうね』なんて言うてたら
富山から大阪に帰ってくる。 と言う話に


山さんブレイクも上手い。
DJも出来る
こりゃ ぼけ&ツッコミに入ってもらうしかないでしょー。

この出会いが大阪シーン 
日本全国のシーンに多大な影響を与えたと絶対に思います。


何故なら僕らのチームの音は元より 


やすらぎ (WCOのドミニク ショウヘイのチームです。)


他の有名所など


元々情報が無い時代の情報を収集していた僕に
曲を自分に思い通りに曲を作ってくれる
最強ブレイクDJがタッグ組んだ。


この二人の出会いは大阪ブレイク新時代の幕開けだったと思います。
山さん入った途端


いきなりディライト10 なんと二位になりましたよ。
昨年舞台したから指をくわえて見ていた

僕もJAPANの舞台に立つ権利を得ました。


僕とトオル二人から始まった大阪ブレイクシーン
ディライト
そしてこの当時レギュラーレッスンを大阪で始めた事もあり

ポツポツブレイカー増えてきました。


(その前にはレギュラーレッスンの前には、
 初め小さく滋賀の彦根のモリヤサンの所へ 
月1でレッスンに行っておりました。)

モリヤ氏

滋賀レッスンにはNAOTO君
(MRNのパパ)

グンジョウ(滋賀の彦根) 

等がきていました。笑

後に大阪のレッスンには一撃のメンバーや当時を代表する面々が着ていたとおもいます。



どうですか?歴史と言った感じでそうそうたるメンバーでしょ?
(この人達にいずれバトルで苦しめられる訳ですが。笑 )

ぼけ&ブレイクでの活動が上手く波に乗ってきた頃 

上手くなったナオト君がメンバーに入り 
いつの間にかヒデは消息不明。

辞めていった中学メンバーも
ちょっと復活したりしておもしろくなってきました。


ブレイクシーンが少しづつ形になって来ました。

目標も見えました。
よっしゃーて思っていた矢先
とんでもないチームが日本のシーンに現れます。



次号 ”奴らの名前はエレクトリックトラブル”

”奴らの名前はエレクトリックトラブル”


今やエクペディアのCMでも超話題の
レッキンクルーオーケストラの前身?チームと言うのですかね?

エレクトリックトラブル 



誕生秘話は本当のメンバーにお聞きするとして

僕達外側からの客観的な目線で書かせていただきます。

初めてSHOWを見たのは1996年前後

アドヒップの何かのイベントだったと思います。


当時の大阪の若手で上手い人を上げて言ってと言われたら

間違いなく入るメンバーばっかり。

EXISTから

YOKOI氏 BONちゃん


やすらぎからショウヘイ

UNITY OVERDOZEから 当時のあだ名は長居の神様 キューちゃん


ドンタクのマッサン


各リーダーが集まりました。
(ちなみにこの当時ドミニクは居ません。)

初めて見た印象は


あれだけブレイクで行くぞ!と決めた自分をHIPHOPやりたいなーって思うぐらいの

衝撃と興奮 素直に感動しました。

それと同時に卑怯やなこのチームは。笑
(別に卑怯では無いのですが、強すぎでひがみました。笑)

それほどとんでも無いドリームチームが完成してしまいます。


そしてドリームチームを束ねるのが、僕の同世代で踊っていたYOKOI氏


ちょっとーおっさん待ってよそれー。って感じです。笑


出る度に期待感を遥かに超える物を見せてくれる。


何か教科書があってのチームでは無く

その時代に全く無かった色のチームで

毎回凄いアイディア力に

こなせるだけの技術があって

ダンスシーンの中に新しい文化を創ったチームと言っても過言では無いでしょうね?


YOKOI氏 キュー氏 マッサンのSHOW


エレクトリックトラブルと言うチームが居て

憧れ 注目の的ですが、僕達他のチームは倒さないとダメな目標で

それは絶対追い越せないであろう巨大な壁だったのを覚えております。

打倒エレクトリックトラブル

これは当時自分達現在 
33~38ぐらいの当時若手の人は皆さん思っていたこと出ないでしょうか?

普通に考えてあれは倒せないですよ。

全く隙無いんですから、

上手いのに上手い人集まって練習するでしょ?もう一つ上手くなる

何よりダンス好きの集まりだからドンドン上手くなる


僕ら外野の戦う側から見たら悪夢と言う他ありません。笑

何度思ってもあれは卑怯でしたね。笑

僕も絶対勝てないとは思ってましたが

負ける勝負でも勝てる勝負でも自分達と土俵は違うので、

打倒エレクトリックを胸に練習に励みました。


直接対決は
BEST OF BESTと言う

アドヒップ主催の3回で終わった?コンテストで

内容が

HIPHOP LOCK ブレイク フリースタイル HOUSE

かな?5ジャンルの中での優勝を決めて

5ジャンルの優勝チームの中から総合優勝を決めようというもの

エレクトリックは絶対に優勝するであろうとは思ってましたが、

自分達ぼけ&ツッコミも1ジャンルは制覇し

同じ土俵に立ち 自分達の今の力を確認したかった。

どれぐらいの差があって どれぐらいの努力が必要なのか?

