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(調査続行中)文化の伝搬:滋賀発祥の「江州音頭」はいかに岐阜県に伝わったか

コロナで大好きな盆踊りやお祭りが軒並みなくなってしまいました。ちょうど昨年の夏ころから、「勝手に盆踊り調査」と題して、各地の古老に盆踊りの昔話を聞き取るという試みにも挑戦していたのですが、遠征するのも難しく、調査も予定通り進みません。そんな状況の中でも、とりあえずできることを模索してみようと、ポツポツ動いたりしています。

時折、SNSでその行動の断片を投稿しているのですが、全体の文脈がわからない状況でそんなものを見せられても「何やってんの?」と、フォロワー様におかれましては頭にたくさんのハテナが浮かんでいることかと思います。ということで、ここで途中経過という形で、(誰にも望まれていないかもしれませんが)私が取り組んでいることを報告してみたいと思います。

江州音頭はいかにして岐阜に伝わったか

ちょっとマニアックですみません。これが私の取り組んでいるテーマです。簡単に説明すると、「江州音頭」とは滋賀県八日市・豊郷発祥の盆踊り唄です。「東京音頭」とか「ドラえもん音頭」とか、盆踊り会場でかかる「〜音頭」の一種だと考えてもらって大丈夫です。

▲写真上が豊郷、下が八日市の「江州音頭発祥地」の碑。浮かれて江州音頭を踊っているのは筆者

この音頭が生まれた当時、よほど人の心を惹きつける魅力があったのでしょう、明治30年代頃に爆発的な人気で広まり、ついには大阪千日前の寄席(ライブハウスのようなものですね)で演じられるようになりました。ステージで演じられるということは、それでメシを食っている芸人(プロ)も登場したということです。村人たちの純粋な娯楽が、お金を生み出すようになったのです。すンごいことですね。で、大阪では今でも「河内音頭」と並んで、「江州音頭」は盆踊りのスタンダード曲となっています。

盆踊りが大好きな私は、もちろん江州音頭のことも知っていました。ただし、特別な思い入れがあったというわけではありません。では、なぜ今のように突っ込んで深掘りするようになったかというと、1つのYouTube動画がきっかけでした。

「長崎に渡った江州音頭」と題されたその動画。長崎のどこだかはわかりませんが、確かに聴いてみると、江州音頭の耳慣れたメロディーです。自分が知っているものよりも、かなりシンプル化されている印象がありますが、やはりこれは江州音頭です。滋賀で生まれた盆踊りが大阪に伝わるということまでは、頭の中に地図を描くことで理解できますが、長崎の地まで渡り、根付くというのはどういうことだろう。知的好奇心が疼きましたが、まだ「そういうこともあるのかー(鼻ホジ)」くらいの認識でした。

▲鹿児島県の徳之島で唄われているこの歌も、江州音頭ルーツのようです。

ダム湖に沈んだ村に伝わっていた「江州音頭」

それから数年が立って、点と点が結びつくようなことが起こりました。
岐阜県揖斐郡に、かつて「徳山村」という地域がありました。戦後間もなくに大規模なダム建設の計画が持ち上がり、すったもんだの挙句に、村は昭和末期に消滅、さらに時を経て、2008年にダム完成。全村水没となりました。かつての住人の方々は近隣地に居を移されて生活をされているのですが、村はなくなっても、徳山の盆踊りは元住人の方々によって継承されていました。そんな岐阜の貴重な盆踊りを仲間たちと教わる機会を得たのですが、なんと、その徳山村に江州音頭が伝わっていたのです。

あの「長崎に渡った江州音頭」のようにシンプルなメロディーの江州音頭。踊りも本場の江州音頭を彷彿とさせるものです。岐阜県と滋賀県は隣り合ってますし、滋賀には徳山村からいくつかの峠を超えてたどり着くことができます。大阪に江州音頭が伝わったように、岐阜県に江州音頭が伝わっていても、考えてみれば不思議なことはないのですが、その土地に根付いた素朴な節回しを間近で聴くうちに、じんわりとした感動を覚えました。

