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日本盆踊り紀行 02 沼島(ぬしま)の盆踊り(兵庫県南あわじ市沼島)

2017年、沼島へ

 神様が最初に作った島で行われる盆踊りはどのようなものだろうか。

 「沼島(ぬしま)の盆踊り」について知るきっかけとなったのは、中西レモンさんだ。レモンさんとどこで知り合いになったのかはもはや忘れてしまったが、盆踊りや民謡に関して造詣が深く、自身も滋賀県発祥の盆踊りである「江州音頭」の音頭取りとして精力的に活動している。かと思えば、松山のお祭りで「野球拳」の音頭取りとして毎年呼ばれていたり、東北で神楽の修行をしていたり、ある時はアーティストとして部屋にこもって木彫りの仏を延々に掘っていたり、ともかく多才だ。
 あまりに浮世離れした天狗のような存在で、少々掴みどろのない部分もあるが、盆踊りに関する圧倒的な知識量から、僕は心の中で密かに「師匠」「兄さん」と仰いでいたりする。
 そんなレモンさんに教えてもらったのが「沼島の盆踊り」だ。とにかく、その島にはとびきりの「音頭取り」たちが存在し、強烈な音頭で地元の人々を踊らせているらしい。レモンさんにとっては憧れの地であるようだが、まだ足を運べていないとのこと。2017年の夏。はて、どこの盆踊りに行こうかと迷っていた矢先だった。それなら、沼島の盆踊りとやらに行ってみようか。そんな軽い気持ちで、僕は沼島行きを決めたのだった。

「沼島千軒」と呼ばれた繁栄の時代

 レモンさんがなかなか沼島に行けなかった理由。それは、1つ交通の便のわるさもあると思う。車があればなんとかなるが、車なしでバスやら船やらを使って向かおうとすると、乗り継ぎでちょっと苦労するのだ。兵庫県の神戸三宮からバスで淡路島へ。淡路島の中で便の少ないコミュニティバスを乗り継いで、さらに沼島行きの船便にも時間を合わせなければ行けない。1つでも乗り遅れたら一巻の終わりだ。途中危ういところもあったが、昼過ぎに神戸を出発し、18時ころになんとか沼島に到着することができた。

 さて、沼島という土地について簡単におさらいしておきたい。本州と四国を結ぶように位置する淡路島。その南端から5kmほど離れたところに、ちょこんとかわいらしく島が浮いている。島の周囲の延長は10.0km、面積は約2.63キロ平方km、島の最高峰である石仏山は標高125m。淡路島からこぼれ落ちた豆粒のような島であるが、かつては「沼島千軒」と唄われたほど、繁栄を極めた歴史があった。
 その要因は、地形的優位性、水路の良さである。古くから大阪湾と阿波・土佐を結ぶ要港として位置付けられていた沼島。下関から五島・対馬まで関わりがあったという。漁獲物交易によって早くから貨幣経済に入っていた沼島は、江戸時代の魚市場の活性によって栄えた。大阪などの都会との交流も多く、沼島は非常に開けた土地だったと言える。
 また、江戸時代、沼島浦の漁師たちは、領主である蜂須賀氏の参勤交代において船頭役や水夫役をつとめた。そのために相当数の水夫を確保する必要があり、自由な出漁も制限されたが、代償として広い海域の独占漁業権が与えられた。そのような藩の保護によって、沼島はますます栄えたという。
 沼島の全盛期は化政時代とも言われているが、明治維新を迎え蒸気船が登場すると、海上における中継港としての価値が薄れ、独占的漁業権を失い、海とともに生きてきた島の運命は衰微の道をまぬがれえなかった。戦後の復員により一時的に島の人口は増えるが、戦後の経済成長、阪神地方での労働需要の拡大により、若者の島離れは加速していく。明治24年3月の沼島の世帯数は799戸、人口は2893人の規模があったが、令和2年度の統計では、世帯数は209戸、人口は425人となっている。

 こんにち、沼島についてインターネットで調べてみると「おのころ島」「くにうみの島」という惹句に出くわすはずだ。これは『古事記』や『日本書紀』の国生み神話にもとづいている。

 「天にある高天原の神々から国生みを命じられた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は、天浮橋に立って矛で海水を「こうろこうろ」とかき混ぜました。このとき矛の先からしたたり落ちた滴が固まってできたのがおのころ島です。諸説ありますが、おのころ島は沼島だといわれています。」
「沼島観光案内所」沼島の昔話

 冒頭で述べた「神様が最初に作った島」という説明は、こういう所以である。

提灯に導かれて

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 沼島港に降り立つと、盆踊りの時間まで少し島を散策することにする。郵便局、市民センター、商店などの島の主要な機能や集落は、ほとんど漁港の周辺に集約されている。日本の離島ではおなじみの光景であろうが、住居は肩を寄せ合うように密集し、その間を入り組んだ路地が縫うように通っている。細長い路地を眺めていると、どこか知らない場所に吸い込まれるような錯覚を覚える。銭湯を見かけて思わずシャッターを切ったが、既に廃業しているようだ。

