あるあるについて本気出して考えてみた

みんな大好き、あるあるネタ

僕はお笑いが好きで、その中でも「あるあるネタ」が特に好きです。

世の中には漫才やコント、すべらない話や一発ギャグ等々、多くのお笑いコンテンツがあり、そのほとんどが「お笑い芸人による、誇張を含んだ創作物」であると考えられます。

一方、あるあるネタはどうでしょうか。

あるあるネタとは、日常生活などで多くの人が経験しているような身の回りの些細なことを挙げたり、観客の共感を得ることで笑いを誘う演芸などの手法のひとつである。(Wikipedia)

あるあるネタに関しては、「誇張を含んだ創作」ではなく、日常で誰もが感じること=共感をネタにしているため、漫才などのコンテンツからは一線を画しているような気がします。

それでも面白く感じるのは、なぜでしょうか?

私なりに本気出して考えてみました。

お笑いの基本

島田紳助さんや松本人志さんをはじめとするいわゆる“お笑いレジェンド“と呼ばれる人達は、「笑いの基本とは緊張と緩和、そして裏切り」という考えを持っています。

ピリピリした状況から一気に緊張が緩んだ瞬間の安心感、そして“多分こうなるだろう“という推理を裏切ることによるギャップが笑いの基本とされています。

今や何百ものお笑い芸人が漫才やコント等々のお笑いコンテンツを生み出していますが、これら全ての基本は「緊張と緩和と裏切り」で出来ていると考えても過言ではありません。

あるあるネタもこのセオリーに当てはまるのでしょうか。ここであるあるネタについて、徹底的に掘り下げてみたいと思います。

あるある素材のからくり

あるあるネタの素材は、「システムの中に組み込まれたバグの言語化」であると考えます。(この言葉の意味は後程詳しく解説します。)

よくあるテッパンあるあるとして、

「信号を渡る時、道路の白い線の上だけ踏みながら渡りがち」

というものがあります。

特に子供がやりがちな事で、誰しも経験がある(少なくとも頭によぎった事はありそうな)ものだと思います。

この文章が、以下のようだとどうでしょうか。

「信号がある時、道路を渡りがち」

う~ん。そもそも信号は渡るためにあるので、信号がある時道路を渡るのは当たり前すぎて面白みがありません。

上記のような至極当たり前のことを、仮に”システム”と呼ぶことにします。

世の中の事象は、全てシステムの上で成り立ちます。

・欲しい日用品があったので、ドラッグストアに行った。
・速く移動したかったから、車に乗った。

しかし、このシステムはすべてが完璧な状態で実行されるとは限りません。時には無意味な(あるいは真逆の)出来事が発生します。これを仮に”バグ”とします。

例えば

・欲しい日用品があるからドラッグストアに行った。ついでにお菓子も買った(無意味のバグ)
・速く移動したくて車に乗ったのに、渋滞に巻き込まれてしまって結果歩いていくのとあまり変わらなかった(真逆のバグ)

ポイントは、このバグは起きても起きなくても、終着点となる結果に大きく影響を及ばさないということです。

例えばですが

・欲しい日用品があるからドラッグストアに行った。しかしそのドラッグストアは潰れていた。
・速く移動したくて車に乗ったのに、不幸にも交通事故で死んでしまった

このような結果に影響を及ぼす致命的なバグは、そもそもあまり起こりえませんし、起こった時点で大変なこと=笑えないものとなります。

つまりあるあるネタの”素材”となるものは、システムを実行するうえで、起きたとて大して気にならないバグであると考えます。

普段の生活に落とし込めて考えると、

「日常生活を送るうえでは不必要だが、特に気に留めるまでもない出来事」

とでもいいましょうか。

そしてこのような誰しもが経験のありそうなバグを言語化し、共感できる文章に落とし込んだものが、あるあるネタだと考えます。

最初の例に戻ると、”信号を渡る時に道路の白い線の上を踏みながら歩く”という行為は「信号を渡る」というシステムに発生した無意味なバグです。しかし「道路を渡りきる」という結果に影響を及ぼしませんので、それが問題視されることはありません。

つまりこのあるあるは、無意味のバグを言語化させた文章だと考えることができます。

バグは裏切り、共感は安心感

先述の「お笑いの基本」に立ち返りましょう。

裏切りがお笑いを生むとしたら、バグはまさにその類でしょう。

自分が今まで気にも留めなかったもバグが言語化されることによって、無意識だったものが意識化されます。今まで完璧なシステムのだと思っていたものが、実はバグを含んでいたという認識が「裏切り」となり、「ああ、そういえばあれはおかしいなあ。確かにあれは変だなあ。」という笑いを発生させます。

そして、そのバグが言語という人類共通のツールによって共有されることで、「あのバグは私だけじゃなかったんだ!」という安心感を発生させます。これが、お笑いの基本の安心感にあたると考えられます。

つまりあるあるネタは、漫才やコントと違って「誇張を含んだ創作」ではないものの、お笑いのセオリーをしっかり踏まえた立派なコンテンツであるということが分かります。

あるあるは社会を変える

このあるあるを「お笑い」に使うとあるあるネタですが、「商品開発」に使用するととんでもない武器になります。

例えば文房具のカドケシ。

・消しゴムを貸したときに、大事にしてたカドを使われたら静かに腹が立つ

誰もが経験のあるようなあるあるだと思います。しかし見方を変えれば、「消しゴムにめちゃくちゃカドがあれば便利なのでは?」と考えることもできます。結果的にカドケシは爆発的なヒット商品となり、文房具界を席捲しました。

そう。あるあるの真髄である今まで気にも留めなかったバグの言語化は、それまで無意識に不便とされていたニーズを見つける強力な武器になるのです。

このように、あるあるはお笑いの範疇にとどまらず、社会を変えるきっかけにもなると考えます。

センスの鋭いお笑い芸人さんが全く別業種のビジネス(執筆やYouTube、アパレルや飲食経営)に着手しても大きな成功を収めるのは、「あるあるに対する嗅覚が優れているから」ではないかを私は思います。

私も日常の中でネタにできるようなあるあるを探しつつ、まだ誰も言語化していないバグを見つけて社会を変える一員にいつか成りたいですね。


最後に、noteあるある、一個だけあります。

noteあるある、早く言いたい。























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