『森に夢みる』

(紹介)エンターテイメント中編小説。京大新入生の田村くんはギターを始め、先輩の未雪さんに憧れる。厳しくも楽しい研究生活を送る未雪さんは、田村くんをかわいがるものの、なかなか弟分としては認めない。田村くんはギター初心者ながらもバリオスの名曲に挑戦する。京大とギターを舞台とする物語。

(はじまり)

 僕の誕生日はいつも山が焼けていた。親戚のうちで毎年山が焼けるのを見た。僕の誕生日は五山の送り火と同じ日だった。山の火は他の火と違っていた。誰かの誕生日で、ケーキのロウソクに火が灯され吹き消されるのを見るたびに、これが山の火だったもっといいのに、といつも思った。毎年、僕の誕生日になると親戚のうちに集まるから僕の個人的なお祝いみたいなものはなかったけれど、自分の誕生日に街がお祭りの雰囲気、なにか期待する雰囲気に満ちあふれているのは悪くなかった。全然悪くなかった。
 子どもだった僕は、両親におねだりをした。一緒に山を焼きたいと。父は困ったような情けないような表情を浮かべて僕の頭をなでた。父は言った。「あれは京大生のいたずらなんだ。だからお前も京大に入ったら参加できるぞ」
 これらは古いエピソードで、僕は極めて現実的な理由から京大に入った。山を焼くのに参加したいという気持ちも、キャンプファイヤーを重ねるうちに消えていった。誕生日には一人で五山の送り火を見るようになった。自分の誕生日を祝うため、線香花火を買ってきて部屋の中で火をつけた。パチパチパチと燃えて、ショートホープの吸い殻で一杯の灰皿へ落ちていった。それを自分の誕生日分、19本やることにした。安アパートで電気もつけず、テレビで五山の送り火の中継放送を見る。たまにアパートの窓から乗り出して左大文字の大の字を見る。そして線香花火の続きをする。楽しい、とは残念ながら言えないし、生活を愛している行為とも言えない。長時間かけて線香花火を燃やすうちに、ひょっとしてこの間に願いを三回言えたら叶うのではないか?という気がしてきた。まず、友だちがほしい、友だちがほしい、友だちがほしい。次に、恋人がほしい、恋人がほしい、恋人がほしい。願いはそれだけにしておいた。欲張るのはよくない。
 僕はギターを始めたい、の一心でギターサークルに入った。曲はどうでもいい。コードをいくつか教えてもらい、適当なリズムで適当に弾いた。サークルの人は僕のことをほおっておいた。うまくなる見込みがないし、そのうちやめるかもしれないし、一緒に飲んでも話が合わないし。そんな調子でまったく上達しないまま秋になった。サークルボックスに知らない女性が来ていて、クラシックの曲を弾いていた。いい音で弾いていた。彼女は上級生とは旧知のようで、気さくに話していた。僕も軽く挨拶をした。彼女は大学院生で最近短期留学から帰国したそうだ。その話の間にも上級生が彼女に曲をリクエストする。一瞬、歌の上手な先生に群がる子どものように上級生が見えた。そのサウンド・オブ・ミュージックのような光景を、僕は次の授業のために後にした。

 授業の後、ビールと日本酒を一本ずつ買って山に登った。大文字焼きの大の字がある山だ。大学から大の字のところまでだいたい2時間かかった。往復4時間。自力で解決できないイライラを一時忘れるにはちょうどいい運動だった。修行僧が小型の修行で使いそうな山道を登りながら、自然を楽しむでもなく、酒のことを思った。大の字から見る京都市は、意外なくらい綺麗だ。ここで火をつけたくなる気持ちもなんとなくわかる。僕は持参したビールを飲みながら煙草に火をつける。今日の大学院生、感じのいい人だったな。誰に対してもオープンでフレンドリーそうで。自分とは違う世界の住人のように感じた。子は親に愛され、その子は成長して子を愛する親になり、という具合のいい循環から生まれる光の世界出身の。幻想かもしれないけど。さて、日本酒を飲みましょうか。たばこを二本同時に吸っておばかな吸い方をしてみましょうか。自分は闇の子だろう。だって暗いもん。こんな二本同時にたばこ吸っているような奴が光の子のわけないもん。酒がなくなってからはたばこを立て続けに吸って酔いをさました。吸い殻で小さな大の字を地面に書いて部屋に帰った。

 部屋に帰って、小さな音でギターを鳴らす。最近隣の人の苦情がうるさくて、すっかり小さな音になってしまった。弾きたい曲を探したりするのだけれど、どれも難しすぎる。かといって練習曲みたいのはやる気がしない。だから適当に和音をならす。今は楽しい。いつまで続くかわからないけど。どんどんどん!また苦情だよ。こんな小さい音で弾いてなにが悪い。テレビの音よりよっぽど小さいじゃないか。そう思いながらドアを開けた。昼間の大学院生がビックリした顔でそこにいた。「たしか田村くんだったよね、昼間会った」大学院生はそう言った。彼女は、ちょうどいい身長で大きな目をしていた。人を緊張させないなにかを持っているみたいだった。森の動物たちに郵便物を配達して回るレッサーパンダのように。「はい、これ。タオルあげます。私、田村くんの上に引っ越してきたの」彼女はそう言って僕に小さな箱を渡した。「よかったら、私の部屋にこない?コーヒーでもごちそうするよ」

 彼女は未雪さんといった。「未雪さん、って呼んでくれていいよ。みんなそう呼ぶし」段ボールの山の中、調理器具だけはいち早く取り出されていた。
「田村くんって無口って言われない?」
「言われます」僕はうつむいて答えた。未雪さんは肩まで伸びた髪の枝毛を探し始めたが、ほぼ初対面の人間がいることを思い出したのか、すぐにやめた。
「私ねえ、引越しの片づけが終わってなくて不便な状態が好きなの。変わっているかな。田村くんの部屋は清潔って感じじゃないけど、結構片づいているよね」
「そうかもしれませんね。汚くてもいいけど散らかっているのは嫌いなんです」僕はそう言って緊張しながらコーヒーを飲んだ。「ギターお上手ですね。何年くらいやっているんですか?」
「さあ。小さいころから」未雪さんはギターについては特に話したくなさそうだった。しばらく穏やかな、しかし少し緊張した沈黙が流れた。「未雪さん、変なこと訊いていいですか」僕は思いきってそう言った。「だめだよ、私たちまだ知り合ったばっかだもん。変なこと訊いちゃだめだよ、田村くん」「すみません」
変なことを訊く代わりに、僕は自分の誕生日と大文字焼きの話をした。未雪さんは「私は、線香花火が燃えている間に願い事を言っても叶わないと思う。田村くん、ひょっとして甘やかされて育ったの?」と言った。「はい、甘やかされました。たまに都合良く考えてしまうんです。道に柿がなっていたりすると、ひょっとして自分がもらっていいのでは?って思います。鍵がつけっぱなしの自転車を見ると、自分が乗らなくては、って思います。でも抑圧もされています。お店で笑顔で店員さんに話しかけられると、自分にはそんな資格ないのに、とか考えちゃいます。よくわかりません」「そうだね。よくわからないね」
 その日未雪さんにはずいぶん馴れ馴れしくしてしまった。甘えてしまった。未雪さんは冷静に温かく話を聞いてくれた。森の中の大きな木のように。帰り際、未雪さんが自分の姉だったらいいのに、と思った。

 ある先輩の言葉が忘れられない。「先輩、彼女とどこで知り合ったんですか?」「んー、趣味を通じて、ね」「先輩の趣味ってなんですか」「合コン」
 僕は大変緊張している。学部のチャラい知り合いに誘われて4対4の合コンに参加しているからだ。女性側はキリスト教系の大学の一回生。「聖書って、面白い?」僕が適当にそう訊いてみるとチャラ男がヒジで僕を突く。「うーん、どうかな、私もよく知らないけど……」長身で人当たりのいい女性が続きの言葉を考える。「一つ言えることは、聖書にはあまりいい男は出てこないね。イエス以外はね」そう言って彼女はニコッと笑った。
 僕は聖書の話題を続けたかったが、チャラ男がそれを許さなかった。なにかのテレビ番組の話題で大いに盛り上がったが、僕は全く話題についていけず、黙りこくった。僕はテレビは五山の送り火と箱根駅伝くらいしか見ないのだ。僕はそもそもその場にいる7人の人間に興味がなかった。よく知らないにもかかわらず。僕はふと女性陣から「ねえねえ、微積分ってなーに?」などという質問が出ないかなー、と空想した。もしそういう質問が出れば、積分の方から先に説明しなければならないだろう。トイレットペーパーやバームクーヘンを例に出しながら、積分の「塵も積もれば山になる」の精神をわかりやすく説明すべきだろう。「おい田村、てめー黙ってないでなんか喋れよ。呼んだ俺の立場がねえだろうが」チャラ男が僕のひじを突いた。僕はスイッチを切り替えて、わからないなりに素朴な質問者として話題に参加することにした。ウケねらいのボケもいくつか発したが、それは不発に終わった。その後のカラオケもみんな歌が下手でテンションだけが高くて疲れるだけだった。僕も必死に合わせた。
 帰り際、聖書の質問に答えてくれた女性に「田村くんさ、私たちに全然興味ないんでしょ」と急に言われた。「うん」僕は正直に答えた。「みんな結構かわいいと思うけどね。でも興味ない。今日もなんか時給の低いバイトしているみたいだった」
「ひどい」彼女はそう言って顔をしかめた。「田村くんって、欠点の塊ね」「そうだね、僕もそう思うよ」
「私もあなたに男としては興味ないけど」そう彼女は前置きしてから「私、心理カウンセラーになりたいの。こう言っては悪いけど、田村くん、あなたカウンセリングが必要だよ。練習がてらカウンセリングしてあげるから、電話番号教えてあげる」こうして僕は笹川さんの電話番号を教えてもらった。彼女は美人だ。喫茶店の看板娘になれそうなくらい美人だ。でも僕は興味ない。

 ときおり僕の上の部屋から、すばらしく綺麗なギターの音が聞こえてきた。未雪さんはかなり大きな音で弾いていたが、文句をいう住人はいないようだった。僕はあまりクラシックに詳しくないので知っている曲は少なかったが、一つ、僕がすごく好きな曲を未雪さんは弾いていた。『森に夢みる』というロマンティックな曲だ。僕も一回練習しようと思って楽譜を開いたことがある。オタマジャクシが氾濫している曲で、僕が弾けるようになることは永遠にないだろう。聴くための曲だ。森で生活していたら、オルゴール付きの素敵な手紙をもらう、そんな曲のような気がした。僕は未雪さんの部屋にお邪魔していいものかどうか迷う。素敵な手みやげでもあったら行きやすいのになあ。自家製のサーモンの薫製とか。でも僕はそんなものには縁がない。僕は冷蔵庫からビールを二本取りだして階段を上る。楽しそうにギターを弾いている音が聞こえてくる。邪魔することにならないだろうか。ピンポン、思い切ってベルを鳴らす。ドアを開けた未雪さんはちょっと不機嫌そうだった。
「未雪さん、こんばんは。ギター弾いているところすみませんけど、よかったら聴かせてもらえないかなあと思って来たんですけど」
「あらそう。いいよ。上がって」
未雪さんの部屋はこの前来たときとはうって変わって完全に片づいている。でも適当に手抜きしてある整理整頓というか、人をキュっと締め付けるような窮屈さはない。未雪さんはさっそく演奏に戻る。いい音だ。技術のせいなのかなんなのか、僕の硬い音との差はなんだろう。僕は部屋の隅っこで聴かせてもらう。未雪さんもしばらくしたら僕の存在に慣れたのか、先程の楽しんで弾く様子に戻っていった。至福の時間、といっていいだろう。今なら素直に優しい人に甘えられる、そんな気がした。「田村くーん、なにかリクエストはありますか」未雪さんは機嫌よく僕に訊いた。「じゃあ、『森に夢みる』お願いします」
 とてもオープンな気持ちの出だしだった。「困ったことあったら私に言ってね」と言わんばかりだ。優しく、美しく、ロマンティックに曲は続いていく。自分は暗い曲が基本的に好きなのに、なんでこの曲に限って明るい曲が好きなんだろう。そんなことを思った。
「田村くんもなにか一曲弾いてよ」
「僕、曲はなにも弾けないんです。コードをがちゃがちゃ鳴らしているだけで」
なーんだ、つまんないの、未雪さんは心底つまんなそうにそう言って煙草に火をつけた。僕も煙草に火をつけた。部屋が次第に白い煙につつまれていく。未雪さんは照明を落とし安っぽいランプをつける。ランプは安っぽいものの、もしゴミ捨て場に置いてあったら持って帰りたくなるような、不思議な愛着を感じさせた。
「このランプ、高校生のときに拾ってきたんだ。バカっぽくていいでしょ」未雪さんは、そのピンクの、なんとなく騙されやすそうなランプを紹介する。未雪さんの部屋にあるものは、ギター以外はあまり高級感がなかったけど、一つ一つになにか楽しいエピソードがありそうな、そんな気がした。
「田村くん、このミル回して豆挽いて。私お湯湧かすから」そう言われてミルを回すものの、なかなかコーヒー豆は削れていかない。釈然としないままミルを回していく。確かな手応えもないまま、長い間挽き続ける。
「未雪さんねえ、僕実は大学入ってまだ一人も友だちできないんですよ」なんの脈絡もなく僕はそう言う。「あらまー、ご愁傷様ー。一人もいないなんてねえ。私はすぐにたくさんできたなー、大学入って最初のころ楽しかったなー。学園祭で屋台みたいの出したりして」未雪さんは楽しそうに過去を振り返った。「そのころ好きだった人がお好み焼きつくるのすっごく下手で。まずい、ってお客さんに言われてみんなで謝って。楽しかったなー」未雪さんは幸せそうに煙草をもみ消す。「買い物とか旅行とかなにか楽しいことして、気持ちがオープンになれば、できるんじゃない?友だち」簡単な道順を教えるみたいに、未雪さんは気楽に答える。「そうかもしれませんね」僕は力なく答える。

「それは田村くんに問題があるからじゃないかな」同じ質問に対して笹川さんはまじめくさってそう答える。笹川さんの大学の近所にある喫茶店で、僕はカウンセリングを受けている。「そうかもしれないけど」僕は疑問を呈する。「笹川さん、まだなにも資格ないのにカウンセリングなんかしていいんだろうか」
 笹川さんは落ち着いた仕草でコーヒーを一口のみ、用意していた文章を読み上げるような調子でこう言った。「厳密にはしてはいけないでしょうね。簡単なものじゃないし。だから、プロのカウンセラーを目指している人に相談する機会って思うのはどうかな。私の訓練につき合う、っていうか。どう?」「いいよ、別に。ヒマだし」
 笹川さんは、演劇の見習生のようなラフな格好をしている。品のいい小粒のりんごのような顔立ちにスラリとした体型で、自分のやりたいことに対して迷いがないような印象を受ける。「僕の問題ってなに?」僕は訊ねる。
「たとえば、人付き合いが下手なこと」
「そう言われてもねえ。人付き合いが下手でもいい仕事をしたりいい人生を送った人はたくさんいるでしょう」
「確かに。でも実際には身だしなみと人付き合いの上手さがコミュニケーションのほとんどなんだよ」
「僕、そういうの興味ないんですよ。というか苦手なんですよ。あのね、カウンセラーってそもそもそういうのが苦手な人が主なお客さんなんじゃないですか?いいんですか?そんな言い方して」
笹川さんはしばらく考え込んだ。はあー、と一息ついてから「よくないですね、確かに、こういう言い方は」と言ってケーキを注文した。「田村さんの来歴を聞いたりするところから始めるべきでした。すみません」
 僕は笹川さんに誕生日と五山の送り火の話をした。「と、いうことは田村さんは子どものころあまり親から愛されてなかった、ということですか」笹川さんはそう訊いた。
「わかりませんねえ、それは」
「いや、きっと愛されていませんでした」
「笹川さん、どうしてそう決めつけるの?」
 僕はだんだん笹川さんとのセッションに疲れてきたので、煙草に火をつけた。「笹川さんってカウンセラーに向いているのかな。なんか、理解されている、って感じがまるでしないんだけど」「すみません」笹川さんは申し訳なさそうに謝った。僕の方から近所を一緒にウインドウショッピングすることを提案し、笹川さんが賛成してくれたので、近所を一緒に歩いた。

 部屋に帰ると、ドアノブに袋が掛かっていた。中にはクッキーと手紙が入っていた。未雪さんからだ。手紙は手書きだった。


 未雪通信

 田村くん、こんにちは。友だちの家のオーブン借りてクッキー焼いたのでおすそわけです。よかったらどうぞ。

 こないだは私、なんか適当に答えてしまいました。田村くんが友だちできない、って嘆いたときに。楽しいことしてオープンになれば、って。まあ、基本的にはそう思うけど、私はあんまり苦労しなくても知り合いや友だちができるタイプなので、訊く相手を間違えているように、ちょっと、思います。田村くんと同じように苦戦するタイプの人に話聞いてもらったほうがいいんじゃないの?なんて素朴に思います。

 とはいえ、やはりオーブンでなにか作るのは楽しいです。毎日だったら相当しんどいだろうけどね。田村くんも一度クッキー作ってみれば。「うわー、こんな高カロリーの材料を使いまくってんだー」ってビビッて楽しいと思うよ。おすすめ。

 でもね、私にとっても一緒にいて本当に楽しい相手って実はごく数人なんだ。

 お節介かもしれないけどね、ギターはレッスン受けないと上達しないよ。どの先生がいい、とか薦めるのは本当はよくないかもね。でも実は私の彼氏がプロのギタリストなんだ。彼も暗くて苦戦するタイプの人だから、一度試しに習ってみたら?来週留学から帰ってくるんだ。よろしく。