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 しばらくあるくと、盆踊りの開催を知らせる提灯がポツポツと現れた。いやが上にも気分は上がる。沼島には、南、中、北、東、谷、泊の5つの地区がある。盆踊りの開催日も区ごとに異なっており、僕が参加したのはその最初となる8月13日の南区の盆踊りだ。すずなりに連なる提灯に導かれて歩を進めていくと、民家の軒先が両脇から迫る狭い空間に、木組みのヤグラが立っている。

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 まだ人気はなく閑散としているが、数少ない情報をたよりにやってきた見知らぬ離島で、こうやってヤグラを目の前にすると安堵と喜びの気持ちが静かに湧き上がってくる。まだ、盆踊りの開始までは2時間ほどある。商店で飲み物を買ったり、漁港で海を眺めたりしながら時間をつぶす。

音頭取りたちの美声に酔う

 あたりがすっかり暗くなった頃に戻ってくると、ヤグラに周りは人影があう。背中に「南傍示」と書かれた揃いのTシャツを着ている。雰囲気的には、完全に親戚の集まりという感じで、観光客はおそらく0である。かつてお盆の時期は阪神方面に働きに出ていた元住民の帰省で、島の人口が2倍に膨れ上がったという。久しぶりに会った子と親が交歓を楽しむ何気ない田舎のお盆の風景。そういえば大人になってから、こういう感覚は味わっていなかったように思う。よそ者だけど、勝手に癒されている自分がいるのだ。

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 ヤグラの前には休憩用の長いすが並べられ、その傍らには、氷とビール、ジュースを満載されたクーラーボックスが用意されている。いかにも「夏」という感じだ。たまらない気持ちになる。そうこうしていると、さっそく盆踊りが始まった。

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 ヤグラの脚にロープのようなもので太鼓が固定され、男性が鮮やかな手捌きで叩いている。ヤグラの上には唐傘を手にして唄っている音頭取りの姿。ここもまた、地方の昔ながらの盆踊りの例に漏れず、CDやカセットではなく生歌での盆踊りのようだ。なぜ唐傘を?と疑問に思うかもしれないが、傘を手に音頭を取る文化は沼島に限らず、瀬戸内海一帯、また九州地方などでも見受けられる文化である。一説には、マイクのない時代に、歌声が拡散しないように傘を使って集音したとも言われているが、定かではない。ただ、傘を持って朗々と唄う姿は歌舞伎役者のように粋で、音頭取りに一層の華を持たせている確かである。

 さっそく、踊りの輪の中に入ってみる。見様見真似で足のステップをやってみるが、これがとても難しい。沼島の盆踊りの特徴は回転を中心とした動きである。前に行くにも後ろに行くにも、ともかく右へ左へ回転をしないと済まないというくらいに何かにつけグルグルと回る。その回り方も、規則性があるのかないのか、最初はまったく要領をつかむことができない。体の動きに合わせて視線も360°全方位をさまよっているので、誰か一人の動きを参考することもママならない。これは難しい。そして楽しい。

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 幸いにして、沼島の盆踊りは1つの節と、1つの踊りでひたすら踊り続けるスタイルなので、辛抱強く観察と試行錯誤を重ねていれば、なんとなくの形はできてくる。慣れてくると次第に様々なことを考える余裕も生まれてきて、この回転の多い踊りは、どこか東京で最も歴史があると言われている佃島の盆踊りを彷彿させるな、など思ったりする。

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 佃島は元々、江戸時代に現代の大阪府大阪市西淀川区佃の漁師が徳川家康の上洛に際し、渡し舟で一行を運んだことがきっかけで漁業権を与えられ、江戸に移り住むことでできた土地である。沼島の漁師たちは魚の取引で大阪の魚市場である京町堀などの雑喉場(ざこば)にも進出しており、当時数多くの沼島出身者が大阪の地で活躍していたという。やや強引な推測になるが、京堀町と佃は距離としては6kmほどして離れていないので、沼島の漁民が佃と関わりを持ち、何かしらの文化の共有があったと考えるのも、わるい想像ではないと思う。

 そうな妄想を頭にめぐらしながら、「それにしても」と思うのは、音頭取りの声の良さよ。見た感じはそれほど年を重ねていなそうな「青年団」という感じの男女が代わる代わるにヤグラの上に立って、自慢の喉で音頭を披露する。これまで自分が体験してきた生唄での盆踊りと比べても、その圧倒的なレベルの高さには驚かされる。これはもはや地域のささやかな盆踊り大会という枠を超え、お金を払って鑑賞する演芸大会のようだ。踊りを忘れて思わず聞き惚れてしまう。

