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祥雲禅寺の庭

帰郷して盆前の墓掃除を済ませた翌日の真夏の日曜日、祥雲禅寺、今は智積院となっている寺を訪れました。
本当は桔梗の花がお目当てだったのですが、両側に桔梗の花が植えられた参道が改修工事中で立ち入れず残念。もっとも、遠目には盛りを過ぎてほとんど枯れているようでした。
代わりに拝観料を払ってお庭を眺めつつゆっくりと休ませて頂くこととしました。

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​こちらのお庭は、この橋から奥の、池を縁取る石組みがお気に入り。
視線は廬山を模したと言われる大きな築山に向いてしまうかもしれませんが、是非ともその足元にも目を向けて下さい。真夏ではありますが、広々とした大書院に腰を下ろしてゆったりとした時間の流れを感じました。

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それにしても、たまに見かける躑躅を羊のように丸く刈った植栽は、子供の頃から好きになれません。。安っぽくちんちくりんに思えてしまうのですよね。秀吉がこの庭を造らせた当時、こんな植栽は無く、後代に植えられたのではないのかな?石組や庭の造形の密度の高い空気感を崩してしまっているように思います。

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さて祥雲寺は、秀吉が夭逝した息子鶴松の菩提を弔う為に建てた禅寺です。すぐそばの参道を登って正面の山が阿弥陀ヶ峰。こんもりとした均整の取れた小山は秀吉の墓があります。近くには従来からあった蓮華王院(三十三間堂)、法住寺なども取り込んだ広大な方向寺がありました。鐘楼と大仏殿跡の巨大な石垣が有名ですね。創建時の規模は北は現代の五条通(元々は今の松原通が清水寺の参道として五条通と呼ばれていたものを、方向寺の参道として今の位置に五条通を変更)、西は川端通、南は塩小路通。
いまも三十三間堂の南側の門と連なる塀が不釣り合いに巨大なのですが、これは方広寺の南大門と塀の遺構だからなのですよね。

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以前に撮った方広寺大仏殿の石垣

少し離れた本願寺(今の西本願寺)から真東に向かって鴨川を渡ると、巨大な塀に囲まれて境内に大仏殿と蓮華王院がある方広寺。鶴松の菩提寺である祥雲寺の脇を通って豊国神社、その先にある阿弥陀ヶ岳に抱かれた秀吉の墓。このエリアは大規模な豊臣テーマパークだったのですね。

豊臣滅亡後は、本願寺の勢力分断も兼ねて、秀吉に疎外されていた教如に本願寺の東に土地を与えて東本願寺を建てさせて、本願寺と阿弥陀ヶ峰の経路を分断。
方広寺はそのまま残されたものの(江戸時代寛政年間に大仏殿消失)、豊国神社は当然のように廃棄。
阿弥陀ヶ峰中腹にあった秀吉の墓は、一旦暴かれて副葬品などを剥がされ捨てられ、埋め戻した上に封印した上で建物は一切の修理を禁じられて朽ちるに任せた。(今の豊国廟は明治になって中腹から山上に移されて建てられたもの。)

もっとも、秀吉も本能寺の変の後、信長公の側室を磔にし、今に残る信長公の肖像画を貧相に書き換えさせ、信長公記も改編するという、信長公を自分より見劣りするように執拗に手を施しているのですけれどね。
恐ろしいのは生きた人間の怨念。。そんなことを感じた夏の一日でした。


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(数年前の7月頭の智積院参道に咲く桔梗。8月では既に花期は過ぎていますね。桔梗は祥雲寺の建立を任された加藤清正が蛇ノ目門と共に使っていた紋所で、それが建物等に残っていたので今は智積院がそのまま使ってるのだとか。)

P.S. 智積院には私の大好きな松林図屏風(東京国立博物館所蔵 )を描かれた長谷川等伯さんとご子息による襖絵が収蔵庫に常時展示をされており、お庭に入る際の拝観料で観ることができます。祥雲寺の客殿の為に描かれた屏風絵です。あの狭い空間で見るのに適したものではありませんし、傷みも激しいですが、訪れられる際は一度ご覧になってみてください。
そして、講堂の襖絵も是非ともご覧になってみてください。田渕俊夫氏という現代作家の描かれたものですが私は好きです。墨絵なのですが画風は現代的、しかし静謐という言葉を思い浮かべる作品群です。中でも枝垂れ桜が一番好きかな。

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