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【小説】ホタル

せまいアパートの一室で。瞳から成って、頬を伝い、顎の先から、透きとおったようなその一粒が、落ちる。あの時、瑞葉が言ったとおりの方法で、いま、ぼくは精神と生活から解き放たれようとしている。神さまなんて信じていなかった、あの時。

***

「辛いことがあった時はね、自分のためではなくて他人のために哀しんで、他人の幸せを祈るようにして涙を流すの」

「なんで、そんなことを?」

瑞葉は、こうして不意に持論を展開しはじめることがよくあった。しかも、ごく普通の人のように、酒の席で意気揚々と語りだすのではない。それは、朝食を食べている時に、テレビを見ている時に、ベッドの中で、とても真面目で日常の時間にかぎって、瑞葉は語りはじめた。

ぼくは瑞葉のそういうところを面倒くさいと思っていたし、そういうところを好きだった。

「人は人どうしで勝手に愛して憎むけれど、愛や憎しみが心を伝いあうその連鎖や関係性は、神さまが作ったシステムなの」

「だから?」

下手に無視するより短く適当な相槌を打ったほうが、瑞葉の演述が早く終わることをぼくは学んでいた。

「辛いあなたが、自分を哀しむんじゃなくって他人の心を哀しめば、ただの人間の心の連鎖からあなたは外れるでしょ。それは、人間よりも、ひとつ高次の存在になれるということなの」

瑞葉が語る内容は決まって観念的で、理解しづらいものだったが、それは瑞葉が家族ぐるみで、ある新興宗教に入信しているためだった。

瑞葉は5歳の時に洗礼の儀式を受けていて、それ以来、休日は欠かさず、宗教支部で行われる集会に参加して祭司の講話を聞いている。

こうしてスピリチュアルな内容を説教することも、幼少期から神事に接しつづけている瑞葉にとっては日常の一部なのかもしれなかった。

***

その落ちる一粒の気配を、ぼくは見つめる。この、ぼくの涙は、ただの人間の生理的な液体とは違うもののはずだ。ぼくという高次の存在から、一粒、離れた、生命だ。だから、落ちる涙がわた毛のような柔らかさと軽さを持った魂になって、やがて光りだして一匹のホタルになっても、ぼくは、どうとも驚くことはできなかった。

***

ホタルとはいっても足や翅を持つわけではなく、いわゆる昆虫のそれとは違うものだった。せまい部屋をゆうゆうと飛びまわり、時々きまぐれに、散らかったテーブルの上に留まったりするそれは、ただぼんやり光る小さな光球のようだ。ぼくは、ちいさく光って飛び回る生き物をホタルと妖精しか知らず、妖精は信じていたけれど目には見えないものだと思っていたから、きっとこの生き物はホタルと呼ぶべきだと思ったのだった。

ホタルはアパートの部屋をほのかな灯りで照らしてまわる。衝動買いしたコーヒーサイフォンや、常に電源が点いたままのノートパソコン、巻数も種類もばらばらな本棚のマンガ本。なんとなくホタルを目で追いながら部屋の中のものを見ていくうちに、なんだかこのアパートのこの部屋は、まるで人間が生活している部屋のようだと思った。ひとつひとつ、ホタルは宙を飛びまわり、着実に部屋中を光でマーキングしようとしている。もう何時間もあれば、ホタルの光はぼくの部屋を塗りつぶすようにマーキングしきるだろう。何時間かで照らしつくされるぼくの生活の有限性には、ぼくは見て見ぬふりをしたかった。

***

瑞葉とぼくは、偏差値がそこそこの大学の、なにげないフットサルサークルで知り合った。瑞葉は人間関係を築くと、まず宗教の集会に人を誘ってしまうので、サークルの集団の中ではなんとなく敬遠されていた。しかし、一度断られたらもう勧誘をせず、人付き合いをそれなりに続けられることと、意外なことに、とてもフットサルがうまかったので、完全に孤立するほど集団で浮いているわけでもなかった。

普通の人間は、一度落ちたら戻ってこれないような宗教の底の深さに怯えて、瑞葉のような人物と距離を置こうとするのだろう。しかしぼくは、宗教などは自分と関係のないもので、自分は神さまなんてものを信じないと思っていたから、ただの女の子として、瑞葉と接した。瑞葉と初めて食事に行った時にも、ぼくは一生神さまを信じることはないけど、と前置きしてから彼女と付き合い始めた。