▲徳山村の盆踊り唄を継承する元住民の皆さん。右は音頭取りの小西さん。

現在、徳山出身の方々が唄われている江州音頭は、「徳山風景くずし」というタイトルで、名前の通り徳山の四季の風景や、年中行事を歌い込む内容となっています。

そして、先に「素朴」と書きましたが、長崎に渡った江州音頭のように、現在滋賀や大阪で唄われている江州音頭と比べると、徳山村の江州音頭は非常にシンプルな節回しとなっています。例えば、本来?の江州音頭には、唄の途中に「デロレン〜デロレン〜」という謎めいた呪文が入ります。この「デロレン」が何なのか、一応(資料を読みながら、たどたどしく)説明しますと、元々江州音頭のルーツは「祭文」と呼ばれる神道の祝詞であったそうです。後に山伏修験者によって錫杖(しゃくじょう-手に持ってジャラジャラと鳴らす小さな杖)、拍子木、張り扇、三味線などの様々な楽器が伴われるようになり、「歌祭文」「デロレン祭文」と呼ばれる芸能に変化していきます(キリスト教のゴスペルみたいなものでしょうか、違ってたらスミマセン)。

▲錫杖(出典=『中京民俗 第19号』)

「デロレン祭文」と呼ばれる由縁は、ホラ貝を口に当てながら「デロレン、デロレン」と合いの手を入るからです。この「デロレン」は三味線の音を表しているとも言われています。やがて「江州音頭」として確立した後も、この「デロレン」の合いの手は引き継がれていくことになりました。

そして滋賀県から伝わってきたとおぼしき徳山村の江州音頭では、この「デロレン」がまったく省略されてしまっているのです。本来複雑だった唄の構成が、誰にも親しみやすいように簡略化されていったものだと、その時は思いました。が、徳山の音頭取り(音頭の唄い手のこと)が「”デレレン”をやろうか」と言って、江州音頭を唄い始めたことだけは、ずっと頭に残っていました。かつては、徳山でも「デロレン、デロレン」と唄っていたのであろうか。

元住人たちの方々への、何度めかの訪問の際に、音頭取りの方に「そういえば、江州音頭をデレレンと呼んでいたのは、何か理由があるんですか?」と単刀直入に聞いてみました。すると「昔の江州音頭は、デレレンって唄ってたんや」という、予期した通りの回答が返ってきました。そして唄ってくれた(本来の)江州音頭が、次の歌詞です。

アーでれれん でれれん でれれん でれれん
(ドッコイ)
でれれんにお愚かはないけれど
さては一座の皆様方よ
(ヤットコサッサ ドッコイショ)
私がちょいと出てちょいと又口説く
(アライヤマカサノサノ)
(ヤットコショイ)

本来、最初の前口上のあとに挿入される「デロレン、デロレン」(徳山では「デレレン」という唄われ方が一般的のようです)のフレーズが、唄の冒頭に申し訳程度に取り込まれています。ほとんど「デロレン」が形式化されているように感じます。それにしても、徳山村の江州音頭でも、かつて「デロレン」が唄われていた痕跡を見出せたことは、嬉しい発見でした。

▲ちなみに岐阜県関市板取にも唄の冒頭で「デレレン」と入る民謡が伝わっている(出典=『板取村史』)

幻の「江州音頭」の継承者

事態はさらに大きく動きます。私が江州音頭について嬉々として質問する姿を見て、何か思うことがあったのでしょうか。次にお会いしたタイミングで、現在でも本格的な「デレレン」入りの江州音頭を唄える方を、食事会の席に呼んでくれたのです。それは、徳山村出身で、かつて徳山の戸入地区で教員をされていた平方浩介さん(徳山を舞台にした映画『ふるさと』の原作者でもあります)という方でした。歳は80を超えていますが、「古老」と呼ぶには恐れ多いほどに元気いっぱい。お酒をたらふく飲まれた後に、ほろ酔い加減で江州音頭を唄い始めました。

さて皆様頼みます(キタショイ)
(アライヤマカサノサノヤットコショイ)

アーさてもこの場の諸君衆(ドッコイ)
法螺と聞いたら皆踊る
錫杖と聞いたら喉が鳴る
(アーヤットコサッサドッコイショ)
錫杖が五宝(護法?)の器なら(ドッコイ)
法螺も五宝(護法?)の器なり
かりそめならぬ仏法の
祭文帳より流れ来た
江州音頭をとるからにゃエー
粋な文句じゃないけども
(アーヤットコサッサドッコイショ)
これからぼつぼつ
尾張の名産みやしろ大根じゃないけれど
尻細ながらも声(口演?)たてまつるわいな
デロレンデロレンデロレンデンデロレンデロレンデロレン
(アライヤマカサノサノヤットコショイ)

