見出し画像

ごまめのごたく:山田の周辺

あれこれ調べたことを、ここでえいやっと並べてみます。覚書'note'です。
へたすると、脈絡のない羅列になりそうなので、時期尚早ではありますが、現時点での推定結論?的なことから。

1.山田の地名を有する、次の場所は、天照大御神豊受大御神(大御は最上級の敬語)の伊勢への遷座に関連する共通の特徴がありそう。
 丹後山田、伊勢の宇治山田、奈良県桜井市の山田、吹田市の山田、伊丹の山田

2.これらの地名としての山田は、山の中の田んぼ、というより、山と田、と理解したほうがよさそう。つまり、山からの産物と田からの産物(稲)が、同じ地域で調達できるところ。

3.そのような場所としては、川が山から平野へ流れ出しているところから山へ少し入った谷合の、比較的小さな平野が考えられる。
このようなところで、かつ、川が流れだしている平野のすぐ先に、海や湖があるとなおよい。海岸線については、縄文海進や当時の湖の状況を考える必要がある。

4.この時代、たぶん縄文時代後期から弥生時代、古墳時代前期、各地の豪族の王への食料の調達と帰属のしるしとしての捧げものとして、様々な山海の珍味を取り揃えて調達する場所が、このような山田であったはずです。たぶん、丹後山田が最も古く、広い地域に影響力を持っていたはずでしょう。

5.もともと、各地の山田で祀られていた神々が、うけもちの神であり、奉納品をささげる先が、豪族の王であれば、その氏神の神社にささげられたのであろう。そして、飛鳥から奈良時代に入って大和政権による統一、支配が図られると、王権の象徴となる神が必要となって、そこを伊勢に定め、神饌を調達する神が豊受大御神であり、ささげられる神が天照大御神であって、豊受大御神は、山の幸、田の幸、海の幸を恵む、生産者に崇められる神であって、天照大御神は、支配者が崇める神である、という構図になっている。

 思い込みを羅列しましたが、こんどは背景の理解のための整理をしようと思います。 実は、古代史初心者の私めの頭には、大変こんがらがる話で、これを整理するのは大変むづかしい。

地元付近の脇見歩きをしていて、神社の祭神が気になって調べ始めたわけですが、ネットで検索してみると、豊受大御神とはどういう神か、ということが書いてあるので、ある程度のイメージを持つことはたやすい。

ところが、先入観で、こいうことは、古事記や日本書紀に書いてあるのだろうと、記紀神話の入門書を読んでみると、豊受の神(しばらく敬語省略)について、記載されていない。

 ただ、ネットで、豊受の神についての記事を読むと、豊受の神とは、記紀では、ウケモチノ神であったり、オオゲツヒメとして登場する、と書かれていたり、トヨウケビメノ尊のことであるとか書かれているが、最後のトヨウケビメノ尊は、名前がそれらしいが、事績が全く書かれていない。

ともかく、後のこともあるので、記紀神話の関連事項の'note'

古事記によると、まず高天原(たかまのはら)に現れたのは、アメノミナカヌシの神、高皇産霊神(タカミムスビの神)、カムムスビの神。
それから神世七代の神々が現れ、イザナギ(伊邪那岐)とイザナミ(伊邪那美または伊弉冉)が最後に現れる。

お二人が、陸地のない泥沼のような海を矛でかき混ぜると、矛先から滴ったしずくからオノコロ島ができたので、そこに降り立った。
この二柱の神々がオノコロ島で出会ったときに、女性であるイザナミさんから先に声をかけた。その天罰(どの天かな)で、最初に生まれた子は、三歳になっても足が立たない障害児蛭子:ヒルコ)で、葦の船にに入れられて海へ流された
 たどり着いた先が西宮の海浜で、漁師に拾われて育てられ、エビス(蛭子)様としてあがめられ、商売が繁盛するようになったとか。

 その後、淡路島など八つの島(大八洲:おおやしま)をお産みになった。
 (ここでいう島は、じつは、縄文海進が終わって海が引き始めた時に海岸に現れた洲(砂浜)のことだと思います。そこに弥生人が入ってきたことの記憶があるかも)