 私も演奏を人に聴いてもらうとうれしいし、また部屋に遊びにきてね。ばいばい。

 未雪


 クッキーはまあおいしいって程ではなかったけど、手紙はうれしかった。とても。何度も読み返した。僕は商店街に出かけ、普段は緊張して入れない魚屋に入り、刺身を買った。夜になって未雪さんがギターの練習を始めてしばらくたってから、ビールと刺身を持って二階に行った。刺身を未雪さんの冷蔵庫に入れてから、また部屋の隅っこでギターを聴かせてもらった。練習が終わってから未雪さんにクッキーと手紙のお礼を言った。「クッキーおいしかったです。ありがとうございました」
「焼きたてだともっとおいしいんだけどなー」と未雪さんは残念そうに呟いた。早速、冷蔵庫からマグロの刺身を取りだした。「まあまあおいしい刺身ね。私のクッキーよりおいしいや。あはは」未雪さんは力なく笑った。「ま、挑戦に失敗はつきものだしね。次がんばるわ、私」
「考えたんですけど」僕はためらいがちに言った。「ギター、未雪さんの彼氏に習うより未雪さんに習いたいです。未雪さんの演奏好きだし」
「だめ」未雪さんはあっさり答えた。「教え方知らないもん。教え方知っている人に習って」
 しばらく未雪さんは京都のクッキー事情について熱く語った。「『ごえもん』ってケーキ屋のクッキーは、渋い味っていうか、せんべい風味のクッキーを作ろうとしていて面白い。でも自分で真似したいとは思わないね」「『チェックメイト』のクッキーは、正統派だね。工夫がない、っていうか。でもおいしい」
「未雪さんは、彼氏さんのことどのくらい愛しているんですか?」僕は急に話題を変える。「どのくらい、って訊かれてもねえ」未雪さんは急な話題変更にもかかわらず真顔で考える。「ギターよりちょっと大きい、って感じかな。クッキーよりはずっと愛しているよ」未雪さんは晴れ晴れとそう答えた。「話題、急に変わったね。でもいいことだよ。クラーク博士も言っているでしょ、『少年よ、空気を読むな』って」そう言って頷いてから、「じゃあ、田村くんは自分をどのくらい愛しているの?」と訊いた。
「うーん」僕はそう唸ってから、「わかりません。その質問に意味があるのかどうかすらよくわかりません。地球と同じくらい、とも言えるし、線香花火と同じくらい、とも言えますね。僕は地球を全然愛していないし、線香花火を偏愛していますから。なに言っているんでしょうね。よくわかりません」
「ごめんね、意味不明の質問をして。ただなんとなく対抗したくなって」未雪さんはそう言って謝った。台所に行って二つのグラスと焼酎の瓶を取りだし、テーブルに置いた。
「僕ね、知り合いの女の子にカウンセリング受けているんですよ」
「へー。なんか悩みでもあるの?」未雪さんはだらしない姿勢で焼酎を飲みながら気楽にそう訊いた。「特にないんですけどね。具体的な悩みはないです。両親との社交も順調ですし、大学でも友だちはいないとはいえ、なんとなくやれています。でもその知り合いが僕にはカウンセリングが必要だ、って言うんですよ。まあ暇つぶしに受けているんです、カウンセリング」僕はそう説明した。
「ふん、カウンセリング」未雪さんはちょっと馬鹿にしたようにそう言った。「ギターの練習して、ギターのレッスン受けていれば、私にはそんなのいらないな。まあでもいいものなのかもね、カウンセリング。よくわからないけど。なんか発見あったら教えてね。手紙で。私、手紙好きなの。手書きの。気持ちが焦っていると字も焦るでしょう。楽しいと字も楽しい感じになるでしょう。それがいいの」そう言って未雪さんは焼酎を飲み干した。

「田村くんの自分への肯定感を例えるとどんな感じかな」今日は演劇部の端役のような格好の笹川さんは、カウンセリングの冒頭でそう尋ねた。「そうだね」僕は間を置いた。「演劇のセットみたいなものじゃないかな。表から見ると一応形は整っているけど、裏から見るとスカスカ、みたいな。かと言って観客から見えない裏側を充実させる気はさらさらない、みたいな」
ふんふんふんと笹川さんは頷いてケーキを注文した。「私もそんなかんじだよ。自分の肯定感」そう言ってまた頷きながらコーヒーを一口飲んだ。「自分を肯定するための努力をすごくしている。それと同時に全くしていない。そう言いたいのね、田村くんは。それはそれでいいと思う」やや上から目線で笹川さんはそう言った。
「笹川さんはどうしてカウンセラーになりたいの?」僕は素朴に訊いてみた。「まあ今はあなたのカウンセリングの途中なんだけど……」笹川さんはほんの少しの間ためらってこう言った。「やっぱり、一人一人の心理風景みたいなものに関心があるからじゃない。いい製品をつくって世に送り出したい、っていう気持ちじゃなくて、修理屋に運ばれてくる一つ一つのポンコツを丁寧に直したい気持ちっていうか。田村くんみたいなポンコツが平気な顔して道を歩いているのが許せないっていうか。ま、個別に世の役に立ちたいのよ」笹川さんはショートカットの髪を自慢げに撫でながらそう言った。僕は少しイラッとした。
「僕からすれば、お互い様、って感じだよ。快活に世に適応する、そりゃいいことかもしれないけど、そういう人と僕がうまくいかないのは、お互い様って感じだよ」
笹川さんは僕の意見を聞くと眉間に皺を寄せた。
「田村くんはそう感じるかもしれませんね。お互い様って。それでいいと思いますよ、今のところは」やや高飛車に笹川さんはそう言った。
「笹川さんのカウンセリングには癒しがない」僕は唐突にそう呟いた。笹川さんは険しい表情で僕を見つめた。「僕は、自分がポンコツであることは認めるけど、直されたいとは特に思わない。ポンコツなりに楽しく生きていけばそれでいいと思う。まだカウンセリングを続ける意味がありますか?」
「ちょっと考えさせて下さい」そう言って笹川さんはケーキをゆっくりと食べた。長考に入った棋士のようにゆっくりと。「私のカウンセリングのどこが問題ですか?癒しがない以外に」
「偉そうですね、無意識かもしれませんけど」
「偉そう、ですか」笹川さんは再び長考に入った。「今までタダでカウンセリングして喫茶代も割り勘でしたが」笹川さんは少し間を置いた。「これからは謝礼千円を私の方から出し、喫茶代も出す、ということで練習を続けさせてもらえないでしょうか、田村くん」
僕も長考に入った。自分になにかメリットはあるのか。自分は放っておいたら何日も人と話さないことがあるので、定期的に人と話すのはいいことだろう。でも、カウンセリング中に不愉快な時がある。カウンセラーを育てる使命感もない。彼女を愛してもいない。しかし自分の混濁とした直感が、遠い声が、続けてみたら、と囁いた。
「いいです。ただ次回からはもっとフリートークっぽくした方がよくないですか。生い立ちとかをカウンセラーっぽく訊くよりも。今とちょっと違う方法を考えてみて下さいよ」
「わかりました」
それから話題は笹川さんの演劇っぽい服装に移っていった。「演劇サークルの衣装を作ったり、自分の服を作ったりするんです。演劇の公演が終わったら使った服を自分でもらっちゃうし」笹川さんは屈託なくそう答えた。「そっちの方がカウンセリングより向いているんじゃない?」と僕が軽口を叩いたら、笹川さんはフンと不機嫌になって「私がカウンセリングにかける情熱をわかってないな、田村くんは」と怒り出した。

 未雪さんの彼氏がフランスから帰ってきた。彼氏が未雪さんの部屋に遊びに来ると、上で楽しそうに会話をしているのがかすかに聞こえてくる。ギターを弾くこともある。二人とも上手いからどちらが弾いているかよくわからない。夜、遅くなると、二人はニュースを見るみたいで、NHKのアナウンサーがニュースを読み上げる声が聞こえてきた。ニュースはかなり長い間続いた。次の日も彼氏はやってきて、夜遅くなると、NHKのニュースをまた二人で聞いているみたいだった。ニュースの内容も昨日と同じだった。次の日になって、彼氏が帰るドアの音がする。しばらくしてから未雪さんの部屋をノックしてみる。「あーなんだ、田村くんか。コーヒーでも飲んでく?」未雪さんは要件も聞かずに部屋に入れてくれる。「昨日はごめんねー、ニュースの音うるさかった?」「いえ、特になにもきこえませんでしたけど」
 未雪さんは朝に弱いのかボーッとしている。僕が代わりにトーストを焼き、コーヒーを入れる。二人でコーヒーを飲みながら、僕は演劇のチケットを二枚取り出す。笹川さんが衣装を担当している演劇のチケットをもらったのだ。「未雪さん、演劇行きません?演劇」
「田村くん、それ、ナンパ?」未雪さんは明るくたずねる。僕は意外なほど長く考える。「ナンパではないと思います。一緒に行きたいだけです」
「田村くんはわかっていないようだけど」そう言って未雪さんは続ける。「私には素敵な彼氏がいるの。私を口説いても無駄だからね」「口説いてません。未雪さんと僕じゃ月とスッポンじゃないですか。強いて言えば、弟志望です」
 未雪さんは楽しそうに冗談めかして言う。「まだ君は私の弟じゃないよ。意外と試練がいるのよ、私の弟になるのは。へんちくりんなダンジョンを攻略したり竜を倒したりしないといけないの。君はまだそういうのしていないでしょ」そう言ってコーヒーを飲み干す。「まあでも演劇くらいならいいか」

 笹川さんの演劇はほぼ裸の男二人が登場するところから始まった。二人は抱き合った後、一緒に下手に消えていき、消えた後で着ていたわずかな衣装を舞台に投げ返す。舞台左手には昭和風の電信柱が一本立っていて、続いて出てきた背広の男性が投げ捨てられた衣装を電信柱にかける。男性はしばし佇んだのち、上着を脱いで拾った衣装に着替えようとし始める。そこを通りかかった警官が「なにをしているんだい?」と男に話しかける。かなり意味不明な演劇だ。背広や制服が象徴する制約と、全裸が象徴する開放感への憧れを展開要素にして、登場人物が次々と服を交換しながら演劇は進行していく。途中、不本意な女装があり、本望だった警官コスプレがあり、椅子取りゲームのように服を奪い合い、お笑いをはさみながら、徐々に、警官を志望するグループと全裸を志望するグループに分かれていく。この二つのグループの決別がはっきりとした刹那、ローブ姿の神が後光と共に現れ、「わしはどっちについたらいいのかの?」と優しく問いかける。しかし神はほとんど誰にも相手にされない。憐れに思った警官グループの一人が警服のズボンを脱ぎ、神に差し出す。神は跪きながらズボンを受け取り、ズボンを脱いだ警官は後光と共に舞台奥に去っていく。神は舞台中央に一人のこされ、あうあうあう、と言葉にならないなにかをつぶやく。そこに一人警官がやってきて、「なにやっているんですかこんなところで」と詰問する。「神を」と答えて舞台は暗転する。

「ちょっと難解だったかもしれないね。楽しんでもらえたならいいんだけど」脚本兼演出の上地さんは上演後大学のカフェでそう言った。上地さんは服の選び方も毛の手入れも申し分なかったが、それはなんだか本人がそうしたいからというより、手早く確実に信用を得るため、マナーのために仕方なくそうしている、という感じがした。一応笹川さんの彼氏なのだ。昼の公演と夜の公演の間の空き時間に、我々はお茶を飲んでいた。
「神がぞんざいに扱われているのがよかったです」僕は短く感想を言って黙り込む。
「警官の服装は見ていてあまり楽しくないですね。緊張感を無駄に煽って。でも演出は若々しくてよかったですよ」未雪さんはそう言った。
「警官の服を何着も作るのは苦痛でした。でも彼の頼みだから断れなくって」笹川さんはそう言って安易にのろけた。「警官の服なんか劇が終わった後、なんの役にもたたないし、自分の服としても着れないのにね」
 上地さんはやや退屈な芸術論をぶった。曰く、神がオープンな心持ちで登場して閉じた心になっていくのがミソなのだ、とか、そういう心の開閉感覚が各役者に起こっていて観客がどれだけキャッチしてくれたか心配だ、とか。「あっそう」未雪さんはそう言ってから「でも私の心にはなにも届かなかったよ。上地さんには悪いけど」と素朴に感想を述べる。上地さんは鈍くさい店員の接客を受けたかのように眉間にしわを寄せた。「そうですか。残念です」それからは上地さんは明らかに不愉快になったようで、しばらくして「夜の公演の準備がありますので」と言って去って行った。
 笹川さんは「私の彼氏は二人には、あんまり印象よくなかったみたいですね。私も今日の舞台、実は、あんまり、でした。でも長い目で見てくれると助かるんですけど」と言った。笹川さんは、舞台の不評も衣装の不評も彼氏の不評もたいして気にしていないように見えた。毎日の細かい株価の動きをあんまり気にしない大株主のように。
「それにしても」未雪さんはそう言って優しく一息つく。「笹川さんは、なにごとにしても楽しんでいる感じだね。たまたま一回、たいして面白くないことがあっても、温かく切り替えて。田村くんとは大違い。二人の間に接点があるのが不思議な気がするよ」
「まあ、田村さんとは友人というより仕事関係の前哨戦みたいなものですから」笹川さんは冷静にそう言ってコーヒーを一口飲む。「でも、田村くん、演劇に来てくれてうれしいよ。ありがとう」
 僕は「仕事関係の前哨戦」と言われて少しムッとする。「笹川さん、言いたいことはわかるけど、河合隼雄のフルートコンサートに彼のクライアントが来たら河合隼雄はそんな冷たいこと言わなかったと思うよ。まだまだだね」と言ってしまう。笹川さんはそう言われて急に表情が暗くなる。「そうね、河合先生ならそんなこと言わなかったでしょうね。ごめんなさい」少し手が震えて笹川さんはコーヒーカップを落としてしまう。慌てて三人で床をふく。僕は片づけながら笹川さんに謝る。「言い方が悪かったね。ごめんなさい」
笹川さんが着替えに行った後、未雪さんは手刀でコツンと僕を打つ。「私の弟になりたければ、女の子をいじめてはだめだよ」真顔でそう言う。

 半年ほどギターを弾いていたら、ギターのどこを押せば楽譜のどの音が対応しているのかだんだんと分かってきた。進歩と言っていいだろう。僕は得意な気持ちになった。これで、原理的にはどの曲も(非常にがんばれば)弾けるはずだ。僕は早速、『森に夢みる』の楽譜を開いてみる。なんとなく、今までより簡単そうな気がする。長い時間をかけて、最初の一小節の運指を探す。サークル室で必死になって最初の一小節を練習する僕を見て、同級生が声をかける。「『森に夢みる』か。悪いこと言わないからやめとけ。お前には難しすぎる」彼は親切心からそう言う。でも僕は聞かない。その日はなんとか4小節だけ練習した。この調子でいけば、いつか全体を弾けるようになるはずだ。
 しかし未雪さんも『森に夢みる』を練習することに反対する。「遊びならいいんだよ」そう言って「ごえもん」の新作クッキー「東海道五十三次」の一枚目を食べる。僕は二枚目をいただく。「でも音楽ってそういうもんじゃないんだよ。暗算を極めたって数学者には全然なれないのと同じだよ。音符を声で歌えるかが大事なんだよ。そこを無視してたこつぼ作業に入ったら、たこになっちゃうよ」そう言って僕を諫める。「意味はないかもしれないけど、でもせっかく本当にやってみたいことがギターで見つかったから、とりあえずやってみたいんです。僕は結局、まともなレッスンとか、簡単な曲から練習するとかだと続かない気がするんです。たとえ間違った道でも、本当に歩きたい道を歩きたいんです。第一、『森に夢みる』を練習することが間違っているとは思わないし」
「そこまで言うなら、好きにすれば、としか言えないね。幸運を祈るよ」そう言って未雪さんは東海道五十三次の三枚目を食べる。このクッキーを見ていると、未雪さんがぽっちゃりしているのがとてもよく納得できる。

 学部のチャラい知り合いに再び合コンに誘われる。なぜ僕なんか誘うんだろう。とても疑問に思う。「つまんなそうだから」とあっさり断ると、チャラ男は腹を立てる。「てめえ、田村、ふざけんな。せめて『用事があるから』とか言えや。笹川さんと知り合ったのは誰のおかげだと思ってんだ」そう言ってチッと舌打ちをする。「覚えとけや。断ったこと、後悔すんぞ」
 そして僕は数日後に後悔する。笹川さんのカウンセリングを受けに行ったら、先に着いていた笹川さんがチャラ男と楽しそうに歓談している。「よお。今日は見学者付きのカウンセリングだってよ。せいぜい笑かしてもらうぜ」チャラ男はそう言って余裕ありげに手足を組む。「ためしに今日は、プライバシーが保証されないカウンセリングをやってみようと思うの」笹川さんは少し申し訳なさそうにそう説明する。「不愉快だったら途中で止めるから言ってね」仕方なく、僕は承諾する。
 エエン、笹川さんはつくり咳をする。「田村くん、最近なにか変わったことはありましたか?」
「あったね、俺が誘った合コンを断ったこと」早速チャラ男が干渉する。
「うーん、ないですね、特に」僕は簡潔に返事をする。笹川さんは好意的に頷く。「悪いことじゃないですよ、特になにもないのは。大きなストレス要因がないということですからね」
「でも俺はあった」再びチャラ男が割り込む。「この間の合コンで彼女ができたんだ。今後、俺の愛する合コンを催していいものかどうか迷う。笹川さん、どう思う?」チャラ男はからかっているのか、本気なのか分からないがそう訊ねる。うーん、と笹川さんは軽く間をおく。なにかの重さを確かめるみたいに。「鮎川さんの場合は、合コンした方がいいんじゃないですか。合コン自体が目的みたいなので。彼女にもちゃんと説明すればわかってもらえるんじゃないですか。甘いかな?田村さんはどう思いますか」
「どうだっていいよそんなこと」僕はそう吐き捨てる。でたよこいつ、はー、とチャラ男はため息をつく。「じゃ、話題を田村さんのことに戻しましょう」笹川さんはそう言ってスケッチブックと色鉛筆を取り出し、僕とチャラ男に一組ずつ渡す。「風船を好きなだけ書いて下さい。そのうちの一つに、なにか短文を書いてください」そう説明する。よっしゃ、楽しそうに叫んでチャラ男は早速描き始める。画面に大きく、赤、青、黄の三つの風船を描く。そのうち、赤の風船の中に「俺の愛は、赤信号でも止まらない」と得意げに書く。僕は試しに線香花火を描いてみる。線香花火を持つ笹川さんを描いてみる。本物の笹川さんを見ながら真剣にスケッチする。希望を持ったアンニュイさを表現しようとがんばる。だんだんとそれは笹川さんに見えなくなってくる。でもいい。最後に、画面右上に黒の線で適当に風船を描く。「かつて君は、笹川さんだった」と書く。
 エエン、笹川さんは再びつくり咳をする。「このテストはですね、自分自身に対する希望を見るテストなんです。重要なのは何番目に描いた風船に文章を書いたか、です。早めに描いた風船に書いたほど、自分に対する希望が肯定的ではっきりしている、ということですね。鮎川さんは最初に描いた赤丸に文章を書きましたね。たいへん結構なことです。赤、というのも肯定感が強い色で、おせっかいな色です。一方、田村くんは、なかなか風船を描かずに、最後にてきとーに描いた風船に希望の文章を書いてしまいましたね。うーん、出だしが遅いですね。でもまああまり暗く考える必要はないです。ゲームだと思ってください。真実の自分を知るためのゲーム」笹川さんはそう言ってスケッチブックと色鉛筆を片づけ始めた。「鮎川さん、最近なにか変わったことはありましたか?」笹川さんにそう訊かれると、訊くのおせーよ、という感じで、チャラ男は恋人について語り始めた。僕は黙って聞いていた。話に退屈して店の外を眺めると小さな鳥が、家庭菜園のハーブをかじっていた。僕の自分に対する希望が「かつて君は、笹川さんだった」だって?僕は一応まじめにテストをやった。まったくあてにならないテストだ。


カウンセリングカルテ1

 田村くんははたしてカウンセリングを受ける必要はあるんだろうか。とんでもなくキモイときと、非常にまともなときが混在していてよくわからない人だ。今日の心理テスト、「かつて君は、笹川さんだった」、きみはそう言うけど私は田村くんだった時はありません。あーキモかった。

 気になると言えば、田村くんの黙りこくり方が気になる。なんていうの、異常に熱心に話を聞いている気もするし、同時に完全に無視している感じもする。話に参加したいの?避けたいの?どっちなの?まあ一般的には、絶対、避けている、という印象を与えると思うけど、私の鋭い直感は、単に避けているわけではない、と告げている。サンクス、私の直感、君のおかげで私はカウンセラーになれる。

 自負はさておき(自負のしすぎは健康に悪い。気をつけないとな)、今まで何回かカウンセリングして、ヒーリング効果を田村くんに与えていない気がする。こういういい影響は決してあせるべきではない、ってよく言うけど、効果なさすぎなくない?俺、大丈夫か?カウンセラーとしてやっていけるか?