一矢報いたと思えるような事をなんとかしたっかった。

結果ですか?笑


聞きますか?笑


僕たちはジャンルの大阪で若手ブレイクチームの走りとしては1位は獲得出来ました。

ただやっぱり総合優勝はエレクトリックトラブル


ぼけ&ツッコミからすれば最高傑作の作品が出来ました。

当時僕の感触では、2位だったと思います。
(自分の感触です。)

2位が50点 優勝 100点ぐらいの差があるぐらいかな?



BEST OF BESTの映像。


打倒エレクトリックの気持ちが固まった頃

BEST OF BESTを
最後にぼけ&ツッコミのコンテスト出場は無くなります。


”ぼけ&ツッコミ解散”

こんな時が来るんですね。

せっかく流れに乗って来たチームです

でも初めがあれば終わりがあるんですよね

いい時は永遠に続けばいいと思える時

チーム解散のきっかけ

チームダンスで勢いがついてきた自分達でしたが

SOLOの弱さは定評がありました。笑

そしてディライト2位と言う実績を引っ下げ挑んだコンテスト

当然優勝を狙っていきました。

当時東京の若手BBOYの代表チーム

フリーズがこのコンテストに出場いたしました。

チームワークでコンテストに勝てるようになった自分達

フリーズは個人技で見せれるチーム

SOLOで踊れるブレイクの本質だと思います。

コンテスト優勝はフリーズ

東のフリーズは西のぼけ&ツッコミとバトルを挑みに着ていたんです。
(テレビで浅草橋ヤング洋品店の企画で両チームが比較させていた風に思います。)


SHOW的にこんな感じでした。

ちなみに今のようにバトルイベントが無かった時代なので、

殺(や)るか殺(や)られるか?
みたいなバトルだったので


僕はこんな上手い奴らフリーズとは全く戦えないと思って逃げました。


逃げると言うのは自分で選んだ選択なのですが”自分で選んだ最大の屈辱”以外のなにものでもないです。

バトルしていたのはトオルだけだったと思います。

かっこ悪い自分でしたが

一つ大きな疑問が残ります。

大阪のコンテストで勝つやり方あっているのか?

SOLOで踊れなくてダンサーといえるの?
(ルーティンしか踊れないダンサーって言うのの走りですね。)


SOLOで戦えない自分の想いとは別に

大阪はコンテストだけある時代

どこかで半信半疑でした。

コンテストを目指すと言う流れと

バトルから逃げてしまった自分の中では

大きな食い違いが生まれます。


コンテストも出るからには勝ちたいですが

気持ちがSOLO踊れるようにと思っているのだから勝てるわけ無い。


他にも色々な要素があるんだと思うのですが、

間違いなく自分の空回りが初めのきっかけになるんだと思います。

坂道を転がりだすと解散に向かって進み始めます。


それまで普通だった練習が普通では無くなり

ちょっとした事が全てマイナスに見えてしまいます。

ネガティブな想いがネガティブに考え

ドンドンはまっていく

ドツボ。

チームは無くなるまで解らないのですが、

無くなってから本当に解ります。

自分に取っての本当の大切さ

仲間の存在

ぼけ&ツッコミ作った頃

夢溢れた中学生の自分

はじめた時からから20までダンスを続けているとも思わなかったダンス

人からすれば たかがダンス

されどダンスしかしてこなかった自分に取ってダンス自体が人生であり

ダンスしか無い自分


チームの存在は本当に大きい存在だったのですが、

ブレイカーとして一人で戦えない自分に嫌気がさし

このままぬくぬくとしていたら

先が無いなーと思い自分が抜けると言う道を選びました。


チームメンバーから出た解散話では無く

自分がみんなに『俺 ぼけ&辞めようと思います』と伝えました。



そしてこの後僕が抜けた事で事実上ぼけ&ツッコミは解散を迎えます。

1年もたたず戦えるようになった当時の自分です。

SOLOで戦えるようにと言う思いを持って辞めた自分

チームは大事ですが、ダンサーとして生き残る為

自分が出した答え

結果として

ぼけ&ツッコミ解散



一つの物語が終わり

新しい物語が始まります。


俺のダンスの生い立ち
ぼけ&ツッコミ編
第一部完


あなたが記事を読んで何か為になったとしたらお気持ちをおひねりとしていただけると嬉しいです。