ぼくが神さまを信じないことについて、からかいついでに、瑞葉にどう思うか聞いたことがある。

「あなたのことを窮屈な人間だとは思うけれど、それ以外のことはなにも思わないわ」

真面目な顔で、瑞葉はそう返した。窮屈、という瑞葉の言葉にぼくは反駁する。

「神さまなんて信じて、儀式やなんやらに縛られている瑞葉の方こそ窮屈じゃないか。ぼくは、瑞葉に比べたら精神的にはとても自由だろ」

「それは違うわ」

瑞葉は、相手に反論することを、いつも、恐れない。

「人間は、自分がとても不自由であるということに気づいてないの。憲法や教育は人間を自由だなんて教えて聞かせるけれど、それならあなたは、毎日を好きなように過ごしていられるの。嫌なことや、しなくてはいけないことの連続じゃない、あなたの生活なんて」

「それがどうして、神さまを信じないとぼくが窮屈だということになるんだよ」

「見て、触れられる広さがあなたの世界なら、あなたの世界は、たかが生活の広さだから。日常の外の世界を信じて想像することは、三次元宇宙の外側まで眺める、ということよ」

瑞葉にそう言われて、ぼくは、自分の生活の広さを想像してしまう。大学の講義にはもうずっと出席していなくて、もちろんサークルにも行っていなかった。たまにアルバイトでお金を稼いでは娯楽にお金を遣う、ただそれだけの生活だった。

瑞葉の言うとおり、それはとても窮屈で、ぼくは瑞葉の演述を初めて理解したが、それでも自分のプライドを守るために、「宇宙までだされちゃあね、議論にならないや」と会話から、逃げだした。

***

音もなく飛び回るホタルの動きは、自然ではあったが、幾何学的だった。ホタルが飛ぶことに意味を見出そうとすれば、それは、星座のように、美しい自然現象に人間的嫌味をつける、ただのエゴだろうと思った。だから、ホタルを、ホタルが飛ぶままに、放っておいた。アパートの部屋も静かで、ぼくの生活全体が、ホタルを、わざと無視している。薄茶色のレースカーテンは空気が動かないのだから揺らめかず、目覚まし時計はデジタル式で、一秒の音を刻まない設定になっていた。ぼくが動かない限りぼくの生活はなんの運動もせず、なんの言葉を発することもなかった。その狭さと可能性の無さに、ぼくは救われてもいた。

ぼくは戸棚からウイスキーの瓶とグラスを出してきて、少し、注いだ。雑然としたテーブルの上で、グラスにウイスキーが、嵩を張る。ウイスキーは、意地悪く笑う琥珀色で、まるで裏切りの余地を残すくらいに、半透明だ。そして誘うような、香りがする。そういう液体が、ホタルとぼくとの関係には合っているような気がした。つまるところ、ぼくは、ホタルを、信用してはいなかったのだ。たかが、ちいさい光球が飛びまわったところで、この生活の狭さの、何が、どう、変わるというのだろう。

そう思った時だった。ちょうど真上を飛んでいたホタルが、急に死んだように揚力を失くした。そして、グラスの中のウイスキーに、垂直に落ちた。不思議と飛沫は上がらず、波紋さえも揺らがない。ホタルは、まるでそうあるべきかのように、ウイスキーの液体の中に、なめらかに、沈殿した。ホタルは、グラスの中であめ玉のように丸く沈殿しながら、光っている。そして、陽炎のような光をもや・・|のように発して、溶けはじめた。

ぼくは、ゆらゆらとホタルが溶けめく様子を、ただ眺めていた。何か、ぼくが介入できないような、儀式的な自然現象が起こっていることだけは、ぼくにも分かった。

やがて、ホタルの光は溶けてウイスキーの液体と混ざりきり、グラスの中には、少しの粘性を持った液体が、琥珀色が少し濃くなったような飴色で、本心を隠すように、にぶく、光っていた。もう、変化は起こらない。この液体は、とろとろと、にぶく光って、次の何かを待っているようだった。

ぼくは気づいてしまう。この液体は、ぼくが飲むのを待っているのだと。

全身が細かく震えはじめた。怖かった。この液体を飲めば、もう帰れないような気がした。ぼくには、窮屈だけれど、まだ帰ることのできる生活があった。それを捨てられるのか。ぼくは神さまに試されていた。

目をつぶる。ぼくの生活を想う。ひとつめにアパートの部屋。ふたつめに仕事。みっつめの瑞葉はもういない。この、ふたつ。ぼくの生活。たったこれだけか、と息を漏らすようにだけ、すこし笑って、ぼくは、その液体を飲んだ。