 オープン・ユア・マインド、って田村くんに言いたいけど、言ったところでなあ。聞きやしねえだろうしなあ。

 オープン・ユア・マインド、ってことで言えば、鮎川さんにも言えることだ。喋ってばっかいないで、ちったあ人の話聞けばいいのに。彼は目の前を通過することのごく一部しか捕らえてない。ずうずうしさとオープンマインドを混同している。けしからん。

 ま、気長にいきましょう。そんなすぐ効果でないし。効果だす腕がないし、私。次もなにか心理テスト持っていこう。

 そうそう、今日の心理テストの分析忘れてた。

 鮎川さん、赤信号の絵ね。単純でベタで分かりやすくてある意味健全だね。その調子で生きていけばいいんじゃないですか。

 田村くん、自分に対する希望がないね。持とうよ。脇道に逸れるのはなんか上手な気がするけど、それで誰かが救われているのかどうか疑問。

以上


 週に何回か、上の未雪さんの部屋からお決まりのニュースの音が聞こえてくる。あーあ、やってんだろうなあ、未雪さん。うまく言えない感情にとらわれる。彼氏がうらやましいという気もしないし嫉妬もしない。自分が彼氏の代わりになりたいともあまり思わない。ただ、未雪さんの時計は動いているのに自分の時計は止まっている、そんな気分になる。こんなときはギターに限る。健康的に明るくCのコードをならしてみる。なんだかアホらしい気分になる。次々にいろいろな和音をならしてみるがどうも今の気分にぴったりする和音がない。本当はあるのかもしれないけど、僕は限られた和音しか知らないからわからない。ギターをしまい、上のニュースの音を聞きながら物思いにふける。誰かに電話したくなる。でも僕には用もなく電話できる相手がいない。僕は外に出る準備をし、あてもなく外に出る。どこに行ってもいいのだが、自転車に乗って繁華街に出かける。信号待ちをしているときに街路樹を試しに蹴ってみる。足が痛い。痛い足を引きずりつつ自転車を漕いでいるとやがて繁華街に着く。夥しい数のバーや飲み屋があるが、いくら取られるか恐くて未だに一人で入ったことはない。自然と僕は、以前連れてこられたことのある店を選ぼうとする。路地の隅っこにあるジャズバーだ。それほど高くない。以前に先輩とビール500円で二時間粘ったことがある。僕はお店のドアを開け、早速ビールを注文する。
「以前に来られたことありますか?」髭がよく似合う鋭い目つきのマスターがそう僕に訊ねる。「はい。二回目です」会話はそれで終了する。
 音楽を聴きながら、最近僕の身に起こったことをつらつらと振り返る。未雪さんへのあこがれ、笹川さんとのカウセリング。そりゃ、僕だって癒されたい。普通になりたい。普通になっていろいろな人と楽しくお付き合いしたい。でも無理。
「なにかリクエストしたいレコードがあったら言ってくださいね」お店の女性が僕にそう声をかける。でも僕はジャズのことはほとんど知らない。「いや、今はとくにないです。ありがとう」
 隣の中年の男性にバンと急に肩を叩かれる。「きみぃ、リクエストしいゆうとんのや。なんや、きみ、わしのリクエストが聞けんゆうのか」僕は男性の目を見つめる。酔っているようには見えない。「あの、でも、ぼく、よく知らないんです、ジャズ」しどろもどろに僕はそう答える。男性は、僕が間違った答えをしたかのように首を横に振り、味のあるお説教をするかのように話しはじめる。「きみぃ、ジャズいうんは心や。きみは心がないんか」「いや、あの、えーと、たぶんあります」僕はなぜか粗相をした生徒のように焦る。「きみぃ、きみの心はチャールズ・ミンガスちゃうんか。ちょっと聴いてみ、おーい、美佳ちゃん、なんかミンガスかけて」男性はお店の人にそう注文する。
 流れてきた曲はなにかが狂っていた。たんすとたんすのスキマになにかとんでもなく臭い物がはさまっているかのような。その狂い方が、僕には心地よかった。猿に関係ある曲だそうだ。言われてみると確かにそんな気がした。
「な、にいちゃんの心はミンガスやろ」
「そうみたいですねえ」僕は同意した。
 その後その男性にだいぶおごられて飲んだ気がするが、はっきり覚えていない。自転車を漕いで部屋に帰った記憶も失われた。その男性の名前を何回も訊いた気がするが、今となっては覚えていない。よしおさん、とか、てつやさん、とかそんな感じだ。たぶん。

 ギターサークルでは、みんな定期演奏会に向けて一生懸命練習している。僕は人前で弾く曲がないので、完全に人ごとだ。毎日数小節ずつ、『森に夢みる』を練習する。やってみて初めてわかる難しさがある。楽譜どおりに弾いてみても、自分が聴いて知っているようには鳴らない。不細工なおかずのような音がする。未雪さんは僕が練習し始めるとちょっとイヤな顔をして遠ざかるか部屋を出てしまう。だから僕は未雪さんが部屋にいるときは極力練習しないで、他の人の演奏を聴いた。未雪さん、僕が練習するとなんで部屋を出るんですか、とは、なぜか訊けない。
 未雪さんは僕だけでなくほぼ全ての部員に慕われている。絶えず、ここどうやって弾くんですか、とか、今の演奏どうでしたか、と話しかけられている。未雪さんは正直に、しかし優しく応じる。同級生はどんどん上手くなっていく。僕は置いていかれる。未だに簡単な練習曲一つ弾けない。まあでもいい。もともとクラシック音楽にそんなに興味があるわけではない。ふと、ロックとかフォークとか他の音楽をやるサークルに入ればよかったと思う。しかし僕は、ロックにもフォークにも、クラシック音楽同様興味がなかった。ギターの音とギターの形に興味があるだけだった。

 たまに未雪さんの部屋に行くと、忙しいはずなのにゆっくり応対してくれる。いつ研究や勉強をしているんだろう。「未雪さん、いつ研究とかしているんですか」
「夜とか朝。私よく昼寝するから夜の睡眠時間短いの」未雪さんはそう簡潔に答えてクッキーを食べる。「田村くん、勉強はできるうちにしといた方がいいよ。英語のことわざにもあるでしょ、遊んでばかりいて全然勉強しないとジャックみたいにダルい少年になる、とかいうのが。でも、勉強ばっかりすると変人になっちゃうから気をつけなよ。クラーク博士は、『少年よ、大志を抱くと変人になっちゃうけど、それでもがんばれ』って言うけど。なに言っているんだろうね、あたし。ははは」未雪さんは明るく笑った。そして新しいコーヒーをつくるためにお湯を沸かす。ギターの曲を鼻歌で歌いながら、どの豆を飲もうか選ぶ。僕に豆を挽かせる。未雪さんは鼻歌ではあきたらず、ギターを取りだして床に座り弾き始める。「この、ふふふーん、のところがうまく弾けないんだよなー」と誰に言うでもなく呟く。ふふふーん、の部分がうまく弾けるまで、飽きることなく楽しそうに練習する。僕は、なにか貴重なシーンを見るような気持ちで、未雪さんがそのメロディを練習するのを聴く。未雪さんはなかなか練習を止めず、自分の世界にはまっている。
「未雪さん、訊きたいんですけど、僕ってカウンセリングが必要なほど病んでいるんでしょうか」唐突に僕は質問する。未雪さんは、ハッと我にかえり、僕の質問について考え始める。
「うーん、どうだろうねえ、人付き合いが苦手で損しているとは思うけど……。けっこう考え方は健全だとは思うよ。それよりどうなの、田村くんから見て私は病んでいるの?」未雪さんはそう問いかける。「いや、全然病んでいないと思いますけど」「そう。ありがとう。うれしいわ、そう言われて。私、自分の病的なところ隠すの結構上手なんだ。確認できてよかったよ」未雪さんは真意の読めない中立的な表情でそう言う。「田村くんも、自分の病んでいる部分を認めて、それを隠すのを上手になればいいんだよ。なんて忠告すると上に立っているみたいでよくないね、あはは」僕がなにか面白いことを言ったかのように未雪さんは笑う。「カウンセリングはともかく、笹川さんみたいな知り合いがいるのはいいことだと思うよ。田村くん、普通に生活してたら、絶対、笹川さんみたいな自然で可愛いコと知り合いになれないよ。まあデートの練習ぐらいに考えて気楽に続けてみれば。また上に立って物言っちゃった。あはは」

 上品なセーターを着ていかにも中産階級出身の女子大生のような格好をした笹川さんは「今日は、立場を逆にしてみましょう。つまり田村さんはカウンセラーになったつもりで、私はカウンセリングを受けるつもりで、進めてみましょうか」と切り出してココアを注文した。
「わかりました。やってみましょう。笹川さん、なにか最近変わったことはありましたか」
「特にはないですね。次の舞台のために、相撲取りのまわしを研究しています。これ、舞台が終わっても私が着るわけにはいかないので、部屋のインテリアに活用できないか、考え中です。あと、彼氏のことで少し悩んでいます。なんだか、たいした才能がない男のように最近になって感じるんです。ええ、そうです、この間会わせた上地です。私、才能のある男が好きなんです、はっきり言うと」
「でもこの間は、長い目で見て欲しい、って言っていたじゃないですか」僕は少し驚いて言う。
「この間まではそうでした。でも期限というものがあります。潮時かなと。やっぱりたいした器ではないなと。嫌いじゃないんだけどね。値段的に好きだったんだけど」まごまごと笹川さんは呟く。僕は話題を変えたくなる。「ところで、僕みたいなさあ、ポンコツ人間がさあ、回復した状態っていったいどういう状態なの?分からないんだ、教えてよ」笹川さんはふいにど真ん中のストレートを投げられたバッターのように驚くが、冷静に打ち返す。「それはですねえ、やっぱり、心がオープンになるってことじゃないでしょうか」
「オープンって具体的に言うとなに。それ、僕にもできるの?」
うーん、と笹川さんは考えこむ。「不可能ではないと思います」そう言って漢方薬を飲んだかのように苦い顔をする。「他人に対する優越感も劣等感もない状態だと思います。難しいですね、田村さんは優越感と劣等感の塊だから」そう言われて僕は驚く。「劣等感はともかく、僕はそんなに優越感あるの?ビックリだよ、そう言われて」「残念ながらあります」僕は冤罪をかけられたような気分になる。不愉快だ。「そんなこと言ったら、笹川さんこそいつも僕に偉そうじゃん。優越感あるじゃん。オープンじゃないじゃん」僕はそう笹川さんを責める。「まあね、確かに」笹川さんは開き直る。「さ、今日のセッションはここまで。今日の心理テストをして終わりましょう」笹川さんは急に話題を切り上げる。「あなたは鬼ヶ島の鬼の一人です。見かけとは裏腹にたいして強くもありません。これから、桃太郎が、猿、キジ、犬、だけでなく、あらゆる動物を引き連れてやってきて、その強大な戦力で一瞬にして鬼たちを壊滅させます。あなたはどの動物にやられると思いますか?」僕はしばし考える。「桃太郎じゃないかな」「じゃあ桃太郎以外では?」「熊かな」ふむふむと笹川さんは頷く。「ちなみに私は鶴と答えました。この心理テストの答えは、自分のライバルのイメージ、です。言い意味でも悪い意味でも。田村さんの場合は、人間のようですね。あるいは熊。だからどうってわけでもないんですけど、まあ今回のは遊びだと思ってください。ちなみに桃太郎を挙げる人には、自意識過剰な人や人付き合いが苦手な人が多いです」その後、上地さんへの不満などを少し雑談で話してその日は別れた。


カウンセリングカルテ2

 今日のカウンセリングは短かったな。ま、いいか。たまには。

 今日は田村くんの話の聞き方を観察していた。ま、よく聞いている方ではある。でもなんていうの、こちらが想定しているより、私が過去に発言したことをねちねち覚えている感じがして、それがちょっとうっとおしい。過去に生きとんのか、お前は。今を生きようよ。

 心理テストね。ライバルは人間と熊か。手強いの選ぶね、田村くん。弱いくせに。調子のんな。鳩くらいにしとこうよ。

 次回は夢分析でもしちゃおっかなー。ふっふん、だんだんカウンセリングっぽくなってきたな。がんばれ、私。

 どんどんどん。はーい。

 あれ、翔子、なにしてんのこれ?歌でも録音してんの。

 違うの。ちょっと今日あったカウンセリングのメモを録ってるの。上っち、お茶飲む?ちょうど今メモ終わったところなの。

 翔子、とりあえず胸をもませてくれ。あー、いい。

 ………

 はいはい、どうどう。上っち、脚本の方はどう?

 それがさー、開閉感覚がうまくいかなくてさー、なんていうの、力士の気持ちを表現できていないって言うか。力士ストラクチャーと喫茶店ダイナミックスがうまく絡んでないっていうか。難しいねー、脚本って。

 ねえ、上っち。話があるの。

 なんだよ、翔子。可愛い顔して。

 次の演劇、もしつまんなかったら、私、あなたと別れる。

 おいおい、急だな。どうかしたか?

 どうもしないよ。ただ、上っちが私が求める水準の人間か、次で判断させてもらう。

 おいおいとげとげしいなー、水準とか判断とか。愛し合っていたらいいだろう、どのレベルのことをやっているかは。

 よくない。私の寛容さは期限付きなの。

 わかった。翔子に厳しい面があるのは俺も分かっていた。可愛いのにな。がんばるよ。


 ギターサークルの定期演奏会は僕も全力を尽くすことにした。とは言っても演奏ではなく裏方の準備でだ。責任者の先輩と一緒に舞台裏の進行表を作成し、当日配るパンフレットを編集する。パソコンで一緒に作業しながら先輩は切れ間なく煙草を吸っている。先輩は忙しい中でもいらいらせずに、優しく僕をおちょくる。「で、お前、どうだったんだ、未雪先輩に告白した結果は?」僕は真面目で間の抜けた返事をする。「こ、告白なんかしてないですよ。……。別に恋愛対象として見ているわけではないですよ。憧れていて好きなだけです」
先輩はつくりあくびをする。「まあ、京都人は言動と行動にギャップがある、っていうもんな。京都人らしいどすな、田村は。やれやれ」

 定期演奏会の一月前に、オーディションと称した選考会がある。多数の出演希望者を絞るため、この時点でうまく弾けた順に参加資格が与えられる。僕は未雪さんの演奏以外はたいして興味もなく、ぼんやりと聴いている。なんでこの人たち、こんなに真剣にギター弾いているんだろうか。楽しいんだろうか。演奏の後、感想を言い合ったりして盛り上がっている。それも楽しいんだろうか。よくわからない。落選した人は泣いている。同情しないわけでもないが、そんなに出たいんだろうか、定期演奏会。「残念だったね、でも来年もあるじゃん」僕はそう声をかける。そして冷たく睨まれる。「田村くんも一回本気でギターやってみなよ。じゃなきゃ、このくやしさはわかんないよ」
 その日の夜はサークルのみんなで飲みに行く。僕は未雪さんの隣に座ろうとする。未雪さんはやさしく僕の肩を叩く。そして、なにかいい思いつきをしたのか、うれしそうに「モールス信号」と言って、トントントン、トトン、……、と僕の肩を突く。僕はモールス信号はわからない。しかし必死になって解読しようとする。「今日は離れた席に座って他の人と話してこい、ってことですか?」「そう」
 裏方責任者の先輩も今日のオーディションに落ちた。しかしそれは彼の想定内だったようで、たいして落ち込んでもいなかった。彼は嬉しそうに笑う。「相川さんも、裏方に協力してくれるそうだ。仲良くやろうぜ」そう言って相川さんの肩を叩く。相川さんはとても嫌そうに裏方責任者の先輩を睨みつける。ついでに僕をまた睨む。「アナウンスする人が必要だと思うから協力するだけですよ。私、落ちてほんとガッカリしているんですから」個性派ボーカリストが務まりそうなしゃがれ声で相川さんは言う。こうして、裏方責任者の先輩、僕、相川さんの三人でチームを組むことになった。僕は二人に日ごろの疑問をぶつけてみる。「ギターって楽しいですか?」相川さんはクレームを持ち込まれたフロアマネージャーのように渋い顔をし、長身を縮ませる。「楽しくは……ないなあ。うまい人に憧れて、自分もそんな風に弾きたい、って思って、その途中ってことかな。うまくなったら楽しいと思うよ。田村くんは楽しくないの」「あんまり」
「俺は楽しくて仕方がない」裏方責任者の先輩はそう晴れ晴れと言う。「たまに神を感じる」「はあ」
 下手くそ三人組の話がはずまないところに、ずんずんずんと未雪さんが割り込んで座ってくる。「残念だったね。お二人さん。でも、こういう出演枠があること自体がおかしいと思うよ。弾きたい人が多いなら、演奏会を長くすればいいのに」そう言って三人が手をつけていなかった料理をぱくぱくと食べる。
「未雪先輩、私の演奏のどこがダメだったか教えてください」向上心もあらわに、相川さんは未雪さんにそう言う。未雪さんは短い間考える。「テンポはよかったよ、とてもね」そう言ってから食べる手を止める。未雪さんは慎重な顔つきになり眉間に皺を寄せる。「ミスが多いのは仕方ないと思うよ、私は。ただ、自分の出している音を聴こうとする意思が希薄だったかな…。聴こえてないから弾くのが楽しそうに見えないし」
裏方責任者の先輩が横やりを入れる。「音楽をする喜びがないんだよ、相川の演奏には。神を求めてない」それを聴いて未雪さんは渋い顔をする。「まー……。神ねー……。テンポがいいっていうことはね、曲の基本的な構造を理解している、ってことだからね、その理解を深めていったらいいと思うけどねえ、相川さん。それプラス、自分の音を聴く喜びみたいなのを意識したらいいだけじゃない?」
「じゃあ未雪先輩、今度は俺の演奏の批評をして下さいよ」偉そうに裏方責任者の先輩が言う。未雪さんは軽く微笑んでから頷く。「ま、なにか精神的に崇高なものを求めようとしているよね、そこはいいと思うよ」未雪さんはニコニコとして、次の言葉を続けない。「他には?」「田村くんに訊いてみなよ」僕は正直に話す。「リズムもテンポも音程もバラバラで、どういう曲かよくわかりませんでした」「田村、神を感じたか?」裏方責任者の先輩はいやに真剣にそう訊く。「ええ、かすかに」僕は嘘をつく。

 裏方責任者の先輩が作るパンフはいやに凝っている。まず表紙が、自分で描いた絵だ。ギターはスペイン発祥の楽器ということで、ロシナンテの背中にドン・キホーテとサンチョが乗ってギター二重奏をしている。楽曲紹介は音楽事典からのパクリで溢れかえり、途中はさまれている厚紙は、おまけとして、切って貼って組み立てると小さなギターになる。僕と相川さんはもっとシンプルなデザインを提案したが却下された。「お前らは、生活愛が分かっていない。凝れるだけ凝ることのすばらしさが分かっていない」裏方責任者の先輩はそう言った。僕はだんだん裏方責任者の先輩が恐くなってきたが、今さら裏方担当を降りるのも嫌だった。