大八洲を産まれた後、さらに山や草木や自然界をつかさどる二十三柱の神々が産まれた。その中に、オホゲツヒメの神が入っている。
さらに、イザナミさんの排泄物から様々な農産物の神々が生成したが、尿からはワクムスビノ神が生まれその子がトヨウケビメノ神
最後に、イザナミさんが火の神カグヅチを産み落としたが、そのとき大やけどを負って亡くなられた。
怒ったイザナキは、カグヅチを切り殺してしまったが、このカグヅチは、防火の神として愛宕神社にに祀られている

死んだイザナミは、黄泉の国に行ってしまったが、イザナキは大きな悲しみに包まれて、黄泉の国へ妻を連れ戻しに向かった。 イザナミは、「もう地上には戻れない、決して私の姿は見ないように」といって、立ち去ってゆくが、結局、イザナキは妻の姿を見てしまう。
そこで垣間見たイザナミの身体は腐敗して腐臭を放ち、ウジがたかった穢れた体から生まれた雷神八柱がついていた。

 黄泉の国から脱出したイザナキは、日向国(宮崎県)へ行って、黄泉の国の穢れを祓うために禊(みそぎ)をする。
そこで、左目を洗ったときに生まれたのがアマテラス、右目から生まれたのがツクヨミ、鼻から生まれたのがスサノヲです。

 スサノヲは、父から海を治めるように指示されたが、所かまわず悪さをし、アマテラスが天の岩屋に隠れる話となる。
この、天の岩屋の出来事がもとで、スサノヲは高天原から追放される。追放され、放浪しているときにオホゲツヒメを訪ねて食べ物を求めた。
ところが、ヒメは、口や尻から食べ物を取り出して調理したので、スサノヲは「失礼な!汚らわしい!」といって、ヒメを切り殺した。
死んだヒメの頭、両目、両耳、鼻、陰部、尻から五穀の種が生じた

 以上は、古事記の記述であるが、最後のところは、日本書紀では次のようになる。

「日本の神話を考える」上田正昭 吉川弘文館 2019 p71
日本書紀巻11の「一書」
伊弉諾尊(イザナキノミコト)月夜見尊(月読命)に命じて、葦原の中つ国に保食(うけもち)の神ありと聞く、そこでお前が赴いて観察せよ、と告げた。月夜見尊がウケモチの神のもとに到着すると、ウケモチの神が首を廻して、国にむかうと口から飯を、海にむかうと口から大小の魚を、山にむかうと口から狩猟の獲物をはきだして、これらを机に並べて饗応しようとした。月夜見尊は怒って、剣でモチウケの神を撃ち殺した。
その状況を復命したところ、天照大神が怒って、月夜見尊は悪しき神であり、互いに相まみえじと告げて、一日一夜、隔て離れて住むことになった。

それでは、豊受大御神が天照大御神とともに、伊勢の外宮に祀られる経緯はどこに書かれているのか。
手っ取り早く、Wikipediaで「トヨウケビメ」を見てみると、

・・・・・・・・・・
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされている。(即ち、元々は丹波の神ということになる。)

『摂津国風土記』逸文に、 止与宇可乃売神は、一時的に摂津国稲倉山(所在不明)に居たことがあったと記されている。また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という(外宮境内社)。
・・・・・・・・・・

今は、NETの国立図書館デジタルアーカイブなどで、こういう古典の原文を確認できる。いい時代です。
せっかくだから、調査した『摂津国風土記』逸文を引用しておきます。
・・・・・・・・・・・
稲倉山
摂津国風土記に云く。稲倉の山、昔、とようがのめの神、山中に居り、以て飯を盛りき。因れ名となせり。叉曰う。昔、とようかのめの神、常に稲椋山(いなくら山)に居り、膳厨(みくりや)の所となす。のちに已み難き故ありて、遂に丹波の国のヒヂノマナイに還りたまひき古事記裏書
・・・・・・・・・・・

ここで、逸聞の出典として、「古事記裏書」と最後に記されている。なんやこれは????
またまた、ややこしい話がぞろぞろつながって出てきて際限がないので、今回はここでおしまい。