***

追い出されるようにして大学を中退してから、ぼくは製菓工場でアルバイトをして、毎日クッキーを見つめて生活をしていた。加熱装置から出てくる何千万のクッキーを視認して、何万個に一個の不良品――それは、焦げついていたり二つのクッキーがくっついてしまったりしている――を取り除く。それは、とても単調で、精神力を削がれる仕事だった。自分で取り除いたクッキーは簡単な報告書に記入をしたあとに持ち帰ることが許されていたが、ぼくはそのクッキーを食べることなく、アパートの前の公園に埋めることにしていた。クッキーを口にするたびに、自分に不良品のかすが溜まっているような気がしたからだった。

ぼくにはもう、瑞葉しかなかった。大学を辞めてから、瑞葉は、少し見下したようにぼくに接するようになっていたが、それでも、ぼくは瑞葉との関係だけは大事に守ろうとしていた。瑞葉の演述も多くなっていたが、それは、宗教の名を借りてぼくの現状や人格を否定したいだけの内容だった。それでも、ぼくは瑞葉の言葉を恭しく受け取っていた。瑞葉に寄りかかりたかった。瑞葉を、信仰していた。

それでも、瑞葉は神さまではなかった。それに近い何かでもなかった。宗教に入信していること以外は、瑞葉は、ただの、若い女だった。だから、大学を卒業して、大きな企業に就職した瑞葉がぼくを見限ったのも、しごくありきたりな理由からだった。

「あなたは悪い人ではないけれど、それでも、将来性がないでしょ。大学も辞めてしまって、やっていることは工場のアルバイト。とてもじゃないけど、付き合ってはいられないわ」

ぼくを呼び出したカフェで瑞葉は、そうぼくに言い放ち、ひとり、帰っていった。そしてぼくは、ぼくのアイスコーヒーと、瑞葉のカフェモカと、ぼくの生活に取り残された。何も、寄りかかるものがなくなってしまうことに、ぼくは恐怖した。

その日からぼくは、神さまを信じようとしている。

***

生活を捨てて飲んだその液体は、熱をもって喉を通り、芳醇な香りが鼻に抜け、しかし、ウイスキーだった。

ホタルなんていない。

午後6時。工場の夜勤に出勤するまであと5分。ぼくは嫌になる。毎日神さまがいることについての妄想をしても、出てくるイメージはホタルばかり。小さな光が飛び回るくらいしか、ぼくには想像力がないようだ。そして気の利くことに、どんな妄想をしても、仕事の時間がくればホタルはいなくなる。錆びた換気扇から外に出てしまうか、テレビの光の中に吸い込まれて同化してしまうか、徐々に小さくなっていって最後に消えてしまうか。

所詮、ぼくは現実に生活をする人間だと思い知る。狭い生活にも、それにある程度満足している自分にも、ぼくは、腹が立つ。上下と前後左右が壁で囲まれているだけの空間に、のうのうと生活し続けられる自分に情けなくなる。何が、他の人間より高次の存在だ。あげく妄想するのは、ちいさな、ちいさなホタル。年収が同世代の人間の半分でも、ホタル。クッキーの不良品を見逃して上司に怒鳴られて、ホタル。家族も、彼女もいないのに、ホタル。なんてちいさな光、ホタルが飛び回るだけ。どうせ、妄想するくらいなら、理解できないような値段のフルコース料理を出せ。美しい大自然を出せ。瑞葉を返せ。出来ないなら、光の球しか出せないなら、太陽のように大きな光の球に、地球を呑み込ませろよ。いや、宇宙が何万個も入るような、大小の概念を超越しているような、光の球を作り出せよ。三次元宇宙の外側を眺められるんだろう、ぼくはさ。

ぼくは神さまを信じている。信じているけれど、それはホタルでしかない。ちいさくて、ゆうゆうと飛び回って光っていたりして、自分の近くにいるけれど決して役に立つようなものではなく、生活をするのには邪魔で、ただ自分の意識の中の概念のようなもの。そして、携帯電話があくまで電子的に光りだし、工場への出勤時間を知らせるアラームが鳴ったので、ぼくはアラームを止めて、アパートの部屋を、出た。

ホタルなんていない、ぼくの生活は、つづいていく。




この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』12月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「つづく」。ずっと続いてきた大切なものや、これから先に続いていく未来に目を向けられるような小説が並んでいます。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。



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