「笹川さん、どう思う?僕の先輩は狂っているんだろうか?」カウンセリングで僕は笹川さんに相談する。「ええ、狂ってます」笹川さんは簡潔に答える。「まだ若いからその程度で済んでいますが、これからどんどんひどくなるでしょうね、かわいそうに」そう言って笹川さんはため息をつく。「ま、後輩の田村くんの言うことなんかなんにも聞かないでしょうから、無駄な忠告をしたりしないほうがいいですよ」そう教えてくれる。「さ、本題に入りましょう。最近見た夢の話をしてください」そう言われて僕はためらう。「嫌ですよ、夢の話なんて。恥ずかしいじゃないですか」
「じゃあ、私からしましょう。私は華麗なドレスを着ています。たぶん自家製です。そんな私の目の前に、裸の田村くんがしょうもない裸をさらけ出していて、手で、胸と局部を隠しています。私の恋人の上地も裸です。私は二人に訊きます。どうして裸なのか、と。田村くんは寒いからだ、と答えます。私はなぜか怒って、田村くんの手をどかそうとします。そこに上地がまあまあまあ、と割って入って、そのドレスいいね、とお世辞をいいます。なぜか、私はそのお世辞に舞い上がってしまいます。猿が出てきます。言うまでもなく裸です。私は猿の毛繕いや耳掃除をし、恍惚とした気持ちになってしまいます。おしまい。私の昨日の夢は以上です。次は田村さんが話してください」
「まいったな。僕は夢ってほとんど覚えられないんですよ。最近夢を見ているかどうかすらわかりません」少し申し訳ない気持ちで僕はそう言う。
「大丈夫です。夢のことを日常で話すと夢を見やすくなりますから、次回は話してください」笹川さんは優しくそう言う。忘れ物をした生徒に優しい先生が言うように。僕らは少し雑談をする。上地さんの新しい演劇のこと、演劇で使用するまわしのこと。「私、上地に厳しすぎたかな。一緒にいて楽しかったから、別れてもったいない気がするよ」別れるのが既に決まったことであるかのように笹川さんは呟く。「でも、がんばってもっといい男、見つけるよ」

 上地さんの舞台が始まる。喫茶店に敷かれた花道、その土俵入りから舞台ははじまった。立派な力士だ。こんな役者、どこから見つけてきたんだろう。力士の四股、所作を喫茶店の客が見つめる。観客を含めた全員の視線が力士に集まるが力士はものともしない。儀式を終えた力士はカウンターの端の席に腰掛ける。マスターが「いつもの」と言って力士にコーヒーを差し出す。力士はスポーツ新聞を読みながらゆったりとコーヒーを飲み始める。力士はよく見ると男前だ。七人の侍にスカウトされそうなくらいに。マスターはゆっくりとした動作で店の花道を片づけ、代わりに畳二枚分くらいの小さな土俵を店の中央に作る。マスターは「順番にどうぞ」と静かに宣言する。悩みを抱えていそうな女子高生が立ち上がり、力士に近づき「お願いします」と言う。力士と女子高生は土俵で立ち会う。無言のまま二人は組み合い、力士があっさり寄り切る。女子高生は悔し涙を流し、「もう一度」と力士にせがむが、力士は相手にせず、スポーツ新聞の続きを読み始める。次に、体格のいいサラリーマンが力士に申し込み、二人は土俵でスクワットの体勢のまま対話を始める。「おすもうさん、俺は狂っているんでしょうか」「さあな」力士はあまり会話が得意でない。僕は演劇を見ながら思う。あーあ、これで上地さんと笹川さんが別れるのは決定的だな、と。力士は家に帰る。あなた、遅かったのね、稽古の後、毎日どこに行っているの?綺麗な奥さんが心配そうに迎える。喫茶店に寄っているだけだ、心配すんな。そう言って力士は奥さんを優しく抱擁する。この辺りから舞台はメロドラマとホームドラマの様相を呈してくる。力士は無骨な魅力でだんだんと観客の支持を得ていく。女子高生との立ち会いで見せる恥じらい、本場所で見せる鬼の気迫、スポーツ新聞を読むときのきさくなおっさんとしての佇まい。そう滅多にお目にかかれない俳優だ。それと平行して、奥さんのセクシー衣装もだんだんと露骨になっていく。家で力士を迎えるときのミニスカート、本場所を見に行くときのかっちりとした和服、家で一人くつろぐときのブラジャーと小さなまわし姿。力士の俳優としての実力と、奥さんのセクシーさを全面に押し出してくる。そんなある日、ライバル力士の密告で、奥さんは喫茶店を訪れることになる。あなた、ここがいつも言っている喫茶店ね。なに、この土俵は。なに、この女子高生は。あなた、こんなところでなにをしているの?力士は女子高生を静かに寄り切ると、とうとうこの日が来たか、お前、土俵に上がれ、そう奥さんに告げる。奥さんは、他の客が見ているなか服を脱ぎ、ブラジャーと小さなまわし姿になる。土俵で向き合う二人。立ち会いは互角、奥さんが右の上手を取る。力士も奥さんのまわしを取ろうとするが、奥さんは巧みにさばいて取らせない。しかし力士は力にものをいわせて強引に奥さんを押し出す。二人は喫茶店のカウンターに座る。長らくあなたと喫茶店なんて行ったことなかったわね。ああ、そうだな。たまにはこういうのもいいわね。ああ、そうだな。力士はスポーツ新聞を読み始め、奥さんはファッション雑誌を手に取る。ウェイトレスがテーブルの客にコーヒーをこぼし、すみません、すみません、……、と謝りながら幕は閉じていく。

「どうだった、翔子。審判をしてくれ」神妙な顔つきで上地さんは笹川さんに訊く。
「不合格。上っち、残念だけどこれでお別れね」笹川さんは躊躇なくそう言う。上地さんはしくしく泣き始める。「でも、でも、翔子、それでいいのか?あんなに楽しく過ごしていたのに。あんなにいい感じで、いちゃついていたのに。田村くん、なにか言ってくれ」上地さんはめそめそと僕に寄りかかる。僕は上地さんを丁寧に離してから、なにを言ったらいいものか途方に暮れる。「あのー……。僕ここにいていいんですか?」そう笹川さんに訊ねる。笹川さんはニコッとビジネス的な笑みを浮かべて言う。「むしろ、いてくれると助かります。その方が、私たち二人が冷静になりやすいので」僕は先程見た演劇を思い返す。演劇の出来映えで恋人同士が別れるということについて考えてみる。気がつくと貧乏ゆすりをしている。
「演劇は……ブラジャー姿にドキリとして得をしたような気分になりました。正直なところを言わせてもらえば。感動とかはなかったですね。笹川さんは上地さんのどこらへんに可能性を見ていたんですか?」
笹川さんは小さな石でもぶつけられたかのような嫌な顔をしたが、気持ちをとり直して話し始めた。「上っちの演劇を初めて見たときにね、他の人は分からないかもしれないけど私分かる、この人才能あるかも、って私は思ったの。コミカルで、流れがよくて。でも私の見当違いだったのかもね。今日の演劇も、変な思いつきはあっても、人の心に届く内容がないもの。ごめんね、上っち、はっきり言って」
そう聞いた上地さんはまたしくしくと泣き始めた。思いのほか静かに二人は別れた。最後には握手さえしていた。上地さんは両手で笹川さんの右手をギュッギュッと握ってから、「これからも俺たち友だちだからね、ね」と言っていたが、笹川さんは無言で手を握られていた。