細かな技巧的な部分はともかく、現在江州音頭として広く唄われている節回しとほとんど同じものです。後年になってレコードで習い覚えたのでは?と疑いそうになりますが、話を聞くと出身地である徳山村戸入地区で、自分よりずっと年上の人に教わったというのです。最初に私が聴いた徳山村の江州音頭と比べると、随分モダンなこのバージョンは、どうやって徳山村に伝わってきたのか。さらに同じ村の中でも、継承者によってこれだけ唄い方が変わるのはなぜだろうか? ますます疑問が湧いてきます。ちなみに、徳山「村」といえど、さらに8つの集落に分かれます。平方さんは徳山村の戸入出身です。唄い方の違いは集落ごとの地域差であるとも言えるかもしれません。

江州音頭は富山から伝わってきた!?

ーーさらに、新説が登場します。
ダム建設によってできた「徳山ダム」の湖畔に「徳山会館」という資料館があります。ある時、資料室の本棚に収まった徳山村に関する資料を漁っていると、かつて徳山村の民謡やわらべ歌を精力的に研究されて方がいて、昭和の終わり頃に、住民の方々から録音したテープを3巻組でまとめたという記述があったのです。カセットのトラックリストを見ると、今までに聞いたこともないような唄の名前がたくさん書かれています。その中に「江州音頭」の文字も。ぜひ、このテープを聴いてみたいと思いましたが、徳山会館館長の中村さんもテープの存在は知らないとのこと。資料をさらに詳しく見ると、その研究者の名前は服部勇次さん。愛知県弥富市在住の音楽の先生で、東海地方のわらべ歌研究を長年に渡って続けられている方のようです。

その後も、徳山に関係する何人かの方に話を聞いてみましたが、テープの存在を知る方はいませんでした。ところが、その数日後に中村館長から連絡がありました。なんと、服部勇次先生の所在を突き止めたらしく、本人と電話も繋がったというのです。近々服部先生に会いに行くという話で、やや私が気後れしてしまうほど目まぐるしい展開でした。後日、中村館長からは、服部さんと会って、件のテープを譲っていただいたという吉報が。これは是非とも自分も会わなければ!と奮い立ちました。

中村館長から教えていただいた電話番号に連絡し、ご本人とお会いできることに。実際にお話しさせていただくと、徳山村の民謡の魅力や、かつての思い出話など、様々に展開したのですが、ここでは江州音頭に関する話題に留めていこうと思います。服部勇次先生によれば、徳山村に伝わる江州音頭は、本来発祥地の滋賀県で唄われていた「正調」であり、今や現地でも唄われていない貴重なものであるとのこと。さらに、徳山の江州音頭は、富山の薬売りが伝えたものであるということ。服部先生はご自身が撮影された写真を指出して「この人が徳山に江州音頭を伝えた最初の人」とまで、説明してくれました。江州音頭は滋賀県から伝わったのではないのか!? 新説の登場に、頭が混乱します。

▲徳山村で民謡調査を行っていた若かりし頃の服部勇次先生(出典=『外側から見た 写真集『沈みゆく徳山村』)

帰り際に、服部勇次先生から3巻組のテープを譲り受けました。民謡、子守唄、わらべ歌、服部先生が作詞作曲された徳山村の唄のコーラス、ラジオ番組の録音など、様々な音源が収録されています。気になる「江州音頭」ですが、説明書きには戸入出身の宮川次郎さんが歌い手としてクレジットされています。さっそく聴いてみると、これは平方浩介さんが唄ってくれたバージョンの江州音頭とほぼほぼ同じ節です。途中で音が切れてしまいますが、口上の後にちゃんと「デレレン、デレレン」の合いの手も入っています。平方さんの出身も戸入。平方さんが江州音頭を習った相手というのは、この宮川次郎さんのことかもしれません。

