【小説】あかつき
よろこびもかなしみもまだ目覚めないあかつきの時分。
深い青で満たされた空に、東の地平線だけがだいだい色に色づいています。
日はまだ、のぼりません。街の正体をあばくのにはまだ光量が弱く、街は、空の白みを背景に、輪郭だけを残してシルエットになっていました。
夜半にひと雨がかかったために、アスファルトはぬれて黒くしめり、ひんやりとした空気がただよっています。道路のあちらこちらには、水たまりができていました。
電線の上に、一ぴき、すずめが留まりました。あかつきの街は、鳴いてうるさい人間たちがいないので、すずめや、鯉や、落ち葉たちの世界。ねぼけたすずめが、あくびを一つして、けさのさえずりを始めます。
ひとつめのさえずりは、かすれていて、いまいちでしたが、ふたつめ、みっつめ以降はいつもの調子で、朝の静寂に一滴、二滴と、ていねいに音を混ぜて、うす色の色水をつくっていきました。
しずかなあかつきの街を、すずめのさえずりが反響してまわります。あかい屋根の家のしろい壁にぶつかり、商店街のくつ屋さんのシャッターにぶつかり、車もとおらないのに律儀にひかる信号機にぶつかって。
音の波は、オブジェクトにぶつかるたびに、ひろく拡散していきます。すずめのさえずりは、やがて、人間の耳にはもちろん、すずめたちの耳にも聞こえないほど微弱なものになりながらも、あかつきの街を反響して、反響して、ソナー装置のように、街が空間上にほんとうに存在するということを宇宙だとか神様だとかに証明していくのでした。
さて、すずめのさえずりが証明するあかつきの街に、少年がひとり。
少年は、その朝、ふと目覚めてしまい、どうにも心臓がどきどきとしてしまって眠りなおせそうもないので、どこか衝動的に、アパートの階段を降りて、あかつきの街をあるきはじめたのでした。
***
四時間後:朝。
快晴の空は、青。
青すぎる。そして、明るすぎる。
教室に入った少年は、びしょ濡れの自分の机を見て、無表情のまま、掃除用具の入ったロッカーから雑巾を持ち出し、拭いた。緊張した空気と、少年への視線を感じる。教室の中に、少年を中心に渦巻く、静かで、サディスティックな興奮。
拭き終わった雑巾を床に落とし、落としたままにして、席につく。少年への注目はもはや薄れ、教室は各々の会話と笑い声でざわついていた。きっと、あの会話は、自分を馬鹿にしているものではないだろう、あの笑いは、自分への嘲笑ではないだろう、
と、
少年は、
聞かないように、見ないように、考えないように、受けいれないように……。
***
すずめが、ぜいたくにも、さえずりつかれて電線を飛びたちました。その電線の下を、少年はゆっくりとあるいていきます。
あるきはじめてから、いくらか時間がたちました。
ふと、少年は、このあゆみが、どこかへたどり着く必要もなければ、したを向いてうつむきあるく必要もないことに気づいて、少し、笑いました。
その笑みも、誰かに向ける必要はなかったので、きわめてありのままで、うつくしい笑みでした。
少年は立ちどまって、空を見あげました。
あかつきの空は、深い青からだいだい色へと、ながれるように色彩が変移するようすを、いちめんに描いています。
色彩の移ろいの中で、とくに、神秘の紫と柔らかなピンクのはざま、黄金色の線がなだらかにカーブして、北の地平線から南の地平線へと、天空をつき抜けてはしっています。少年は、その黄金色の弧線が、どうしても、天の御遣いの方々が通るみちだとしか思えないのでした。
空をみあげて首がつかれたので、少年は再びあるきはじめます。
うつくしい空の、光の模様をじゃましないように、街はまだ薄暗く、あかい屋根の家のしろい壁にも、きいろの標識にも、まんべんなく、影色のスプレーが、うすく吹き付けられています。少年もまた影法師となって、建物のシルエットとかさなったり、はなれたりしながら、あるいていきました。
少年は、やがて、商店街にあるきつきました。くつ屋さんも、さかな屋さんも、もちろんお菓子屋さんもシャッターを閉めて、店じまいをしています。昼間はあんなに混雑する商店街なのに、このあかつきでは、少年ひとり。思えば、ここまであるいてきたみちも、ずっと、誰とも出会わず、少年ひとり。
(たとえば、身体ぜんぶをむしばむ疫病が世界にはびこって、みんなしんでしまったけれど、ぼくだけ抗体を持っていたように少年ひとり。)