 僕は演劇の感想を言うために未雪さんの部屋にお邪魔する。未雪さんは研究の途中だったようで、机の上には書類が山のように積まれていたが「おお、いいところ来たね田村くん、ちょうど休憩しようと思っていたんだ」と言って明るく招き入れてくれる。僕は演劇の感想と、笹川さんと上地さんが別れたことを報告する。「いいことじゃない、だって笹川さんと上地くんじゃ、釣り合わないもん」そう言って部屋で簡単に作ったうどんをすする。
「未雪さんは、もし彼氏がギター下手だったら、別れたりしますか?しないですよね?」僕は試しに訊いてみる。未雪さんはうどんを食べる手を止めて、一瞬難しい顔をしてから「別れないね」と短く答える。そして再び考え込む。「でも、下手でもいいけど、センスが悪かったら別れるかもね。だって一緒にいてつまんないもん」そう言って上品にうどんをかき込む。
「でも、笹川さんは、上地さんと一緒にいるのは楽しいけど、って言っていましたよ」僕は食い下がる。未雪さんは質問には答えず、煙草に火をつける。「食後の煙草ってほんとサイコーだよね。うどんの最後の方なんてたばこで頭いっぱいだったもんね。あーあ」僕も煙草に火を付けてしばし沈黙を味わう。未雪さんはゆっくりと煙草の火を消してから、「ほんなら、定期演奏会も近いし、ちょっとギターを田村くんに聴いてもらおうか」そう男性的に呟いて未雪さんはギターのケースを開ける。指ならしに短い練習曲を一曲弾いただけで、「ほんじゃ、いきます」と宣言する。未雪さんは演奏会ではバリオスの『ワルツ第三番』という曲を弾く。『森に夢みる』と同じ作曲家の作品だ。未雪さんはごく日常的な感じで弾き始める。普通に冷蔵庫を開けてそこにあるものをパクッと食べるみたいに。でもすごく集中している。曲は、エレガントでありながら、情緒的な迫力に満ちている。なんでやねん……どうしてやねん……わしにできることはなんかないんか……、そんなことを言いたげな印象を残して曲は進んでいく。思い詰めつつも、根は明るい、情に弱い、そんなおっさんを連想する。神は感じないけど、なにかすごくいいものを感じる。なにかは分からないけど。「どう?神を感じた?」未雪さんはふざけて訊く。僕は小さく笑う。「いいですね、いい。ありがとうございました」余計な感想を言う気も失せて僕はそう答える。
 その後、以前に行ったジャズバーに二人で飲みに行く。「デートみたいだね、あはは」未雪さんは明るく笑う。二人で奥の席に座り、テキーラを飲む。これがデートだったらいいのに。弟だったらいいのに。未雪さんに恋人なんかいなければいいのに。まとまりにかけたことをグチャグチャと考えながら、未雪さんと向き合う。「田村くん、急に無口になったね」未雪さんは不愉快そうでもなくそう呟く。二人でじっと音楽を聴く。
「あのね田村くん、君に話してみたい話があるんだ。誰にでも話す話でもないんだ。長いよ。していいかな?」丁寧で押しつけがましくない口調で未雪さんはそう言う。
「あ、もちろん。聞きたいです」未雪さんはふー、と軽く息を吐いて、なにか自然な準備をする。さっきギターを弾いたときみたいに。
「なにから話せばいいのかな。つまり、私が苦しかった時期のことについて話してみたいんだ。なぜ話したいのかな。別に、田村くんの人生の参考になる、とかいうわけでもないんだけどね。君に親近感を持っているからかな、話したいのは。とは言っても、親近感を感じる人みんなに話すわけでもないんだ。要約すると、なぜ君に話したいのか、よくわからないんだ。ごめんね、簡単な結論で。でも言葉にできないだけで、きっとあると思うよ、理由。私、大学の先生に辛い目にあわされたことがあるんだ。とは言っても、自分の先生じゃないの。真理子の先生なの。真理子とは院に進んでから専攻がちょっと違ってあんまり会わない時期があったんだけど、ある日久々に真理子に会ったら、なんか元気なくてね、真理子、大丈夫?ちゃんと食べてる?って訊いてみたら、真理子は力なく笑って、未雪ちゃんは相変わらずだね、元気で、ぽっちゃりして、なんて言うの。真理子は割と、というか、かなり大人しい女の子でね、何人かで集まっていると黙ってジッとしていて耳をすましているタイプなの。いじめられてもやり返せるタイプじゃなくて、すっと逃げ隠れちゃうの。存在感を消すというか。でも、ゼミの討論とかで意見を求められると、「そのセミの抜け殻はマンデルブロー集合に関連があると思います。なぜなら……」とか、かなり独創的で結果的には正しい発想をする子なの。そこがかわいくて。でも外見もかわいいの。動物園から逃げてきた美しき猿、っていうか、ちょこん、ってしていて遠くから見ても悪意がなさそうな感じなの。かわいさの説明になってないかな。痩せていて、小さくて、目が綺麗で、アイドルにはなれないけど小説のヒロインならなんとかいけそう、って感じかな。その真理子がね、指導教官が急に亡くなられて、新しくやってきた片桐教授に指導教官になってもらったんだけど、相性が悪い、いじめられる、誰にも相談できない、って言うの。相談できない?今、私に相談してんじゃん、あはは、って私が笑ったら、そうなの、未雪ちゃんにはなぜか話せるの、って真理子がボソボソ言うの。立ち話もなんだから、喫茶店に入って話を続けたんだ。どんないじめを受けるの?セクハラ?ううん、セクハラじゃないの。片桐先生は、女としての私には興味ないみたい。とてもスマートでオシャレな先生でね、学部生にはとても人気があるの。私以外の院生にも人気があるの。ふんふん、それでどう真理子をいじめるの?うーん、説明しにくいな。院生と飲みに行くのが好きな先生なんだけど、私だけ誘ってくれないの。何人か院生がいるときも、私だけいないみたいに扱うの。でもそれはそれでいいんだ、私そういうの慣れているし。ちょっと真理子だめだよ、不当に扱われるのに慣れちゃ!そうかな?そうだよ!ありがと、未雪ちゃん。未雪ちゃんにそう言われると、自分が悪いわけではないかも、って思えてくるよ。でもね、片桐先生ね、せっかく自分の教官になったから、ためしに論文を読んでみたの。下らなくてね、論文、よくこの程度の論文で京大の教授になれたね、って正直思ったわ。それで、先生に正直に言ったの、下らないですね、って。真理子、だめだよ!そんな正直なこと言っちゃ!そうかな?そうだよ!それでね、それ以降、私、先生に嫌われるようになっちゃったの。備品の移動を一人でさせられたり、研究室の掃除を一人でさせられたり、学会の発表を許可されなかったり。おしりを触られたり。おしりを触られた?それってセクハラじゃん!そうかな?そうだよ!でも先生は『たいした尻じゃないな』とか言ってたよ。ぷんすか。私、真理子の代わりに訴えてやる、真理子、訴えるとかそういうの苦手でしょ。うん、苦手、未雪ちゃん、やってくれるの?まあ、真理子と二人で喫茶店でそんな話をしたんだ。それから私はぷんぷん怒りながら学生部の『セクラハ・アカハラ相談室』に行ったんだ。そこの相談員がね、ちょっと仕事にやる気がなさそうなおっさんでね、『ほおー、それは大変でしたねー、片桐教授がねー、人気あるのにねー」なんて面倒くさそうに言うわけ。『解決してくれますか?』って単刀直入に言ってみたらその係員はうーん、って唸って、『全力をつくしますが、私の力では片桐教授に及ばないかもしれませんなー』とか言うわけ。個人的なケンカでもする、みたいな感じで。頼りないなー、って思って、パッとそこを後にして真理子と一緒に片桐教授の研究室に乗り込んだの。真理子は研究室の外に待たせてね。私はバーンと扉を開けて、失礼しまーす、って怒鳴って、コンピューターの前に座ってメールを書いていた男の横にドンと腰掛けたの?『あんたが片桐教授ね?私、未雪。真理子の尻、触ったでしょ?』ってまたも単刀直入に訊いたの。男はすごくビックリしていたけど、趣味のいいスーツの肩をパンパンと叩いてカラフルなネクタイに付いているネクタイピンを少しだけずらして、『そうです、私が片桐です。はじめまして。しかしながらですね、石橋さん(真理子のことね)にセクシャルなハラスメントをした、というのはまったくの事実無根ですよ』ってにこやかに、それこそ、こんな素敵な微笑をつくれる人がどんな小さなことでも罪をつくれるはずがない、って私でさえ思ってしまうほどにこやかに微笑するの。まぶしかった、笑顔が。でも同時に、怪しかった、笑顔が。そんな素敵な笑顔を振りまくべき話題じゃないのに。『じゃあ、真理子のお尻を触ってない、っておっしゃるんですね?』って訊いたら、英語でオフコース、とか言いそうな身振り手振りで『もちろんです』って片桐は答えたわけ。ふん、って鼻をならしたね、私は。『あたしはさあ、回りくどいこと嫌いだからさあ、表に出ろよ、片桐』って言って、ずんずんずんって片桐に迫ったの。そしたら片桐は心底ビビッたというか嫌だったみたいで、変な汗をかいてた。片桐は『あなたがだれだか知りませんが』って眉毛をピクピクさせながら震え声で言って、『一社会人としてそんな狼藉は許されませんよ』って言って私を指さすの。指さすなっつーの、このバカが。そう思って片桐の顔面を思いっきりパンチしたの。いいパンチだったわ、自分でも惚れ惚れするくらい。
片桐がどう感じたのかわからなかったけど、半分うれしそうにニヘニヘ笑いながら『名前はみゆきさん、だったね、確か。上の名前は?』って訊いてきたの。私は『私は農学部の院生。すぐに分かるから後は自分で調べな』って答えたわ。今にして思えば、なにも答えなければよかったかも。でもね、片桐は、ふへ、フヘ、って笑って、『未雪さんー、社会のルールを教えてやるう、少々肌寒いがとっても役立つからなあ、覚えておけえ』ってまたうれしそうに私を指さすの。気持ち悪いから部屋を出たよ。外で真理子と待ち合わせたら、真理子心配してくれたわ。『未雪ちゃん、大丈夫?手から血が出ているよ、ピンセットかなんかで刺された?』って。違うよ、真理子、これは私が片桐を殴ったからなの。そしたら真理子は青ざめて、ああ神様、神様、って言うわけ。私は、ずいぶん大袈裟な、って思ったわ。でも真理子はブンブンと首を横に振って、未雪ちゃんはわかっていない、自分がどんな恐いことをしたのかわかっていない、神様のこともわかっていない、つまりなにもわかっていない、これから片桐先生は未雪ちゃんに復讐すると思うけど、社会的にはすべて片桐先生が正しいとされてしまうのよ、未雪ちゃんがいくら正しくても、みんなは正しいと思ってくれないのよ、わかるの?そのきつさが。でも私は未雪ちゃんの味方、いつまでも味方、それを忘れないで。ちょいとちょいと、真理子、話が飛躍しすぎていない?大丈夫?下らない奴を一回殴っただけだよ?そんなこと、私は大学入る前も入った後も数え切れないくらいしてきたんだよ?真理子は荒れた息を落ち着かせようとしたね。はあはあ。確かにそうだけど、今回はなんか他のと違う気がするの、未雪ちゃん、とにかく気をつけてね。はいはい、わかりましたー。という訳でその日はあっさり寝たの」
「なんていうか、未雪さんらしい話ですね。面倒くさい手続き抜き、みたいなところが」僕はとりあえず短い感想を言った。
「ふんふん。まあそうかもね。でね、次の日起きて玄関を開けたらなんかドアがいつもと違うな、と思って、なんなんだろ、この違和感、と思ったら、なんとビックリ、ドアに花束がくっつけてあんの。のし紙みたいに。小さな紙にメッセージ付いていて『ベランダの鍵が開いていましたよ。用心してくださいね。K桐』って書いてあんの。きも、って思ってね、早速また片桐の研究室に乗り込んだの。今回は学生が3人くらいいてね、なにかキャーキャーって色めき立っているの。きも、って思ったけど冷静に『片桐先生がこれを私の部屋に置いたんですか?』って訊いたら、片桐は満面の笑みを浮かべて『そうですよ、私の愛しい人よ』なんて言うの。それを聞いた学生がキャーキャーやっぱりこの人よお、なんて更に色めき立つから、プチンと切れそうになったけど、そこは冷静に、『あのー、すみませんけど、片桐先生と二人きりにして下さる?』って少しブリッ子したの。二人きりになってから『どういうつもりですか?』って片桐に訊いたら、片桐は少し下を向いて照れたような素振りを見せて、『あなたのことが好き、ということに決まっているじゃないですか』って言ってマウスを手にとってもじもじするの。『私はあなたのことが嫌いです。これ以上つきまとったらそれなりの反撃をするので覚悟してくださいね』って言って立ち去ろうとしたの。ドアを開けようとしたら片桐が後ろからギュっと抱きついてきて、はあへ、幸せ、なんて言うから、私は完全に頭にきて顔をポン、ポン、と二回殴って、ついでにコンピューターを壊して部屋を出たの。ああ、思い出すだけで気持ち悪い」
「ストーカーに会った、ってことですか。大学教授のストーカーに」と僕は訊いた。未雪さんはドリンクをストローでかき混ぜながらしばし考えた。
「ストーカーか。そうも言えるかもね。次の朝、ガラスがパリンとする音で目が覚めたらジャージ姿の片桐がハンマーで窓ガラスを割っているんだもの。めっちゃビックリしたけど、私は一対一のケンカでは勝つ自信があったから、意外に冷静だったわね。関係ないけど、そのジャージがおしゃれでね、いかにもインテリが趣味でマラソンしてます、体力もある素敵なインテリです、ってアピールしている感じのジャージでね、窓ガラス壊して他人の家に侵入するにはあんまり似合ってなかった。片桐は窓ガラスの割れた部分で自分の手を切らないように慎重に窓の鍵を外して、スッと窓を開けたわ。はあはあ、ってうれしそうでね、『だめじゃないですか、未雪さん、不用心で』なんて言うの。私はもぞもぞと起きあがって、台所にあったフライパンを手にしてパコンと片桐に殴りかかったの。そんなに強く叩いたわけではないんだけどね、それでも額から少し血が出たよ。片桐は、面白くてたまらない、みたいに、あひゃひゃ、暴力事件だあ、って言って私のパソコンを起動するの。私のパソコンに触るなっつーの、って思いながらもう一回フライパンで叩いたら、今度は片桐が倒れてね、気絶したみたいなの。まいったなー、邪魔だなー、めんどくせーな、って思いながら警察に電話したわ。15分くらいして警官が二人やってきて、私たち二人のカッコを見て、『この男が侵入してあなたが退治した、ということですかね。それでもいくつか質問させて頂きますよ』って物わかりがよさそうな片方の中年警官が言うの。私に質問している間、もう一人の若い警官が片桐の頬をぱちぱちしたり水をちょっとかけたりして起こそうとするの、『おいこの変態、起きやがれ』とか威勢のいいことを言いながらね。何分か片桐も呻いていたけど、だんだん目が覚めてきたみたいで、やいお前ら二人、未雪ちゃんの彼氏かなにか知らないががが、手を手を、出すな、二人して手を出すな、とかちょっと支離滅裂なことを言い出して警官も警戒していたけど、片桐は、はっと目を見開いて、とっさに事情を把握したみたいね。『すみません、私が未雪さんの部屋に侵入しました。連行してください』って言って大人しく連行されていったわ」
「それが未雪さんの嫌だったという話ですか。大変でしたね」僕は月並みなことを口にした。未雪さんはぶんぶん、と首を横に振った。そうじゃないの、と言いたげに。
「本当にきつかったのはここから。次の日、指導教官に呼ばれてね、何故か私の事件はみんな知らないみたいで、『片桐先生が未雪くんのことをいたく買っているそうだね』なんてうれしそうに言い出すの。『君は優秀な学生だし、私も君を指導したいのはやまやまだが、いかんせん、君も知っての通り、私の専門は農学部ながら政治経済で、動植物のことじゃないからね…。片桐先生はセミの抜け殻の大家だし、君もしばらく片桐先生についたらどうだろうか』なんて言い出すの。先生、多少専門は違っても私は先生に習いたいです。片桐教授は、昨日私の部屋の窓を割って侵入したんですよ?つけるわけないじゃないですか。って言ったら、私の先生はよくわからない、みたいな顔をして、まあとにかく今日の君のゼミの発表、片桐先生にも聞いてもらうから、よろしく、って言って部屋を出て行くの。言いたいこともあるだろうけど、僕、お腹空いているんで、また後でね、とか言いながら。私は納得しなかったら、ずんずんずんと先生の後をついていったの。先生、一緒にご飯食べましょ。いいよ。先生、片桐教授は昨日の朝、私の部屋の窓割って侵入したんですよ、先生本当にご存じないんですか?って訊いたら、さすが私の先生ね、神妙な顔になって、それって本当に?ちょっと片桐くんを問い詰めてみるよ、とりあえずこの話はおあずけね、って言ったわ。そんで、午後になって私の先生から電話があったの。『ごめんね、片桐教授、未雪くんの家に侵入してつかまったんだってね、そんな男に指導を受けることを勧めて、僕はバカだったよ、許してくれ未雪くん、今度なにかおごるから、おいしいものおごるから』って先生が言うの。まあ、先生も悪気があったわけじゃないし、知らなかっただけだし、おごってもらえるし、まあ、いいか、って思ったの。その夜、真理子が心配して部屋を訪ねてきてくれた。未雪ちゃん、部屋に侵入されたんだってねえ、大丈夫?大丈夫?って本当に心配そうに訊くの。まるで、心配性のベビーシッターみたいに。『未雪ちゃん、今日は泊まらせてもらうよ、心配だもの、ううん、未雪ちゃんは心も体も強いから心配いらないのは知っているけど、でも心配したいの。未雪ちゃんを守ろうとしたいの』って、まごまご真剣に言うの。飼育員の帰路の安否を気遣う猿山の猿みたいに。まあそれはそれとして、その夜はのんびりお酒を飲みながら話して、楽しく過ごしたよ。私もそのころ気が張っていたんで、ずいぶんほっとした。次の朝起きたら、真理子がソファにこぢんまりと横になっていて、とっても可愛かった。可愛かったから、ぎゅっとしてみた。そしたら真理子が起きてね、『みゆきちゃん温かいね、もちもちして気持ちいい』とか半分寝ぼけて言って、それが可愛くて、ぎゅっぎゅっとした。ちょっとレズっぽかったけど、二人であはは、と笑い飛ばしたよ。楽しかったな。なんの話だっけ。そうそう、私がつらかった、って話だったね。その日以降、たまに私のポストに片桐からの手紙が入るようになったんだ。気持ち悪くて嫌だったよ。けどね、一応内容を確かめてみたら、割とまともに読める内容だった。こんな感じの内容。『侵入したのは本当に悪いことでした、これは謝って済むことではありません、しかしながら謝らせてください、申し訳ありませんでした、石橋くん(真理子のことね)へのいじめも止めます、未雪さんに謝ってすむことではありませんが、申し訳ありませんでした、後で石橋くんにも謝っておきます、ところで、ただ一つ確かなのは、私があなたを愛しているということです、ただ私はすでに大変おかしなことをあなたにしているわけで、近づく権利もなければ、こうして手紙を投函する資格もないわけで、不快でしたらただちに止めますので、そうであれば私のメール宛に一言おっしゃって下さい、superkatagiri@kyoto-u.ac.jp、あなたはまるで太陽のようだ、初めて見たときにそう思いました、みんなを照らすが、夜はどこかに隠れてなにをしているか誰も知らない、という意味です、別に悪い意味ではありません、そんなに頻繁でなくてもかまいません、週に一回ほど手紙を投函する権利を与えられたら、ローマ市民権を与えられた古代の解放奴隷のようにありがたく思います、今日はこれで失礼いたします、最後まで読んで頂いてありがとうございました、片桐』とか書いてあんの。結構達筆でね、一文字一文字、一本一本、なにか手紙の試験でも受けてるみたいな感じで丁寧に書いてあんの。私は早速パソコンを起動してね、メールの宛先に片桐のメールアドレスを打ち込んだよ。本文に、もう手紙は出さないで下さい、って簡単に書いてね。でも『送信』をクリックするのを躊躇した。躊躇して、とりあえず『下書き』に放り込んでおいた。なんで迷ったんだろうね、今でもわからないよ。とにかく、片桐のことについては、気にしないことにした。なるべくね。こちらからはなにも反応しない、そう決めた。金曜日、学校から帰ってくると必ず片桐からの手紙が入っていた。気が向いたら読んであげるし、気が向かなかったらゴミ箱にポイ。しばらくしてから、真理子にいじめが止んだかどうか訊いてみたの。真理子は、うれしそうに目をパチパチさせて私を見るの。『止まったよ、やっぱり未雪ちゃん、すごい、尊敬する。私も気が楽になって、他の院生とも少し話せるようになった。飲み会にも誘われるようになった。それでね、勉強に集中できるようになったの。それがうれしい』って言って、私の手をギュッと握るの。ありがとう、ありがとう、って何回も呟いて。小学校のころ、クラスのいじめを止めさせたらいじめられていた子のお母さんに感謝されたことがあったけど、こんな感じだったわ。真理子の片桐への評価も少し変わったみたい。『セミの論文、説得力に欠けるな、って思っていたけど、セミの抜け殻への情熱自体は、とてもすばらしいと思う』って言っていたね。ふーん。まあ、真理子の生活が好転してよかったよかった、めでたしめでたし、って感じ。それで私の片桐への評価が変わるわけじゃない。片桐がしたことが変わるわけじゃない。でも、その日、家に帰ってからパソコンを起動して、『下書き』に入れてあった片桐へのメール、もう手紙送んなよってメール、を削除しちゃった。片桐が自己満足の手紙を私のポストに入れることで真理子の生活が守られるならまあそれでいいか、と思っちゃったわけ。その次の日が金曜日で例によって片桐の手紙が入っていて、こう書いてあったわ。『親愛なる未雪さん、今回も私の手紙をポストに入れさせていただいてありがとうございます。あなたに会いたい。でも、会うのは迷惑。そして私は、あなたがゼミの発表で家に確実にいないこの金曜の午後に手紙を出しにあなたのアパートに行く。あなたは思うかもしれません、郵便で送ればいいじゃないか、と。一理あります。二理くらいあります。けっして、郵便代がもったいないわけではありません。なにかの理由でゼミがキャンセルされて偶然あなたにバッタリと出くわす幸せを期待しているからでもありません。あなたのアパートの近くの森のセミが目的なわけでもありません。あなたのアパートの近くに、おいしいクッキー屋があるからです(『ごえもん』という店です)。ごめんなさい、非ロマンティックな理由で。謝る必要もないですね、私のロマンなど、あなたにとっては邪魔かつ無意味でしょう。それはともかく、『ごえもん』のクッキーは秀逸です。ぜひおためしあれ、と思って手紙と一緒に入れておきます。物理的あるいは心理的に負担に感じるようでしたら、お友達にあげるなり、捨てるなり、自由にしてください。それではお元気で。片桐』食べ物に罪はない。だから捨てるわけにはいかない。『ごえもん』のことは片桐に教えられる前から知っている。おいしいのは知っている。だから食べることにしたの。でも、食べていて気分が悪くなってきた。私が食べ物に弱いのを片桐は知っていて、巧みに利用されている気になってきた。それで吐いてしまったの。吐いた物を片づけながら、私はみじめな気分になってきた。じゃあ、どうすればよかったの?捨てればよかったの?それはありえない。誰かにあげればよかったんだ。研究室の休憩所にポンと置いておけばよかったんだ。どうしてそうしなかったんだろう、私、バカ?片桐にはっきり言いに行こう、負担だと。邪魔だと。そう思って、金曜日の夕方、てくてく歩いて大学に戻ったの。片桐の研究室の灯りはついていた。その時の私はあんまり元気じゃなかった。吐いた後だったし、なんとなくげんなりしていた。人をちゃんと殴る自信がなかった。それでも私は片桐の研究室に行ったの。こんこん、ってノックしてね。片桐先生、今いいですか、って言ってね。片桐は落ちつきの中にもうれしさを隠せない余裕のある表情で『いいですよ。クッキー、いかがでしたか?』って訊いてきた。私はこう言ったの。クッキーはともかく、先生の手紙、負担に感じるんですよ。もうやめてもらえませんか?って。片桐は、自信はあるが理解のない、しかし理解しようとしている父親みたいに、うんうんと頷いて『負担なんですね……』って寂しそうに言うの。椅子をクルッと回して私から顔を背け、窓から外を見るの。私は、『片桐先生、もしそうなったらまた真理子をいじめますか?』って訊いた。片桐は窓の外を見ながらずいぶん長い間黙っていた。スーパーコンピューターが静かに安置された場所で黙っているみたいに。『いじめ……ません、石橋くんをいじめません。そんなことしたらあなたに嫌われちゃいますもん』そう言って椅子の向こうで指をもじもじいじくっていた。はああああ、って非常に大きなため息をついていた。ため息つくのを聞いて欲しい!って感じのため息。『未雪さん、僕たちなにもなかった頃にリセットできないんでしょうか?私が数々の悪印象なことをする前に戻れないんでしょうか?素敵な女性と素敵な男性がなんの先入観もなく出会う、ということにはなれないんでしょうか?なれないんでしょうね、あはは。なんのために今までセミの研究をしてきたんでしょうね、僕は』そう言ってしくしく泣くの」
「よく分からないんですけど、片桐教授って素敵な男性なんですか?」僕は質問した。
未雪さんは、うーん、と黙り込んだ。
「おしゃれ教授だから、普通にもてると思うよ。ただ、私のタイプじゃない。先入観なしに会ったとしても、一緒にいてもそんなに面白くないかも。でもそのクッキーもらって片桐が泣いた日から、私は金曜の夕方にアルバイトすることにしたの。片桐の相手をする、というアルバイト。時給4000円。自分でも変なこと、正しくないことをしているなあ、という自覚はあったよ。ただ片桐も普段はそんなに変人でもないし、たまに面白いこと言うし、お金もらえるし、試しにやってみようかな、って感じ。それで、いろいろ話を聞いてあげた。片桐の幼少時代の話、いじめられた話、いじめた話、ファッションへの目覚め……、いろいろね。一時間経ったところで私はハイさよなら、また来週、って感じ。片桐は話すのに夢中で、不思議と私のことを訊いてこなかったな。子どものころどう過ごしたの?とか、趣味は?とか、訊いてこないの。結局、片桐は私がクラシックギターやっていることも知ろうとはしなかった」
僕は閉店時間が迫っていたので焦ってきた。「未雪さん、なかなか未雪さんが辛かった、って話までいきませんね」僕は簡単に感想を述べた。未雪さんは苦笑した。「確かにこうやって話しているとなにが辛かったの?って感じだね。田村くん、まともなこと言うね。だからこの話をなかなか他人にできないのかもね、前振りが長いから。もう閉店の時間だね。この話はまた今度ね」
「でも途中まででも訊けてよかったです。ありがとうございます」僕は何故かそう言った。未雪さんは、下手な演奏を誉めてもらった人みたいに苦笑して「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」と言った。
 
 僕と笹川さんは大学のカフェにいる。「田村くん、最近夢を見ましたか?」そう笹川さんは簡潔に訊く。「見ている気がしますけど、内容は覚えていないですね。いい夢か悪い夢かもわからない、セクシャルな夢ではない、そんな感じです」僕はあっさりそう答える。笹川さんは軽く横を向き、舌打ちする。「そんなこと言われても、会話が前に進まないじゃないですか。なんですか、そのデッドエンドは」笹川さんは不満そうに僕に問をぶつける。僕は答える。「すみませんね、覚えてなくて。元々、僕は夢をあまり見ないんですよ。笹川さんはなにか見ましたか」笹川さんはまた横を向いて舌打ちする。「私の夢なんてどうでもいいんだよ、今は。あんたのカウンセリングの時間でしょう?治る気あるの?ないの?」今日の笹川さんは何故かイライラしている。そのイライラはどこから来ているんだろうか。僕のカウンセリングが順調にいかないからだろうか。彼氏と別れたからだろうか。わからない。一つ、夢をでっちあげてみよう。
「治る気、ですか?ありますよ、ある程度は。全くなかったら来てないですよ、こんな京都の端っこまで。昨日の夢をがんばって思い出してみましょう。……。僕は小さな河で遊んでいます。疎水くらいの小さな河です。小さなボートが河の上流からやってきます。よく見ると僕の知り合いも何人か乗っています。僕は、『おーい田村、お前も乗れよ』と言われることを期待しています。ボートの上の知り合いたちは僕に気付き、手を振ってくれます。ところが僕はそっぽを向いてしまいます。ボートは僕の背後を通り過ぎます。僕は通り過ぎたボートに向かって手を振りますが、彼らはこちらを見てくれません。僕は河に向かって水切りを始めます。なかなか上手です。つい熱中してしまいます。そこにメジャーリーグのスカウトという人が現れて、水切りうまいね、と誉めてくれます。ありがとうございます、と僕は言って、二人でしばらく静かに河を見つめます。しばらくして、メジャーリーグのスカウトは静かに去っていきます。僕は未雪さんに会いたくなって、自分のアパートに帰ろうとします。すると先程のメジャーリーグのスカウトの人が道に倒れています。脈が止まっています。僕は、近くにあったAEDの装置を使って彼を蘇生します。はあはあ。息を吹き返した彼は、ありがとう、こんなところでオファーを出すのもなんだが、レンジャーズの用具係として働いてみないか?テキサスは暑いけどね、と言ってくれます。僕はなぜかムッとして、AEDの電気ショックをもう一度彼にかけてしまい、その場を逃げ出します。……。後は覚えていませんね……」
笹川さんは僕の話を集中して聞いているようだった。「まあ、夢っていうのは結構病んでいるものですよ…」とやや上から目線で呟いた。「僕の夢からなにがわかるんですか?」
笹川さんは軽く微笑んで「まあ、短絡的に結論を導くのは止めましょう。今日は田村くんが自分の夢を素直に話してくれたこと自体を評価しましょう。そのメジャーリーグのスカウトについては、田村くんがなにかどんでんがえしを望んでいる、ということかもしれませんね。なにかいいところに就職するとか、人間関係をつくるのが急激に上手くなるとか。なにかね。ま、次回も引き続き夢を聞かせてもらいます。今日はこのくらいにしましょうか」
 カウンセリングが終わってからもしばらく雑談する。「笹川さん、新しい彼氏できた?」僕は軽く訊いてみる。笹川さんは少し慎重になる。「うーん。候補は何人もいるんだけど、男はしばらくいいかな、って感じ。別れるのが大変だしね。前は、小さな劇団を主宰しているくらいのレベルの男でもいいか、将来大成すれば、って思っていたけど、なかなかうまくいかないね。もうすでになにか賞をとっているくらいのレベルの男でないとダメかも、私。生意気とかスノッブとか思うかもしれないけど、私は単に正直なだけ。一緒にいて楽しくて、みんなが認めてくれる芸術をしている男じゃないと嫌なの。田村くんはないの、そういうこだわり?」
「こだわり?胸が大きいとか?読書の趣味がいいとか?うーん。……。ありますよ。老人と子どもに優しい、とか、少数者への差別に関心が高い、とか、手が長い、とか、胸が大きいとか。でもこちらが好きになれればそういう条件を満たしていなくても全然オッケーな気がしますけど」
笹川さんは、フン、と鼻を鳴らして横を向き、「この理想主義者が」と呟いた。「まあ、田村くんが誰とつきあおうと私にはどうでもいいけど、一つ言えるのは、カウンセリングが必要な人だったら私に紹介してね、ってこと。お客さん増やしたいんで。よろしくね」どうでもよさそうに笹川さんはそう言う。

 ギターサークルの定期演奏会の前日、ボックスで裏方の三人が集まってミーティングを行う。「田村、失敗は許されないからな」裏方責任者の先輩がいやに真剣にそういうので、僕は少しイラつく。先輩は相川さんにもひとこと真剣に言う。「相川さん、アナウンスかんだりしたら、俺が代わりにアナウンスするからな。かむなよ」それを聞いて相川さんも少しイライラする。先輩のつくった予定表を見て不安になる。進行表が秒単位で書いてある。実際にはそこまで予定通りには進まないはずだ。少しでも予定とずれてきたら、どうフォローするんだ?なんなんだ、この「ここで休憩のお茶、18秒」というのは?なぜ18秒なんだ?