ここで私は、あらためて平方浩介さんにコンタクトをとって、徳山の江州音頭について前回聞けなかった部分まで、お話を伺ってみることにしました。実は(後からわかったことですが)平方さんは、昭和58年・59年に岐阜県教育委員会によって実施された「岐阜県の民謡緊急調査」にて、徳山民謡の調査員として参加されています。さらに『徳山村史』(昭和48年)の民謡の項を執筆されたのも平方浩介さんなのです。

▲出典=『岐阜県の民謡 民謡緊急調査報告書』

▲平方浩介さん

平方さんから聞いた話の全貌はいずれ別の機会に公開できればと思うのですが、ここでは江州音頭の話に絞ってご紹介したいと思います。やはり平方さんが江州音頭を習ったのは同じ戸入の宮川次郎さんであるとのこと。宮川さんが唄うのをテープに録音して、それを聴きながら唄の練習をされたそうです。そして、重要な証言として、「宮川さんは、若い頃に出稼ぎに行った先で江州音頭を習ったらしい」というものがありました。では、その出稼ぎに行った場所はどこか?という質問には「わからない」とのお返事。その場所がわかれば、江州音頭の具体的な流入経路がわかるかもしれません。

出稼ぎ先の鉱山で覚えた江州音頭

家に戻ってから、服部先生から預かったカセットテープを聴き直していると、とある音源が目(耳?)に留まりました。それはNHK岐阜放送局が昭和50年代に制作した『サウンドルポルタージュ 村は沈んでも歌は残る』という、徳山村の民謡を取材した番組の音源でした。番組には徳山民謡の研究家として服部勇次さんが出演されており、そのためカセットテープに収録されたのでしょう。しばらく聴いていると、なんという偶然か、番組の後半で宮川次郎さんがインタビューを受けていました。徳山村の民謡はほとんどが峠を越えて外に地域から持ち込まれたものだという話の流れで、宮川次郎さんが江州音頭の継承者として登場したのです。そこで宮川次郎さんは「滋賀県の土倉鉱山で江州音頭を覚えた」と確かに証言しているのです。こんなに首尾よく、宮川次郎さんの出稼ぎ先が判明するとは......。

▲戸入に江州音頭を伝えた?宮川次郎さん(出典=『沈みゆく徳山村の歌153曲集』) 

土倉鉱山は、現在の滋賀県木之本町金居原に位置する銅山です。明治40年にその鉱脈が発見され、昭和40年に閉山するまで約60年ほど採掘が続きました。宮川次郎さんが住んでいた戸入からは、門入という地区を抜けて、ホハレ峠、八草峠という2つの峠を越えた場所に位置します。確かに出稼ぎに出かけていてもおかしくない距離感です。いろいろな資料から計算する限り、宮川次郎さんが生まれたのは明治20年代頃と推測できます。宮川次郎さんが出稼ぎに行っていた年齢や時期がわかれば、少なくとも徳山村の戸入に江州音頭が伝わった時期も明らかになるのではないでしょうか。

平方さんに再び電話をかけ、宮川次郎さんの出稼ぎ先が判明したことを伝えると、「確かに君のいう通りだろう」と同意をしてくれました。宮川次郎さんが土倉鉱山に出稼ぎに行った時期を知っているか聞いてみると「よし、それなら次郎さんの息子さんを紹介しよう」と、御子息のKさんの電話番号を教えていただきました。Kさんと平方さんは同じ戸入出身で、いまでも親しく交流を続けているというのです。

さっそくKさんに電話をかけて疑問を伝えてみると、「確かに親父は土倉鉱山で働いていて、そこで江州音頭を習ったらしい」とお答えいただきました。さらにお話を聞いてみると、宮川次郎さんが土倉鉱山で働いていたのは、Kさんが生まれてまもない頃ではないかということ(Kさんは昭和8年生まれ)。つまり、戦前ということになります。次郎さんは2〜3年ほど鉱山で働いていたそうで、また土倉鉱山の飯場で大雪崩があって大変だったともお父さんから聞いたそうです。実際、終戦間際になって、Kさんは父親に連れられて事故で閉山した土倉鉱山の跡も見ているようです。まだバケット(鉱石や土砂などを入れて運搬する容器)がそこら中に残っていて、子どもながらに強烈に印象に残っていると。さらに重要な証言としては、鉱山で江州音頭を教わった次郎さんは、ヤグラの上に立って音頭を取ったこともあるそうです。Kさんの推測では、土倉鉱山の宿舎に住んでいた次郎さんが、近くの町のお祭りで音頭を取ったのではないかと、その町とは、土倉鉱山のほど近くにある金居原ではないか、とのこと。

