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ごまめのごたく:ロシアのもろもろ(6)ヴァイキング

ウラジーミル・プーチンが、ロシアの原点と考えている、988年にキリスト教に改宗したウラジーミル大公とは・・・・


ウラジーミル・プーチンが信じているロシアの原点とは?

 プーチンは、名前が同じだけで、歴史的、血縁、縁戚関係は何もないが、自分がほぼ1000年後にロシアのKGBの職に就き、大統領まで上り詰めたことに、意味のある因縁があると、確信しているように見受けられる。

 その千年前のウラジーミルを調べると、当時の東ヨーロッパでのヴァイキングの活動を追う羽目になった。

ヴァイキングの東欧への進出

 ヴァイキングの東欧への進出については、
 9世紀にスウェーデンから船での、川伝いの進路(ヴァリャーグからギリシアへの道;ヴァリャーグは、ロシア方面へ進んだスウェーデン系のヴァイキング。バルト海はヴァリャーグの海と呼ばれていた)が開発されていて、
 最初は、略奪、奴隷売買などを行っていたが、商売上手で、自分たちの暴虐さを見せつけて、商取引を行い、
 進出した先々に定住して支配力を強め、スラブ文化に同化していったらしい。

10世紀のキエフ・ルーシ公国
「物語 ウクライナの歴史 中公新書」より

リューリク朝

 9世紀になって、リューリクというヴァリャーグ人(ビザンチンではルス人と呼んでいた)の族長が現れた。初代リューリク朝である。

『ロシアの年代記に出てくるロシアの最初の建国者リューリクの子孫をもって形成されたという、キエフ公国からモスクワ大公国にいたる王朝。
キエフ公国の年代記によれば、862年ヴァリャーグ人リューリクがロシアに招かれ、公として君臨し始めた。その後、882年リューリクの後継者オレークがキエフを占領して、リューリクの息子イーゴリをキエフ公に据えて以来歴代のキエフ公はリューリクの子孫たることが条件とされた。12~13世紀になるとさらにその分家にも適用され、モスクワ大公やツァーリは分家のモノマフ家の子孫が継承した。リューリク朝の最後のツァーリは、1598年に死んだフョードル1世である』

電子手帳の「ブリタニカ国際大百科事典」から「リューリク朝」

 キエフ公国の東側は、7世紀ごろから強力な軍事力を持つハザール国に抑えられていたが、一方、ハザール国は東や南からの侵略者に対する防波堤の役割を果たしていた。
 9世紀に入ると、それに加えて北側からルス人が侵攻してきたわけだ。

「ロシア原初年代記」によると、
 ノヴゴロド地域の東スラブ人はヴァリャーグ人に貢物を納めていたが、いったんは海の向こうに追い払って自治を始めた。しかし内紛が起こって収まりがつかなくなり、かつて追い払ったルーシ(その地のヴァリャーグ人は「ルーシ」と自称していた)に使者を送って、公となって自分たちの土地を治めてほしいと要請した。そこでルーシの首長リューリクが一族を引き連れて海を渡ってノヴゴロドに到来し、862年ノヴゴロド公となった。
その後ハザールの支配下にあったキエフも、ルス人の手に渡った。

黒川祐次著「物語 ウクライナの歴史」

 さて、リューリクの息子イーゴリ公は941年大艦隊を率いてビザンチンを攻撃し暴虐の限りを尽くした。
しかし、最後にはビザンチン艦隊に敗北し、イーゴリはデレヴリア人に殺され、未亡人となったオリガがキエフの摂政となった。
その治世は、デレヴリア人への残虐な復讐から始まったが、どういうわけか、コンスタンチノープルの公式訪問の折に洗礼を受け、後に彼女は正教会によって、最初のロシア人聖者と認められた。

しかしながら、オリガの息子スビャストラフは異教に立ち返り、多くの合戦に出かけた。

ウラジーミルのキリスト教への改宗

 スビャストラフの息子聖ウラジーミルの時代になって、988年最終的にロシア人の支配王朝がギリシャ正教の教えを取り入れた

この時の経緯
 ウラジーミルは軍隊を率いてギリシャの町チェルソンへ進撃した。勇敢なチェルソン市民は降伏を拒んだが、一人の裏切り者が水路の弱点をウラジーミルに教えて水補給を絶つのに成功し、チェルソンは降伏した。ウラジーミルは、皇帝(当時は共同統治)バシレイオスとコンスタンチヌスに伝言を送って、「娘を私の妻としてよこせ、そうしなければお前たちの町をチェルソンと同じ目に合わせるぞ」と言った。
 皇帝たちは「洗礼を受ければ彼女を妻にやろう」と答え、結局、ウラジーミルは洗礼を受けて、ビザンチンの王女アンナと結婚した
こうして、ギリシャ正教はロシア民族の公式宗教となり、1037年以降、ロシア正教はコンスタンチノープルの司教によって管理された。

 ちなみに、ロシア年代記では、ウラジーミルという人物の記述はこうなっている。

 さてウラジーミルは、女性への欲望に圧倒されていた。彼は側室をヴィシュゴロドに300人、ベルゴロドに300人、ベレストヴォルに200人持っていた。彼はその悪徳に飽くことを知らなかった。彼は人妻さえ誘惑し、少女を犯した。彼はソロモンのように放蕩者だった。・・・
 ソロモンは賢明だったが、最後には身を亡ぼした。しかしウラジーミルは、始めこそ惑わされていたが、やがて救いを見出した。主は偉大なり。その智慧には果てしがない。

アーサー・ケストラー「ユダヤ人とは誰か」三交社

 こうした流れの中で、ハザールは衰亡し、ロシア人とそのスラブ系臣民は、東の草原からの遊牧民戦士が駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなくなった。遊牧民の絶え間のない圧迫の結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていった

 プーチンが信奉するロシアの原点ウラジーミルのお話はここまで、と言いたいのですが、これではあまりにもお粗末ではないでしょうか。
 なんだか、煙に巻かれてブレインフォッグがかかってしまい、脈絡が見えません。
 ヴァイキングのルーシ、ウラジーミルと、今のウラジーミル・プーチンの間の1000年が、終末戦争のきっかけになりかねない現在の情勢を引き起こす必然をどうして内包しているのか、これだけでは全く分かりません。これが、イリインにどうつながるのでしょう???

P.S.

 この時期のロシアの叙事詩に、一番の傑作と言われる「イーゴリ軍記」があります。
 これは後世、アレクサンダー・ボロディンの作曲によるオペラ「イーゴリ公」として上演されるようになります。
 次回は、「イーゴリ公」の有名な曲を紹介します。