 そして計画は破綻する。事前の連絡が不備で、前半最後の演奏者が現れない。先輩はパニックに陥る。「前田、なぜ現れない?俺の計画に恨みでもあるのか?俺は前田を捜しにいくから田村がなんとかしとけ」そう言い捨てて前田さんを捜しに行く。舞台上は沈黙。お客さんが騒ぎ出す。相川さんと相談して、トラブルがあったということで、前半はこれで終了にし、休憩に入る。20分の休憩の間、裏方責任者の先輩は前田先輩を捜しているようだが、典型的な「ミイラ取りがミイラ」になってしまい、もうすぐ休憩は終わるのに先輩は帰ってこない。僕はクラシックのコンサートがどう進むものなのかよく知らないので、僕が代わりにアナウンスをし、相川さんが裏方を取り仕切る。相川さんの気配りが功を奏し、演奏者は次々と気持ちよく舞台に出ていく。演奏会の終盤に、未雪さんもスタインバイしに舞台裏にやってくる。「裏方ごうろうさまー」と相川さんと僕に声をかける。裏方責任者の先輩はいつまで待ってもやってこない。舞台裏にいると、ステージで鳴っている音が少し聴こえてくる。少し遠くに感じるけど、音楽を楽しむには十分な音量だ。こうやって舞台裏で音楽を聴いていると、なにかごほうびをもらっているような気になる。たぶん、客席で聴いているのより楽しいはずだ。拍手があって、未雪さんが舞台で弾き始める。未雪さんの部屋でも聴かせてもらったことのある、バリオスの『ワルツ第三番』だ。普段通りに自然に曲は流れる。ロマンチックで情緒的だ。旅人の情を感じる。寅さんみたいな。ちょっと違うかな。本当は寅さんみたいになりたいんだけど、インテリすぎてそうはなれない旅人を連想する。曲は終了し、未雪さんは熱のこもった拍手を受けて舞台を立ち去る。舞台裏に帰ってきた未雪さんは晴れ晴れしている。次に弾く人になにか冗談を言って笑っている。次に弾く人は未雪さんの冗談で和んだみたいで、なにか楽しいことが待っているみたいなようすで舞台に向かう。未雪さんは僕と相川さんには声をかけずに楽屋へ帰る。

 こうして、演奏会は意外とそつなく終了した。前田さんと裏方責任者の先輩が消えたことを別にすれば、ということだが。二人は、演奏会の打ち上げにも来なかった。でも、みんなそのことを気にしていなかった。少なくとも打ち上げでは話題にしなかった。前田さんと仲の良かった上原さんに「前田さん、どうしたんですかね?」と訊いてみたら「さあな」と言って上原さんは去っていった。未雪さんは僕と相川さんを呼んで「お二人さん、今日はよくやったね。ありがとう、みんな助かったよ。お礼にこれあげる」と言って、相川さんにはジッポを、僕にはギターのCDをくれた。僕と相川さんは、この日はいろんな人に礼を言われた。なにか心に残るいい演奏でもしたみたいに。

 演奏会を境にして、僕もギターの練習曲をコツコツとやるようになった。『森に夢みる』の練習を止める気はなかったが、これらの練習曲は、『森に夢みる』の練習で疲れたときのいい息抜きになった。他の部員と雑談するのも以前ほど苦にならなくなってきた。演奏会が終わってから数日後の夕方、未雪さんが僕の部屋にやってきた。「話があるんだ、飲みにいかない?」二人で安い居酒屋に行く。ここの安さは、ハンパではない。以前、とてもとても気持ちが苦しくて暴飲暴食したくてここにきたときは、おかみさんが「こんなに食べて飲んで大丈夫?すごい金額になるよ?うちの一人客の記録に近づいているよ!」と言って心配してくれたが、結局3600円だった。京都会館の脇を通ってそこへ向かっていたら、未雪さんが寄ってくる。「実はもうすぐ田村くんともお別れなんだ。とは言ってもたまには会えると思うけど」「えっ?どういうことですか?」「まあまあ、話は乾杯の後で」
 未雪さんの話はこういうことだった。もうすぐまたイギリスに短期で行くのだと。帰ってきて修士号を取得したら博士課程は大阪大学に行くのだと。「ね?簡単な話でしょ?大阪だったらたまに会えるよ」未雪さんは軽く言う。「そうですね、たまに会えるとうれしいです」僕は力なく言う。「僕は未雪さんの弟になれたんでしょうか?」僕は思いつきを口にする。未雪さんは楽しげに「うーん」と呟く。「ま、いいか。弟ってことで。こないだ定期演奏会がんばってくれたしね。じゃあ日本酒で兄弟というか姉妹の契りを交わそうか」そう言って改めて乾杯をする。
 今日は片桐教授の話は出ない。僕の方からも訊かないし、未雪さんの方からも話さない。今日はそういうことを話す日ではないのかもしれない。古いロックの話をしながら、僕はハイペースで酒を飲んでいく。いつのまにか沈黙が始まる。気まずい沈黙ではない。沈黙は、バッタリでくわした友人のようにそこに居続ける。未雪さんが呟く。「たまには会えるよね」「そうですね」
 未雪さんの部屋に帰って手をつなぐ。温かくて大きな手だ。未雪さんはビデオテープを取りだし、再生する。ずいぶん昔のNHKのニュース番組だ。未雪さんはそれがなにを意味するのか、全く説明しない。再び手をつないで、無言でそのニュース番組を見る。数年前の株価の動きを吟味し、衆院解散の可能性について考える。有名な殺人事件の発生直後の混乱を振り返る。未雪さんは僕の手を握り続け、やがてニュースは終了する。「一緒に見てくれてありがとう。コーヒーでも飲もうか」普段の口調でそう言うと、未雪さんはコーヒーをつくり始める。「未雪さん、『森に夢みる』弾いてくださいよ」僕は未雪さんにそう言う。未雪さんは苦笑する。「こんな夜中だよ。ギター弾いたらアパートのみんな起きちゃうよ」僕たちはごく小さな音で音楽を流しながら、とりとめのない話をする。
「未雪さんって、どうしてギター始めたの?」
「簡単に言うと、親がやっていたから。まあでも好きなの、個人的に。ピアノみたいに効率のいい楽器じゃないし、バイオリンみたいに格好よすぎないし。身の丈に合った、というか。昔、ル・コルビジュエがつくった集合住宅の実寸大模型に入ったことがあるんだけど、ル・コルビジュエは長さの単位にcmとか使わなかったのね。あんまり杓子定規すぎて、人間が快適に過ごす物体をつくるのにはcmとかはあんまり向いてないかも、とかラディカルなことを思って、平均的な人間の手の長さとか、身長とか、そういうのを単位にして設計したのね。蜂の巣みたいな団地だからごっつ小さいんだけど、一つ一つが二階建てになっている団地でね、気持ちのいい吹き抜けがあるの。内部の階段とか上り下りしていても、なんか目まいがするくらいフィット感があるの。そういうのがなんかクラシックギターに似てるかなー、って思う」
「へー、そうですか。僕はクラシックギター、格好いいと思いますけどね」
「そう、よかったね」
 雑談をしているうちに朝になる。呼んでいない客がのそのそと近づいてくるように太陽が上がってくる。簡単な朝食をつくって食べ終わったころには太陽はすっかり上がっている。「ちょっと早いけど、まあいいか」そう言って未雪さんはギターケースを開け、調弦を始める。「また聴いてもらう機会はあると思うけど、しばらくはないかもね」そう言って『森に夢みる』を弾き始める。最近僕もよく練習しているから、どういう音符になっているかはだいたいわかる。でも、僕の演奏と全然違う。端的に言うと、心がこもっているように聴こえる。なに幼稚なこと考えているだろうな、僕は。徹夜直後で心が緩んでいたので、泣こうと思えば泣けそうな気がした。
「未雪さん、ありがとう。なんかおみやげみたいな演奏でうれしかったです。僕もなにか弾きます」と言って、最近練習しているごくごく簡単な練習曲を一曲弾いた。未雪さんはうんうんうんと大きく頷いて「ええこっちゃ。こういうの、続けるといいよ。とてもね」と先生のように言った。僕たちは子どもの遊びのようにお互いの手をパチパチと合わせて別れの挨拶をし、僕は自分の部屋に戻った。

 未雪さんがイギリスに行って再び友だちと会わない生活に戻った。でも以前ほどには寂しくはない。一人で線香花火をしたりもしない。たまに、未雪さんに手紙を送る。しばらくすると、手書きの手紙が帰ってくる。かなりの長文だ。生活の様子や考えていることをこと細かく教えてくれる。しかし、Eメールを送っても「読んだよ。ありがとう。手書きの手紙、待っているよ。未雪」という短い返信しかくれなかった。ギターサークルの同級生に手書きの手紙を送っていることをうっかり話したら、さんざんバカにされた。「田村はやっぱり原始人だったのか」だの「古い映画を見過ぎているナルシスト」だの言われたが、今さら相手がサークルの先輩の未雪さんだとは言えなかった。それ以降ネタとして原始人っぽく振る舞うように努めた。しかし、すぐに飽きられた。

「田村くん、最近状態がよくなってますね。いいことです」軽く頷きながら笹川さんは言う。なんのこっちゃ、と思うがそれは表に出さない。「どういうところが、ですか?」そう訊いてみる。「だんだん回りの人と絡みが出てきたんじゃないですか」「まあー、そうですねー、ギターサークルの連中とは少し」僕は、絡み、という言葉・習慣・文化が嫌いだ。はっきり言ってうっとおしい。しかし関西で生きていくには必須らしい。どこか、日本のどこかに、人間関係は大事にするけど絡みは大事にしない地域はないのだろうか。「絡み、というのは僕に必要なんですか?」と笹川さんに訊いてみる。「いい質問ですね」そう言って笹川さんは頷く。「それは、自動車にガラスは必要なんですか?という質問に似ている気がします。確かにガラスはなくても自動車は走ります。でも、風がきつすぎるし、雨が降るとビショビショになるし、通行人に、なにあの車?ガラスないよ?と指をさされて笑われます。そういうのを気にしなければ、ガラスはいりません。絡みはいりません。でもあった方がいいです、まともな社会人として暮らしたければ」「はあ、そういうもんですか」僕はなんとなく納得する。「じゃあ、田村くん、最近見た夢について話してもらいましょうか」
「最近は……。未雪さんの夢を見ました。未雪さんが彼氏だという人と一緒にヘリコプターに乗って楽しそうに飛び去って行く夢です。結婚式の新郎新婦退室、みたいなノリですが、別に結婚式のシーンというわけではありません。僕は、お二人さんよかったね、みたいな感じで純粋にうれしく思って手を振って見送っています。場面変わって、僕は見知らぬ男性とホモセクシャルじみたことをしていますが、不思議と嫌ではありません。おわり」
「ふーん。まあ未雪さんといい別れ方をした、ということでしょうね。基本的にいい夢でいい傾向じゃないんですか」
「え?ホモセクシャルじみたことがあっても?僕はすごくヘテロな人間なんですよ?」
「まあ、いろんな変化に開かれてきている、ということであまり深く考えることないんじゃないですか?」
「でも、でも、具体的にはすごくエッチというか恥ずかしいことをしているんですよ?」
「まあいいじゃないですか。田村さん、こだわりすぎですよ」
そう言って笹川さんはメモを取っているノートをパタンと閉じた。


カウンセリング・カルテ4

 上っちがいなくなってから、なにをしても虚しい。田村くんのカウンセリングもなんだか虚しい。カウンセリングカルテを書く気がしない。軽くメモしとくか。田村くん、絡み増えた、夢、ホモセクシャル。

 この心理的ダメージを考えると、上っちは私にとって思ってた以上に重い存在だったのかもね。あっさり振り切って前向きになれるかと思ったのに、実際は下向き。なんだか最近、歩道の敷石の模様ばかり見ている気がする。

 でも、上っち、才能ないよなあ。数年後、実はビッグになってました、なんてことは絶対ない気がする。そういう意味では捨てて正解。あいつは、貧しいながらも幸せな家庭を築くのが精一杯だと思う。

 空想する。私がカウンセラー兼舞台衣装担当として働き、あいつは稼ぎが少ないながら、まあまあ幸せな演出家として活動する。そして私は、もっと才能のある男とくっつけばよかったという想いを捨てきれない。もんもんとしそうだな、そういうの。

 まあこのダメージは一過性のものだし、気にするな、翔子!買い物に行け!映画に行け!クレジットカードを使いまくれ!元気だせ!

以上


 春休みはヒマなので、しばらく東京に遊びに行くことにした。高校時代の友だちの杉原がサークルの合宿かなにかで東京にある彼の部屋を留守にするので、一泊2000円で借りることにした。青春18切符で東京に向かい、その夜、鍵を受け取りがてら合宿前日の杉原と飲みに行く。西荻窪駅で待ち合わせる。僕はドキドキする。ださかった杉原が、この一年の東京生活であか抜けていたらどうしよう。僕はださいままだ。どうか杉原もださいままでいますように。
 杉原はあまり変わっていなかった。僕はとても安心した。「よっ、田村!」と、先週も会った、みたいなノリで杉原は声をかけてきた。気さくな小猿みたいな杉原は、好奇心に溢れた大きな目をしていて、オシャレな人にもどんくさい人にも同じような態度で接して、相手にあまり警戒心を抱かせなかった。「よっ、田村、その無地の白いTシャツ、ええな、よう似合ってるわ」率直だがお世辞を言うのが好きな人間だった。
 杉原はビールを飲みながら、今参加しているサークルの活動について熱く語った。
「鳥人間縦コンテスト、ってやつがあんねん。その名の通り、人力で動く乗り物で、地上から何メートルの高さまで上がれるか競う、ちゅーやつやな。危ないんよ、これが。100メートルくらい上がってまうと、落ち方がヘタやと死んでまうしね。俺、今年パイロットやねん。軽いし、結構体力あるからね」自信たっぷりに杉原はそう言う。「去年の優勝者は何メートルくらい上がったの?」「200メートルくらいやな。俺は今年超えるぜ」「まあ生きて帰ってこいよ」
 その夜は狭い部屋で二人で寝て、次の朝、杉原は「ほな部屋汚すなよ。できたら掃除してな」と言って元気よく出て行った。僕は早速新宿に行ってブラブラしてみた。歩きながら杉原が参加する鳥人間縦コンテストについて考えた。ふざけたイベントだ。危なすぎる。なんとなくけしからん。でも面白い。
 僕は何日もかけて東京のいろいろなところを散歩する。秋葉原、築地市場、浅草、井の頭公園、池袋、三鷹……。喫茶店で休憩していると、他人の話が聞こえてくる。地名や建物の名を、愛着を持って使用しているのが聞こえてくる。京都人が歌舞伎役者の名前を使うときみたいに。一度、見晴らしのいいピルの上で昼間からビールを飲んでいたら、隣にいた三十代の夫婦が楽しそうに遠くに見えるビルの名前を確認しあっていた。そして「いやあ、絶景だねえ」と感嘆した。このビルしか見えない風景が絶景?自然なしでもいいの?よっぽど「なんでこの風景が絶景なんですか?」と訊こうかと思ったが、他人の気分を害するのを恐れて訊けなかった。
 結局、杉原が帰ってくるまでの5日間を、街をぶらぶらしたりジャズバーに行ったりすることに使ってしまう。帰ってきた杉原は右腕を包帯でつり下げていたが、とても元気そうだった。「よっ、田村!東京を満喫したか?」杉原はそう言う。
 杉原は結局優勝できなかった。杉原の属するチームは結局2位に終わった。「俺は220メートル行ったんやけどね、京大チームが250メートル行って負けたわ」残念そうに杉原は報告する。「でも京大のやつら、狂っているよ。だって昇った後、どうやって帰るか用意してないんだぜ。結局、身一つでダイビングして地面に設置してある巨大風船にボンと落ちて、何カ所か骨折したけど無事、みたいなノリやねん。京大、昔の学園祭のテーマが『吾輩は京大生である。理性はもうない』だったけど、まさにそんな感じやね。俺、京大行っていたら今年の鳥人間で死んでた気がするわ。よかったよかった、京大に行かなくて」杉原はホッとしたようにそう言った。
 
 結局東京では収穫らしい収穫もなかったが、僕はまた青春18切符で京都に帰った。未雪さんは既に大阪の方に引っ越していて、多少落ち着いたらしいので遊びに行くことにした。未雪さんの家に行く前に駅の周りを散歩する。大阪大学の坂の下はごちゃごちゃしている。迷路みたいだ。昔闇市だったらしいけど、今でも少し闇市っぽかった。ごちゃごちゃの一角に未雪さんの部屋はある。「こんにちはー」そう言ってドアベルを押す。「うーす、田村くん、入って入って」久しぶりに会う未雪さんは髪を金髪に染めていてなんだか外国人みたいだ。ちょっと痩せたみたいで、知っているような知らない美人と一緒にいるようでドキドキする。「イギリス、ご飯が高くてまずくてねー、ちょっと痩せたよ」未雪さんは明るくそう言う。「東京行ったんだってね、どうだった?」
 僕は未雪さんに東京の不満を言う。未雪さんは一通り聞き終わって、「まあ、一理あるねー、田村くんの言うことも」と言って煙草に火をつける。「でも、どこの国の首都もそんなもんじゃない?北京もパリも。人との距離感、微妙よ。田村くんは東京に住まないんだから、東京がいかにダークでも関係ないじゃん?」未雪さんは明るくそう言う。「それはそうですけど……」僕はもごもごと返事をする。
 しばし沈黙が流れる。なぜか、少し重苦しい沈黙が。「未雪さん、彼氏さんとは最近どうですか」「まーね、ふつうにうまくやっているよ……」会話は長く続かない。「未雪さんって、村上春樹好きですか」またしても僕は唐突に訊ねる。「村上春樹ねえ。昔は大好きだったけどねえ。今は……保留的かな。なんでか、って訊かれてもうまく言えないんだけどねえ」「そうですか、僕は大好きですけどねえ」
 結局この日は会話ははずまなかった。僕はそんな日もあるか、という思いで未雪さんの部屋を後にした。