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 沼島で唄われている音頭は「兵庫口説き」と言われるものである。その名の通り、兵庫地区を発祥とし、江戸時代のかなり長い期間に亘って関西を中心に四国や中国地方、九州で大ヒットした。もちろん、現代でも沼島のような古い盆踊りではいまだに歌い継がれている。基本的には七七の句型の繰り返しであるが、声の抑揚や、言葉の切り方、加速したり減速したり、縦横無尽にヤグラの周りを駆け巡る唄は陶酔的でもあり、踊り子たちをメロメロに酔わせてしまう。音頭の区切りは「オンドーノカミサーン、タマジョーイ、タマジョーイ」という踊り子たちの呪文めいた掛け声で起こるのも、また面白い。これは何時間踊っても、まったく飽きることがない。いったい、この島の音頭取りたちはどれくらい鍛錬をつんでいるのだろうか。あっという間に時間は過ぎ、気がつけば深夜1時を超えている。朝まで踊りそうな盛り上がりを見せていたが、ようやく踊りはお開きになった。

地元の人の家にご招待

 踊りが終わって余韻に浸りながらその場にたたずんでいると、地元の人が声をかけてくる。「あなたどこから来たの? ずっと踊っていてすごいね」。やはり、他所から来た人間であることはバレバレであったようだ。素直に東京からこの踊りを目当てに来たことを告げると、流石に驚かれる。好意的に受け取っていただけたのか、「片付けが終わったらうちにこない?」とのお誘い。なんとフレンドリーなんだろう。どうせ泊まる宿もないので、お言葉に甘えてついていくことにする。
 しばらく待っていると軽トラがやってきて、荷台に載せてもらえた。ここから一体どうなることやら。

 ものの数分もせずに目的地の到着。なんと、その方のご自宅らしく建物に招いていただく。大きな広間には、盆踊りの熱気覚めやらぬ大人の子どもたちが段ボールを何箱も持ち運んでいる。何かと思えば、逆さまになった段ボールからはどさどさとカップラーメンがこぼれ出てきた。どうやらこれから、この大量のカップラーメンに一家全員でありつくらしい。盆踊りで空きっ腹になったので、ここで腹ごしらえ、という感じだろうか。毎年恒例の儀式であるかのような、淡々とした流れで次々とカップラーメンの蓋が外され、お湯が注がれていく様子がなんとも面白い。
 「あなたも好きに食べてー」と、その家のお母さんのお言葉に甘えて、1ついただくことにした。
 カップラーメンをみんなですすっている間は、ひたすらに質問攻めである。どこで沼島の盆踊りのことを知ったのか? なぜ興味をもったのか? 私という突然の闖入者を警戒するでもなく、こうやって関心を持っていただけるのは嬉しいことだ。しかも、家に招待していただくなんて!
 一通り質問が終わると、今度は沼島のことを色々と教えてくれた。沼島の集落ごとの歴史的成り立ちの違いや、沼島の観光スポットについてなどなど。ハートの窪みがある岩が恋愛成就のパワースポットとして最近有名だそうだが、「ハート型なんて言い出しのは最近だよなー」と愉快な話が続く。
 ところで、気になることがあったので聞いてみる。「皆さんはどうやって音頭を練習しているのでしょうか」。そう、この身震いするほど魅力的な音頭はどのように育まれているのだろうか。この謎はぜひとも明らかにしなければいけない。そんな意気込みで質問してみると「擦り切れそうなボロボロのカセットテープを聴きながら練習しているよ」とのこと。いま思えば、そのテープを聞かせてもらえばよかったと後悔の念。
 このままだと、そのまま家に泊めてもらえそうな気配だったが、なんとなく遠慮の気持ちが動き、引き止める声に感謝を述べつつ、お暇させてもらうことにする。宿はないが、寝袋があるのでどこでも寝れるのだ。近くの浜辺に行って、暑かったのでマットの上でそのまま寝たが、あえなく蚊の集中攻撃を受け、朝方は足が地獄のように赤くなっていた。

神の島で踊れ

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 帰り際に、沼島八幡宮に立ち寄る。本殿へと続く長い階段のふもとには、盆踊りのヤグラが組まれている。どうやら今夜はここで盆踊りが開催されるらしい。階段を登りきったところで振り返ると、沼島の港町と海を臨むことができた。

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 ここは神様がお作りになられた島。神様に見守られながら、人々は唄い踊る。そして、その唄声は、まさに神から与えられた天賦のものであるかのように、美しいのだ。

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<参考文献>
兵庫県教育委員会文化課 編『沼島 沼島地区民俗資料緊急調査報告書』(兵庫県教育委員会,1971)
村上省吾 編『兵庫口説』(弓立社,1999)
兵庫県南あわじ市〜沼島〜(2020年9月15日参照)

 

 



 
 
 


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