▲出典=『湖国と文化 季刊・第五六号 一九九一年夏季号』

土倉鉱山の資料を調べてみると、この地が昔から豪雪地帯であり、鉱山の施設も大きな被害を被っていることがわかります。特に恐ろしいのが「アワ」と呼ばれる雪の嵐で、これによって、昭和9年、11年、14年、15年に多くの死傷者を出しています。昭和15年、雪の被害から逃れるために、鉱山の施設は元の場所から二キロ下に位置する出口土倉に移動しました。Kさんがお父さんから聞いた雪崩と閉山の話は、まさにこの時期の体験談であると確定できます。そうなると、宮川次郎さんが江州音頭を教わったのは、昭和10年〜15年の時期だと言えそうです。

フォトスポットと化した土倉鉱山

さて、現在の土倉鉱山はどのようになっているのでしょうか。気になって気になって、ついに足を運んでしました。土倉鉱山の選鉱場(採掘した鉱石を分離する施設)は、自然に飲み込まれようとしながらも、往時の姿を想像させる構造物が残されています。案内の看板も建てられており、鉱山跡地を見学するツアーなども時たま開催されているようです。佐渡鉱山の「北沢浮遊選鉱場」もそうですが、選鉱場跡地というのは観光スポットとしてのポテンシャルが高いみたいです。

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実際に、宮川次郎さんが働いていた当時の施設は、ここからさらに奥地に入った「奥土倉」という場所になるのですが、時間の都合で断念。今度また足を運んでみようと思います。

これからやりたいこと

コロナの状況が微妙ですが、宮川次郎さんのご子息に対面で、さらに次郎さんとの思い出話や鉱山についてのお話を聞いてみたいと思っています。また、次郎さんがかつて音頭を取ったであろう金居原についても、地元の昔を知る方などにコンタクトを取って調べてみるつもりです。金居原には太鼓踊りという芸能があったようなのですが、近年になって途絶えていた太鼓踊りが復活したという報道もあります。その調査の過程の中で、近江→美濃という点と点の間で江州音頭がどのように伝わったのか、どのように変容したのか、より高い解像度でわかってくるかもしれません。

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また、ゆくゆくは江州音頭富山から伝わった説も突っ込んでいかなければいけませんね。まだ調査は終わっていませんが、今のところの私の所感としては、おそらく江州音頭が徳山村に伝わって経路というのは1つの限定できないのではないかと思います。宮川次郎→平方浩介さん経由で伝わった江州音頭は、徳山を初め、その周辺地に伝わっているシンプルな江州音頭、祭文音頭と比べると、あまりにも現代的な江州音頭と似通いすぎているのです。現代のように洗練される前の江州音頭が先に伝わり、後から宮川次郎さんによって、芸能としてソフィスティケイトされた新江州音頭がもたらされたという流れかもしれません。

平方浩介さんは、徳山のような閉ざされた村落社会は「本音」の言えない抑圧された世界だといいます。そんな中で、盆踊りのような「祭り」は大きな発散の場になります。若者たちは、そんな開放の場でこぞって「ヒーロー」になろうと努めます。盆踊り唄の中に、外から持ち込んだちょっと洒落た歌詞を取り入れてみたり、都で流行っている新しい踊りを披露してみたり。宮川次郎さんも全国から様々な人間が集まる鉱山の飯場で覚えた江州音頭を戸入に持ち帰り、拍手喝采を浴びたのではないでしょうか。徳山では盆踊りの締めに江州音頭が踊られる慣習があります。最後の最後に、一番盛り上がる江州音頭を持ってきたということなのでしょう。

次郎さんのご子息であるKさんは、次のように誇らしげに語ります。

「踊りそのものは若干あれやね、徳山に変な形で伝わって、本来の江州音頭と踊りも違うし、音頭の取り方も違うわな。で、一番(現地と)近かったのはうちの親父の音頭やったんやわ」

岐阜県に伝わった江州音頭について調べるうちに、決して歴史の表舞台には出てこない一人のヒーローを、僕は見つけたのかもしれません。

▲岐阜県揖斐郡の鳥越峠から滋賀県の琵琶湖を臨む。

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