(たとえば、ぼくの知っている人はみんな役者さんで、ぼくの世界を頼まれて演じていたのだけれど、お給料が低いためにみんなでストライキをはじめて、ぼくの世界を演じるのをやめてしまったように少年ひとり。)
(たとえばあの子と恋をするために、正直にいえば、ひとつキスをしてみるために、あの子とぼくだけの世界にならないかなと願って、叶ってふたりだけになって、あの子にこれから会いに行く途中のときのように少年ひとり……。)
少年があるいていくうちに、水たまりや、交差点のカーブミラーに少年が映り込みます。すると、ふたり、さんにん、と少年が増えていきます。信号機や、道ばたの雑草にくっつく、朝つゆのしずくの一滴一滴もかぞえるならば、かなり大勢の少年でにぎやかになりますが、しかしそれらはただの写像にすぎず、やっぱり少年はひとりなのでした。
少年はあるきつづけます。
***
四時間前:夜。
夜の団地は、灰色の無機質な箱にしか見えない。
曇り空の夜は、黒く、暗く、明かりといえば、まばらな街灯が青白く光り、時々点滅するのみ。
少年は、日付が変わる頃の時間に、しかたなく、団地の一室に帰る。
×××がいないように、と願いながら。
ドアノブを回し、
ドアを開ける。
靴を脱ぎ
部屋に入り
寝室には、
×××。
目が合う。
×××は少年の母親から離れ、後ろ手で引き戸を閉め、うっとりしたような表情で、こちらへ、ゆっくり、近づいてくる。少年を優しく抱え上げ、少年の部屋の、子供用のベッドに寝かせる。
×××は、少年の胸のあたりに跨ると、露出させたまま、少年の口にあてがった。
押し込まれる前に自ら少年は咥える。
感情はもう、反応しない。
少年は、少し、
えずく。
***
ついに、朝日がのぼりはじめました。
太陽の光ではありますが、きちんと目線を合わせてのぞき込んでくれる、暖かなその光は、少年にとって苦ではありません。
朝日は、地平の際からはみ出し、のぼっていき、ゆっくりとその姿を現していきます。そして一つの、大きく、まるい光源となり、全方位的に、直線的に、だいだい色の光線を発しはじめました。
だいだい色の光線たちは、はじめは、太さを持たないという定義上の直線として、発せられます。
中ほどで、いくつか集まって糸になります。
街にたどり着くころには、糸がより合わさって布になり、そして一枚の暖かな毛布となって、街をだいだい色におおって包み、人々の朝のゆううつを笑って溶かそうとするのでした。
少年はあるきつづけます。
光の街。
きちんと磨かれている看板や、シルバーの車に、朝日の光が反射して、だいだい色にきらりと光ります。うつくしいその光を少年は”琥珀”と呼んでいて、”琥珀”を集めるのが少年の毎朝のたのしみです。
けさはいつもの、”琥珀”が落ちる場所に加え、夜雨がつくったあちこちの水たまりにも”琥珀”が浮かび、ゆらめいていました。
少年があるくみちみちには、数えきれないほど無数の”琥珀”がばらまかれて、きらり、きらり、きらきらり、と、ひかり散らばり、少年が一歩あるくたびに、光の反射角が変わるのか、また新しく、無数の”琥珀”がひかり散らばるのでした。
だいだい色の、無数のひかりの粒がまわりを瞬くその光景は、まるで銀河のようでした。それも、発する光が白い光で地球に届くような、地球のすぐ近くにある銀河ではありません。光が、だいだい色や赤色に偏移して地球に届く、宇宙の果ての果てにあるような銀河です。
少年は、呆けたような顔をして、その銀河を一歩一歩、満足そうに、少し笑みを浮かべてあるきました。宇宙の果ての果てにある少年の銀河には、光や音で構成された”現実”が地球から来るのに何百億年もかかるのです。何百億年もたてば少年はしんでしまっていますから、”現実”は、もう、少年のもとに訪れることがないのです。少年は、満足そうに、少し笑みを浮かべてあるきつづけました……。
そうです
日がのぼり
今日がはじまったので
あかつきの街は
少年を連れたまま
第四次空間のひずみをとおって
宇宙の果ての果ての銀河に
ワープいたしました
宇宙の果ての果てにて
あかつきの街は
他のなにからも干渉されない
完全独立の事象として
ぼんやりと浮かんでおります
あかつきの街に
自ら攫われて
もうもどることのない少年を
みなさまは
責められましょうか
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