未雪通信
 
 はい、翔子ちゃん。私、イギリスから帰ってきて、大阪に落ち着いたんだ。これから研究がんばるぞ、って燃えてます。ばちばち。翔子ちゃんは、勉強やらカウンセリングやらの方はどう?また近況聞かせてね。

 なんか、私、うまく言えないけど、最近、心境変わったみたい。翔子ちゃんのカウンセリング受けた方がいいかも。迷惑?まあそのうちゆっくり話すわ。

 これ、イギリスみやげのシングルモルト。大事に飲んでね。私も自分用に一本買ったんだけど、たまに夜ちびちび飲んでいるよ。こういうのをちびちび飲んでいると、なんていうの、有効期限が迫っている気になるんだ。変な言い方かな?私はこのシングルモルトを飲み終わるまでになにかしらの進歩ができるのか?否か?とか考えちゃう。

 また手紙おくるね。ばいばい。

 未雪


 今日は笹川さんとの最後のカウンセリングだった。笹川さんは冒頭に「もう、カウンセリングはいいでしょ。田村さんは病んでいるとは思いますけど、自分の居場所を見つければ、一応社会で暮らせていけると思いますから。まあ、そこまで回復できたのも、ここ一年、田村さんがこつこつ着実に暮らしていたからでしょうね。またカウンセリングが必要になったら付き合いますんで言ってくださいね。最後に、近況と最近見た夢を話してもらいましょうか」と言った。「えっ?僕は全然普通になれた気がしないのに……。笹川さん、僕が普通だって自分で思えるまでカウンセリングしてくれるんじゃなかったの?」僕は慌てた。だんだん気に入ってきたおもちゃを取り上げられたみたいに。「まあ、また必要性を感じたらカウンセリングしてあげますから。最後ですからちゃんとやりましょう」
「近況は……特にないですよ。東京にぶらぶらしに行って、それから未雪さんの部屋に行ってあんまり盛り上がらなかったことくらいですね」
「未雪さんの部屋には私も行きました。いいですよねえ、変な窮屈さがなくて。楽で」楽しそうに笹川さんは回想する。僕は驚く。
「笹川さんって、未雪さんとつき合いあったんですか?」
「あら失礼。未雪さんと仲良くしてんのは自分だけだと思わないでください。人は、素敵な人に惹かれるものです」落ち着き払って笹川さんはそう言う。僕は、最近の自分の夢どうのこうのといったことを言う気をなくす。「笹川さんは、今後僕と会ってくれるんですか」「さあ、なんとも」

 僕は部屋に帰って久しぶりに線香花火を燃やす。かつて線香花火は理解を示す友人のようにパチパチと燃えてくれたものだが、今日の線香花火はなんとなく理解が足りない。小学校時代の友人に会ったときのように話が合わない。それでも僕は線香花火が燃え尽きるまで見つめる。僕は未雪さんに手書きの手紙を書く。笹川さんのカウンセリングが終了してなんとなく寂しい、また未雪さんの部屋に遊びに行きたい、といったことを。返事はこない。いつまでたっても。


未雪通信

 はい、翔子ちゃん。元気?私はバリバリ論文書きまくっています。

 田村くん、翔子ちゃんのカウンセリング終わったんだってねえ。田村くんから手紙が来たよ。でも私、田村くんに返事書かないことにしたんだ。うまく言えないけどねえ。以前だったらすぐ返事したと思うんだけどねえ。
 それは、私が余裕ないからなのか。そうなのか。余裕なかったら返事書かなくていいのか。なんて結構もんもんと考えるんだけどねえ。
 でも田村くんってしんどいところあるよねえ。私はそう思う。イギリスから帰ってきてからそう思うようになった。とはいえ田村くんは私の弟分。大事にする。

 こないだ会ったときにも話したけど、翔子ちゃんの次のクライアント、どうやって探せばいいんだろうねえ。あんまり年上すぎるとか、状態が深刻すぎる人はまだしんどいしね。私がなろうか。なんてね、うそ。私はカウンセリングいらないの。クラシックギター、真剣にやっているから。
 田村くんのときみたいに、お互い益のある、いいクライアントが見つかるといいね。またね。

 未雪


 4月からギターサークルにも新入生が入ってきた。ほとんどの人が初心者だが、何人かはすぐにギターにはまり、ゴールデンウィーク前には僕の腕前を抜き去っていく。なんなんだろう、僕の才能のなさは。僕は、自分のギターの才能を居酒屋に呼び出して、くどいおっさんみたいに「なんなんだよう、おめえは」となじりたくなる。うまい刺身を無理矢理食わせて、「まあよう、おめえ若いんだからもっとがんばれよう」とうっとおしい励ましを与えたくなる。もしそれが可能だったら本当にそうしたかもしれない。僕は誰かにギターを教えてもらうことを真剣に考慮し始める。未雪さんの彼氏がプロのギタリストだったことを思い出す。僕は未雪さんに電話する。
「こんにちは、田村です。未雪さん、今大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないんだ。忙しいの。なに」
「あのー、未雪さんの彼氏にギター習おうかと思って」
「あっそう。明日京大行くからお昼一緒に食べる?」
「あっ、はい」
「じゃあまた明日」
未雪さんは不機嫌に早食いするような口調でそう応じた。

 未雪さんは次の日の昼に会ってもなんとなく不機嫌だった。喫茶店でカレーセットを注文した後も落ち着かなげに煙草を吸った。「ギター、がんばってますか」未雪さんは気難しそうに僕に訊ねた。「まあ、ぼちぼち。人に習いたくなってきたんですよ、最近。それで未雪さんの彼氏がいいかな、と。どういう人か知りませんけど」未雪さんは鞄からルーズリーフを取り出すと、地図を書き始めた。「これ、彼氏の家の地図と電話番号。電話して日程合わせてギター持っていってね。私からも一応連絡しとくし」「ありがとうございます」
未雪さんはカレーセットを食べているときもなにか嫌そうだった。「どうかしたんですか?未雪さん?」「いや別に」
未雪さんは、「あはは。でもやっぱり私今日なんか神経質だわ。お店の人の服装の趣味とかが妙に気にさわる。なんか店の内装も今日は気にくわないな」そう言って店内を見回した。
「田村くん、お願いがあるんだけど」
「なんですか」
「唐突で悪いけど、しばらくの間、田村くんの方から私に連絡しないでくれる?私からはたまにするからさ。理由は悪いけど言えないんだ。ごめんね。いい?」
「いいですよ、まあ未雪さんがそう言うなら」
「ありがとう、無理を聞いてくれて。さすが私の弟」
未雪さんはちょっとほっとしたようだった。食後に何本かの煙草を味わってから店を後にした。

 ゴールデンウィークのある日、僕は地図を手に持って未雪さんの彼氏の家を探す。地図によると、僕の部屋のすぐ近くだ。自転車に乗らずに、ギターを担いで歩いていく。白川があり白川沿いの歩道もあるせいか、この辺りは落ち着いている。漢字文化研究センターもある。漢字文化研究センターは、暇人っぽい施設と言ったら失礼だが、どこか余裕のあるネーミングで和む。地図はごくありふれた一軒家を指し示している。僕は緊張しながらドアベルを押す。しばらくしてドアが空き、坊主頭のごつい男がヌッと顔を突き出す。「やあ、田村くんですね。いらっしゃい。はじめましてアキラです」
ドアの右手の部屋に通される。どうやらアキラさんは親と暮らしているようだ。二階から話し声が少し聞こえる。部屋には手すりのない椅子が何脚か置いてある。奥の方には質素なしきり板がある。その向こうにはベッドの脚が見える。楽譜や書籍、LPレコードが整然と並んでいる。アキラさんはコーヒーを用意してくれていた。「煙草も吸いたければどうぞ。僕のことはアキラ先生とでも呼んで下さい」きっぱりあっさりした態度でアキラさんはそう言った。
「田村くん、何回生?」
「二回です」
「ふーん。ギター、どうですか。楽しいですか?」
「ギターの音は好きですけど、やりたいと思う曲があんまりないですねえ」
「なるほど、なるほど」アキラさんはうんうんと大きく頷きながら煙草に火を付ける。
「アキラさんは未雪さんといつ頃知り合ったんですか?」
「唐突やね、田村くん」驚きと好奇心を交えてアキラさんはそう呟く。「中学のころかな。ギターの先生が同じやったんやね。田村くん、話題が唐突や、って言われへん?」
「よく言われますね。あまり好意的に思われていないようです」
アキラさんは固まって、否定も肯定も示さなかった。なぞなぞに遭った慎重な坊主のように。「まあ、あれやね、話題が唐突っていうのは生きる意志でもある気がする。雑草がコンクリート突き破って生えてくる、みたいなね。そういう雑草を見て『ああ、生きる力ってすごい』なんて賛嘆する人もおるな。でも、みんな本音では、コンクリートを突き破る雑草より普通の雑草の方を生命として好もしいと思っているんやね、不思議やね」
「ですよね、コンクリートの方は『そこまでしてなぜ生きるの?』って思いますもん」
しばし沈黙があったので僕も煙草に火を付けた。アキラさんはなんの説明もなしにギターケースを開けてギターを弾き始める。古そうな曲だ。アキラさんの演奏はお安くないレストランの「いい材料使ってちゃんとスキなく調理してまっせ」という、立派な感じがした。僕は個人的には未雪さんの情緒的な演奏の方が好きだった。けど、アキラさんの演奏には美学を持って節約しそうな質実剛健さがありそれでいてチャーミングだったので、まあこの先生でもいいか、と思った。アキラさんは僕に楽譜を渡し、「今からいくつか弾くのはそんなに難しくないから、気に入る曲、探してや」と言った。アキラさんがいくつか弾いてくれた短い曲はどれもチャーミングで気にいった。チャーミングと言えば、堀川丸太町に「チャーミングチャーハン」という暖簾の店があるけど、全く入りたいと思わない。チャーハンが本当にチャーミングかどうか確認したいとも思わない。そんな関係ないことを考えながらアキラさんの演奏を聴いていた。レッスンではまずドレミから教わった。


未雪通信

 はい、未雪です。片桐先生、お久しぶりです。

 お手紙、拝見しました。真理子の研究も順調なようでなによりです。セミの抜け殻の研究、というのは今世界的なブームみたいで、各国で優秀な研究者が出てきているみたいですね。真理子もその一人だと。

 ところが片桐先生は、その優秀な研究者を、真理子を、またいじめるかもしれないと。もしも私が再び片桐先生に会うことを断れば。そういうことですね、要は?

 真理子は博士課程は京大に残らずに阪大の佐々木先生のところで研究すべきだったように思います。今からでは遅いですが。つかの間うまく行っていたので、真理子も片桐先生のところで続けたいと思ってしまったんでしょう。

 あなたに一度は会ってあげます。その後、あなたを生かすか殺すかは私次第。ばいばい。

 未雪


 それから半年が経った。


 夏子さん。片桐です。いかがおすごしですか。

 年度途中、東京への急な赴任、バタバタしながらもなんとか進んでおります。夏子さんは京大での私の学生のことを心配してくれましたが、佐々木くんが面倒を見てくれることになったので、なんとかなりそうです。ご心配をおかけしました。

 結婚祝いの瀬戸物、どうもありがとうございました。妻もよろこんでおります。今度二人で夏子さんのところにお礼をかねて伺います。

 それにしても結婚というものは、急に決まるものですね。自分でも驚きです。そういえば夏子さんと次郎さんの結婚の時も急に決まりました。あれは悔しかったです。いけませんね、当事者に向かってこんなことを言ってしまうのは。もちろん私は当時から次郎さんと夏子さんの結婚を祝福しておりました。

 実を言うと、まさか結婚してもらえるとは思っていませんでした。これからが勝負ですね。私はまともな人間に変わらねばなりません。慎み深い人間に。それが簡単でないことはよくわかっています。私はいわば、変人です。変態です。それは認めます。でも、妻に見合う、まともで慎み深い人間に徐々に変わっていきたいと思います。

 思うに私と夏子さんが結ばれなかったのも、私にまともさや慎み深さが足りなかったからではないでしょうか。今になるとよくわかります。でも、夏子さんは言うかもしれませんね。そういう変化をするには私は年をとりすぎていると。あるいはそうかもしれません。

 いずれにせよ、東京にいれば夏子さんと会う機会も自然と増えると思うので楽しみにしています。では。片桐。


 僕が未雪さんと連絡を取らなくなってから半年が過ぎた。アキラさんのレッスンにはこつこつと通っている。アキラさんに「未雪さん、最近元気ですか?」と訊いても「ちょっとケンカしてな、あんまり連絡とってへんねん」と簡単な返事が返ってくる。さらにしつこく訊くと「実は未雪とは別れてな、全然連絡とってへんねん」と言ってアキラさんはうなだれる。その、しょぼーん、とした姿は派遣切りに会った真面目な労働者を連想させる。アキラさんは「田村くん、牛乳飲む?」と突然訊いてくる。僕は頷く。アキラさんは二階に上がり牛乳瓶を二本とってきて、煙草に火を付ける。「ライフ・イズ・ノット・イージーってことやなあ」アキラさんは、真面目すぎて悟りを開けない坊主のようにそう呟く。「田村くんが連絡とったらいいやん」「僕は連絡するなって言われているんですよ」「そんなん無視したらええやん」「そうはいきませんよ」
しかし僕は未雪さんに久しぶりに連絡してみることを考える。その夜、勇気を持って電話してみる。しかし電話はすでに解約されている。
 ネットサーフィンでもしようか本でも読もうか迷っていたら、ドアベルがなった。アキラさんがヌボっと立っている。「田村くん、寂しくなったんで飲みにきたんや。かまへん?」そう言ってワインのボトルを突き出す。「いいですよ、僕もちょうど飲みたかったんで」
 アキラさんはいつものように僕のCDラックを見回して、古いロックのCDを選びプレーヤーにかける。僕のカップと自分のカップにワインを注く。「未雪、東京の方の大学院に入り直すんやて。もう東京に住んどるらしいわ」「そうですか、東京ですか。……。追いかけていかないんですか」アキラさんは眉間にシワを寄せて膝をかく。「追いかけていきたいけどなあ。うまくいかんやろなあ」
「はあ。そういうもんですか。僕もせっかく弟分になったのに疎遠になって。なんで僕と未雪さんは疎遠になったんですかね?」
「なんでやろな。人はだんだん変わっていくからな。未雪が変わったのか、田村くんが変わったのか。実際に会ってみないと本当のところはわからんやろなあ」
「はあ。未雪さんと一回会ってじっくり話したいなあ」
アキラさんは立ち上がると、自分が持ってきたギターのCDをプレーヤーにかける。神秘的な音色の神妙な音楽が流れてくる。ギターらしい不器用さや素朴さがなくて、なんだか別の楽器みたいだ。別のなにか立派な楽器で演奏しているような。聞き終わってからアキラさんは軽く解説してくれる。自分もこういう演奏を目指しているのだとアキラさんは言う。「神妙な神社の儀式みたいですね。神前結婚式みたいな。僕はもっと汗くさい泥臭いギターの方が好きですけど」僕は簡単に感想を言う。「なるほどね。まあでもたくさん聴いてくると好みもだんだん変わってくるけどね。人と人との関係みたいに」
 僕は未雪さんに会いに東京に行くことにする。「ヒッチハイク希望、東京まで」というプラカードを持って京都東インターの手前で立つ。しかし見事なまでに誰も止まってくれない。過ぎゆく車を眺めながら「一人くらい親切な運転手はいないのか」という気持ちと「まあ面倒くさいだろうし、止まらなくて当たり前か」という気持ちの双方が入り交じる。手が疲れてきたのでプラカードを下ろししばし休憩する。なにか僕の方針が間違っていたのだろうか。そういえば未雪さんの住所も知らない。行けば何とかなると思っていた。未雪さんは東大に入り直すらしいので、東大の近辺をうろうろしていれば会えると思っていた。少し衝動的すぎたかもしれない。僕はいったん自分の部屋に引き返す。


 夏子さん。片桐です。ごぶさたしております。お元気ですか?

 先日は夏子さんにお会いできてうれしかったです。妻もよろこんでおりました。そして感心しておりました。夏子さんがすばらしい女性であり、そしてそのすばらしい女性である夏子さんと私が、はるか以前にお付き合いしていたからです。「見直したよ、ギリー」、そう言われました。そうです、妻は私のことをギリーと呼ぶのです。思えば、私はアメリカ留学時はゲイリーと呼ばれていました。下痢したときには日本人留学生仲間にずいぶんからかわれたものです。なつかしいです。でもそのアメリカ留学がなければ私と夏子さんは結ばれた可能性があったのですね。そう考えると複雑です。

 話を元に戻しますと、私の生活も大分落ち着いてきました。妻が整理上手なので助かります。しかしこう妻と夏子さんを比べてみますと、整理が上手かどうかという点では妻の方が上手のように思います。夏子さんは優しく笑いながら「片桐くんも相変わらずだね。全然まともさ向上してないよ。慎み深さもね」とおっしゃっていましたが、今のところはそうだと認めざるをえません。まともさは向上していません。どうすればいいのでしょうか?妻に訊いてみましたところ、「唐突な話題変更や人が嫌がる言い方は減らした方がいい」とのことでした。なるほど。早速、同僚の教授と雑談しているときにわざと話題を変えずに禁煙のことについて一時間ほど話してみました。同僚の教授は苦笑しながら「片桐さんはよっぽど禁煙のことについて関心があるんだね。自分は吸わないのに」と言われてしまいました。しかし同時に「片桐さんはあんまり人の嫌がること言わないよね。まあそれが普通なんだけど。あはは」とも言われました。普通?この私が?私の自尊心はなんとなく傷つきましたけど、その場で表明するのは我慢しました。

 すみません、私の話ばかりしてしまって。先日も話しましたね、夏子さんほどの非凡な方が主婦に甘んじてクリエイティブな活動をしていないのは社会的損失だと。国家的戦略ミスだと。夏子さんは明るく笑って「普通の生活が一番よ」と言っていましたが、家の中のそこかしこに飾ってある絵画、あれは夏子さんが描いたのではないですか。「近所のおばさんがたくさん絵を描いてくれたのよ」とかおっしゃっていましたが、そんなことはありえません。近所のおばさんはそんなにたくさん絵をくれたりしません。ゴッホのひまわりの模写、あれは大変にすばらしいです。確かに本物には遠く及びませんが、なにか、光り輝く世界からの贈り物、みたいなところが確かにあります。また絵を見せて頂くのを楽しみにしております。では。片桐。


 ビールをたくさん買い込む。アキラさんと二人で東一条近辺の川辺に行きベンチに座る。寒い。が、十分に厚着しているし僕は寒さに鈍感なのでたいした問題ではない。空にはポツンポツンと星が見える。江戸時代の日本人はオリオン座のことをなんと呼んでいたのだろうか?五右衛門座とか?臼座とか?
「アキラさん、星座って人類共通のものなのに、なぜ西洋の通り名で呼ばないといけないんでしょうか?」
「でも彦星とか織り姫とか天の川って、和風やんか」
「そらそうですけど。なんか不公平な気しません?」
「そら、西洋の方が星座の体系が細かいとか、G8の日本以外の国がキリスト教国とかそういうのが関係してるんちゃう?」
「はあ。僕は左翼シンパだからどうでもいいんですけど、そのうち幼稚園でも『この世界はね、ゼウスが作ったんだよ』とかあるいは『父なる神が作ったんだよ』とか教えそうな気がしますね。神話を西洋に乗っ取られちゃう、みたいな」
「そう?別にいいんちゃう、和風の神話がなくなったって」
「まあそうかもしれませんが、なんか釈然としないな。なんか西洋の神話ってワン・オン・ワンのケンカが強い方がトク、みたいなところがあるじゃないですか。弱い存在にとってはあんまり救いがないというか」
「まあ実際どの社会でもそうなんやから、そこは西洋の方が正直なんちゃうの?」
アキラさんは、なるほどねえ、と呟きながら次の缶を開ける。
「未雪探しに東京に行くんやて。どうやって探すの?」
「それ今日アキラさんに訊こうと思ってたんですよ」
「さあな。大きなギターショップに張り込んでたら来るんちゃう。弦でも買いに」
気乗りしない様子でアキラさんはそう答える。
「アキラさん、未雪さんの親に訊いて下さいよ。知り合いなんでしょ?」
アキラさんは眉間にシワを寄せて、んー、と唸る。
「まあ訊いてもいいけど、未雪は僕に知らせたくないかもしれないやんか。未雪の親が僕に知らせてもいいと思っても。よほどの事情があったらそら未雪の親に訊くけど、田村くんが会いたいってだけじゃあ、どうも足りんなあ」
「はあ、そうですか。足りませんか」
 僕はおもむろに煙草に火を付ける。アキラさんにも一本勧める。一本分の煙草の間、二人は黙って思索する。「そういえば、アキラさんって『森に夢みる』弾かないんですか」僕はふと思いついてそう訊いてみる。
「『森に夢みる』なあ。ええ曲やなあ。でも僕はよう弾かん。難しいしね。技術的に難しいだけじゃなくて、暗い人間が弾くとなんかサマにならんのよね。不思議やねえ」そう言ってアキラさんは空を見上げ星に向かって頷いた。『森に夢みる』の不思議さと天体の不思議さになにか関係があるかのように。「未雪は上手やったわあ、『森に夢みる』。未雪以上の女なんておるんかなあ。田村くん、どう思う?」「さあ、なんとも」
 
 僕は大学の北部生協に行く。未雪さんの友だちだった真理子さんに会うためだ。真理子さんの研究室のホームページを見て、未雪さんの住所を知りたいので会いたい、という旨のメールを送ったら「明日、一時に北部生協で。では。石橋」という非常に短い返事が返ってきた。人ごみのなかでどうやってお互いを見分けるかすら書いていない。まあなんとかなるかと思って北部生協に出かけた。未雪さんは、真理子さんのことを「悪意のない、ちょこんとした美しき猿」と表現した。それらしき人物を捜してみる。が、よくわからない。僕は缶コーヒーを飲みながら生協の端っこに陣取り、人が通りゆくのを眺める。チャラ男が通り過ぎる。チャラ男は引き返してきて「おい田村、なんだよてめー、俺が通り過ぎても絡みなしかよ」と僕にいちゃもんをつける。テキトーにチャラ男の相手をしてあげていたら、後ろから肩をトントンと叩かれた。振り向くと、大人しそうで小柄な女性がいた。「田村くんですか」「あ、はい」「石橋です。そこに座って待ってますからお友達と話し終わったら来て下さい」と無表情に簡潔に述べた。「チャラ男、俺は見てのとおり用事があるんでまたな。合コンあっても俺を誘うなよ」「てめーみたいな無口かつ遠め距離野郎を誰が呼ぶかっつーの。なめたこと言ってんとしばいて積分するぞこら。じゃあな」そう言ってチャラ男は去っていった。
「田村くん、未雪ちゃんのなにが知りたい?」真理子さんは生協のお茶を飲みながら単刀直入にそう訊いた。「連絡先です。半年くらい前まで親しくしていたんですけど、ある日から、僕からは連絡しないでって言われてそれ以降疎遠になっちゃったんで。会って話したいんです」真理子さんは動作が極端に少ない。素朴に光る目をまばたきしながら真理子さんは言う。「でも未雪ちゃんの方は会いたくないかもしれない。それについて田村くんはどう思う?」
「そうですね。未雪さんは会いたくないかもしれない。でも僕の方からなにかしないともう一生会わないかもしれない。だから言われたことを破るんです」
真理子さんはごく小さくうんうんと頷き、両手で丁寧にゆっくりと湯飲みをつかんでお茶をすする。確かに普通の人とは違った印象を受ける。スターウォーズに出てきそうというか、鈍そうで動物的な外観とは裏腹に高速で先を読んでいるような感じがする。
「田村くんの言うことは一理ある」
真理子さんはそう言って即座に黙りこむ。
「別に未雪さんの近況を知りたいとかそういうのではないです。未雪さんが僕に教えたくないことは知りたくない。ただ、会って話したいだけです」
真理子さんはうつむいてテーブルに視線を合わせた。なにかそこに書いてあるかのように。僕は待った。真理子さんはゆっくりと顔を上げる。
「私が思うに、ちょっと偉そうで申し訳ないけど、田村くんは悪い人ではない。未雪ちゃんに危害を及ぼすことはない。だから連絡先を教える。でも少し知っておいた方がいい近況はある。片桐先生って知っている?」
「昔未雪さんに飲み屋で話を聞きました。全部ではないですけど」
「未雪ちゃんは片桐先生と結婚した。東京に住んでいる。片桐先生は全面的に悪い人間ではないけど、おかしな人ではある。二人をあんまり刺激しないでね。約束できる?」
「はい。約束します」
「じゃあ教える」
そう言って手帳とルーズリーフを取りだして、住所と電話番号を書き付ける。
「電話は家の電話。新しい携帯の電話は私は知らない。じゃあね、田村くん。出会えてよかった」そう言うと真理子さんはスッと立ち上がり、一人でさっさと出て行った。

 家に帰り、ネットで未雪さんの家の位置を確認する。東大から歩いて行けるくらいの距離のところだ。突然訪ねてよいものか思案する。驚くだろうな、きっと。嫌がる可能性もある。それでも行きたいのか?そんなに会いたいのか?と自問する。……。会いに行かないと後悔が残るだろう。僕は後悔を残さないことにそんなにこだわるタイプではないが、今回は会いに行った方がいいように思う


 夏子さん。片桐です。ごぶさたしております。

 頂いたひまわりの模写、リビングに飾りました。改めてお礼を申し上げます。もともと気持ちよく明るいリビングが、夏子さんのすばらしい絵によって、少し、より明るくなった、そんな感じです。絵っていいですね、毎日の気分が変わります。

 未雪も勉強の息抜きに最近絵を始めました。そうです、夏子さんのひまわりの模写を模写しているのです。「もしゃもしゃのひまわりだね」なんて未雪は言います。未雪もまだ若いものですから、下らないことを言うのが好きなようです。夏子さんも若いころはそうでした。

 私は別に、夏子さんがもう若くない、と言いたいわけではありません。夏子さんはまだ若々しいです。素敵です。それでいて成熟している、と言いたいのです。

 未雪とは一緒に暮らし始めてまだ間もないですが、やっぱり一緒に暮らすなら歳の近い者同士の方がよいかも、と思う瞬間は正直あります。落合の現役時代のすばらしさを知らない、ですとか、私が自分の体のことを真剣に心配していても「ま、いいじゃんギリー、今のところ元気だし、死ぬときは死ぬし。あはは」なんて言われてしまいます。未雪は、老いる、ということがよくわかっていません。けしからん。

 その点夏子さんなら安心です。夏子さんは落合のファンでしたね。まあでも、自分のヒーローが相手にとっては「誰それ?」みたいになることは、歳が近くても趣味が違えば起こることですね。しょうがないです。夏子さんも釜本には興味を示しませんでした。

 正直、一人暮らしの方が気楽だったなあみたいなことはあります。が、未雪という、夏子さんにも劣らないすばらしい女性を手に入れた代償と思えば仕方ないですね。

 ではまた。新しい絵が完成したら是非見せてください。片桐。


 僕は金曜の午後の授業をサボッて東京に向かう。行きの新幹線の中、最近の新幹線は振動が少なくなったな、とふと思う。風景の方もそれにつられて少なくなったような気になる。これから未雪さんの家を訪ねるわけだけれど、訪ねていいかどうか、気持ちの整理はついていない。気持ちの整理はつかないままあっという間に東京駅につき、ちょっと歩いてちょっと電車に乗ったかと思うともう未雪さんちの最寄り駅だ。とりあえず近くの喫茶店に入る。あれ?という不思議な感じがする。この喫茶店ではお店の人と日常漫才しなくていいのか?どうやらいいらしいぞ?そう思うと落ち着く。僕はホットコーヒーを頼んで悠々と煙りをくゆらせる。東京、いいな、うっとおしい日常漫才しなくていいなんて。僕も東大にいけばよかったかも、そんなことを漠然と考える。週刊誌で力士の賭博問題についての記事を真剣に読みあさる。僕にとっては重要でないトピックのはずなのに、なぜか熱心に読むのをやめられない。次第になんとなく力士がけしからんような気さえしてくる。でも基本的にはかわいそうに思う。横綱ならともかく、下っ端力士が、なににお金を使おうが自由では?捨てるのも自由だし、焼くのも自由だし。今後適用するルールを作ればいいだけでは?そんなことを考えている間に7時になった。力士について考えている間に未雪さんを訪ねる気力が湧いてきたので、勘定を払って通りに出た。

 オートロックのある住宅だった。オートロック、というのは未雪さんらしくない。京都の部屋のときは、そもそも鍵をかけ忘れていることも多かったのに。でも僕はベルを鳴らす。ピンポーン。何秒かして、「はーい、どなた?」という未雪さんの声が聞こえる。僕は「突然お邪魔してすみません、田村です」と言う。未雪さんは「おー。本当に突然だね。なにかの辞書に登録したいくらいだよ。まあとりあえず入りなよ」と言い、ドアは開いた。
 エレベーターを待ちながら、さきほど聞いた未雪さんの声を思い出した。京都にいたときとさほど変わっていないようで、少しほっとした。しかし同時に、こんなに無機質でシャットアウトした環境で暮らせるなんて、どこか変わってしまったんだろうな、と推測する。でも僕は会えるだけでうれしかった。どんな結果になろうとも。
 未雪さんはドアを開けて待ちかまえていた。こちらに手を振ってくれる。僕も手を振り返す。近づいていくと突然むぎゅっとハグしてくれて、驚く。「ひさしぶり。さあ中へ」そう機嫌よさそうに言う。
 未雪さんはお湯を沸かし冷凍庫からコーヒーの粉を取り出す。「よくここがわかったね」「真理子さんに訊いたんですよ」「へえ、真理子と知り合いになったんだ」「いや、知り合いってわけではなくて、未雪さんの住所だけ教えてくれたというか」「ふうん。あの用心深い真理子がねえ」
 入れ立てのコーヒーをテーブルに置く。「真理子さんから、未雪さんは結婚したと聞きました。片桐先生と」「まあ確かにね。でもその話はしばらくおいておいて」「あ、はい」
 東京の暮らしはどうですか?そう適当に訊いてみる。「うん、思っていたより悪くないよ。おもしろい人も多いし、お店も多いし。でもクッキー屋は京都の方が上かなあ」しばらく東京談義が続く。ごく友好的に。一段落したところで未雪さんが切り出す。「でも田村くん、世間話しにきたんじゃなくて、なにか話したいことか、あるいは用があって来たんでしょう。なに」
「そうですね。……。ここ半年ほど未雪さんと疎遠になってしまいましたけど、なんでだか知りたいんですよ。僕になにか問題があったのか。お互い少しずつ変わってしまったのか。あと僕は最近アキラさんと親しいんで、なぜアキラさんと別れてしまったのか、とか。不可解というかよくわからないんですよ、片桐先生と結婚したことも含めて」
「ふんふん、それは正直な意見だね」そう言って未雪さんはテーブルのクッキーを一枚取る。「結論から言うと、それは私が変わってしまったから。田村くんのせいじゃないよ。別の言い方をすれば、田村くんの抱えている問題は以前とそれほど変わっていないよ。どう説明すればいいのかな。……」未雪さんはテーブルのクッキーをもう一枚取り答えを考える。「夫の片桐は、大学教授だし、収入は安定している。一方で、アキラは、親の家に住んでいるのにギターだけではまだ食べられなくてバイトもしている。でも、私がアキラを捨てて片桐と結婚したのは、そういう経済力の差が問題なわけではないの。うまく言えないな。もういいじゃん。今日は私、うれしいの。自分がまだ田村くんのことを弟として好きだってことが分かって。だから今日はもう難しい話はしないで。だめ?」「いいですよ、未雪さんがそう言うなら。その絵素敵ですね、未雪さんが書いたんですか?」「まさか。私はまだこんなに上手じゃないよ。でも最近、絵描くの始めたんだ。見る?」そう言って奥の部屋からキャンバス地のひまわりっぽい絵を持って来た。「どう?」「重病で手が動かないゴーギャンがゴッホのひまわりを模写した、っぽいですね。とても独創的です」未雪さんは、えっ?なにそれ?という表情をしたが、「なるほどねえ。感想ありがとう」と明るく言った。
 そのとき、玄関の方で、ただいまー、という明るい声がした。未雪さんが、お客さん来てるのー、京大の後輩の田村くんー、と答える。片桐教授はにこやかに登場し、「やあ、いらっしゃい田村くん。まあごゆっくり」とさわやかに言った。未雪さんが再度コーヒーを作ってくれる。その間片桐教授は、ほー、京都からですか、向こうは東京より寒いでしょうね、そうですか、などと当たり障りのない会話を展開してくれた。「未雪からも聞いておったんですよ、ギター部のかわいい後輩でギターの下手なのがいるって」片桐教授がそう言うと未雪さんは片桐教授をコツンと軽くぶつ。昔僕をぶったみたいに。「あー首が痛いなー、来る新幹線でちょっと寝違えたんですよ」と僕は呟く。「そうですか。田村くん、普段から首が緊張していませんか?」「は?よくわかりませんけど、別に緊張していないんじゃないですか」「そうですか。残念です。実はですね、まことに申し訳ないんですけど、うちは、首が痛い方は、遠慮してもらっているんです」「は?」「ですから、田村さんはまことに残念ながら首が痛いんでしょう?ですからこれ以上うちにいてもらうわけにはいかないんです」「はあ?」「いやはや残念です、こんな好青年を追い払うことになるとは。さ、未雪、お見送りして」未雪さんは抗議するでもなく、僕を玄関口に導く。「未雪さん、いったいどういうことですか?」「田村くん、お願いだからなにも訊かないで」「はい、わかりました」こうして僕は未雪さんの部屋を去ることになった。未雪さんと片桐教授が仲良く揃って手を振って見送ってくれた。
 あまりに唐突だったので、通りに出ても自分がなにをされたのかいまいちよく分からなかった。僕は首が痛い。それは認める。しかしそれが追い出される理由になるのか、姉と慕う人の家から追い出される理由になるのか。僕はもっと激しく抗議すべきだったのかもしれない。そんなの理由になっていない、理不尽だと。しかし未雪さんは明らかにそういう抗議を歓迎していなかった。メインディッシュの材料が尽きてしまったのを申し訳なく思うウェイターのように。しかし釈然としない。
 京都に戻って再びアキラさんと鴨川の川辺でビールを飲む。「ねえ、アキラさん。首が痛いってそんなに悪いことですか?」アキラさんはいつもの難渋な表情をうかべしばし考え込む。「悪いとは思われへんな。だって痛いもん。未雪が言いたかったのは、なんか仮定の話ちゃうんか。もしも織り姫と彦星の距離が15光年じゃなくて、0.15光年くらいだったら?とかいう話ちゃう?つまり…どっちみち遠いと。たとえ首が痛くなくてピンピンしていたとしても追い出されちゃうくらい心の距離が遠いと。俺と未雪の距離は0.01光年くらいしかなかったのに。はあ。まあ、田村くんにはいつもの愚痴で悪いんやけどね。未雪以上の人間はおらん」アキラさんはそう言いながら空き缶を丁寧に踏みつぶす。丁寧に踏みつぶすとなにかいいことでもあるみたいに。僕もまねして空き缶を丁寧に踏みつぶす。三本踏みつぶすとなにかいいことがある気がしたので、ビールの長缶を三本飲んで丁寧に踏みつぶす。アキラさんは「俺のマネすんな」とぼそっと呟き、自分が踏んだ空き缶を鴨川に向かって蹴飛ばす。


 夏子さん、お久しぶりです。片桐です。

 おかげさまで夫婦円満で暮らしております。これはやはり、夏子さんと次郎くんの影響が大きいように思います。夫婦の間をいかに穏やかで社交的なものにするか、という面でいろいろ教わる部分が多かったのです。それはなにもここ最近のお付き合いのことだけでなく、次郎くんと夏子さんの交際が始まって以後ずっと、という意味です。
 やはり、ざっくり結論を申し上げますと、喉にテンションがある人間を排除するのは大事ですね。あら?ざっくりしすぎて変な表現になってしまったかもしれません。すみません。この間うちに未雪の後輩の大学生の子が遊びにきたのですが、喉にテンションがあることが判明したので帰ってもらいました。至極当然のことです。ところが、未雪は彼が帰ってから、少し泣きながら言うのです「喉にテンションがあったっていいじゃない、友だちなんだから」と。私は大人の立場から、未雪、そう考えたいのは分かるけど、そういうものじゃないんだよ、人間は古代からそうやって喉にテンションがある人間を排除してうまく暮らしてきたんだよ、と様々な学問や民間伝承を引用しながら真夜中まで説明しました。私の論理的な説明をある程度認めながらも、未雪は「うまく言えないけどやっぱり違うような気がする。だってじゃあ喉にテンションがある人はどうやって暮らせと言うの?なぜ喉にテンションがある人との友情を否定するの?」と言います。ええい、なんだか私は「喉にテンションのある人」という言い方が無性に気に入らなくなり、近くにあったゴッホの画集を手にとってトントントンと軽く叩きました。ゴッホ、人付き合いが猛烈に下手でしたけど、変人同士のときは結構仲良くできたじゃあないですか。変人は変人と仲良くしていればいいんですよ、まともな人は変人と仲良くするメリットとか必要性ってまったくないんですよ、そうなんですよ、とか力説していたら「もう今日はいいよギリーおやすみ」と言って未雪は寝てしまいました。
 その後、一人でこの手紙を書いています。今でもさっぱりわかりません。未雪がなぜそこまで田村くんと仲良くしたいのか。夏子さんはわかりますか。ぜひ夏子さんの意見を聞かせてください。片桐。


 片桐くん、夏子です。手紙ありがとう。

 片桐くんの手紙読みました。その、なんだっけ、喉がつっかえるどうのこうの、とか言う話。喉とか首が痛いとしんどいよね。

 うちの庭の蜜柑がそろそろ食べ頃です。でももう少しかな。未完の蜜柑、なんちゃって。

 また未雪ちゃんと遊びに来てね。ゴッホの画集も持ってきてください。見たいので。では。夏子。

(おわり)


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