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1.ずっと気になっていた一人の遺影

2015年夏。先の大戦から70年の節目の年だ。
数々の追悼イベントが開催されていた。

私は大学2年生だった。
毎年帰省する祖父母宅には、いつも気になる一人の遺影があった。
若い。
おそらく20代だろうか。
キリッとした顔立ち。
何かスポーツでもやっていたのかもしれない。
そして何せ私の顔によく似ている。
親戚たちはその人を「しずおのおじさん」と呼んでいた。母方の祖父の兄である。私からみると大叔父だ。

高知県土佐清水市。
太平洋に突き出した足摺岬の付け根にある小さな漁師町だ。私の先祖も漁師をやっていたらしい。
あれは幼稚園の頃だっただろうか。一度祖父の乗る船に乗せてもらったのだが、船酔いがひどく釣りどころではなかった。本当に漁師の家系の子どもなのか?と冗談を言われたことをよく覚えている。

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祖父は終戦の年に中学生くらいだったと聞く。兵隊になるため一生懸命勉強していたようで、あと1年戦争が長引いていたら兵士として戦っていたかもしれないと言った。土佐清水市では毎年夏に大規模な花火大会があるのだが、祖父は花火の大きな音を聞くたびに、空襲の音はもっとすごかったとつぶやいた。

祖父は野球少年だった。高知県西部では最初にカーブを投げたピッチャーだったと以前自慢げに話していたことがある。名門中村高校野球部にも所属しており、2017年に母校が40年ぶりに甲子園に出場した時は大喜びだった。

中学生くらいの頃、小笠原さんという軍人に可愛がられ、1人だとつまらないからと見回りによく連れて行かれたという。ある時、「おじちゃん、ええカメラ持っとるな~」と言ったところ、「いかんいかん。これは写真機って言うんや」と敵性言語を使わないよう指導されたという。「将来何になるんや」と聞かれる度に、祖父は意気揚々と「海軍大将になるんや!」と答え、ほめられていたという。
ある日、竹槍訓練の指導者だった中岡武吉さんが、その日を忘れて畑に行ってしまったそうだ。すると、会場だった学校の校長先生から小笠原さんに通報があり、そのことをメモ書きしていた。学校が国家の手先となって集落のスパイとなっていたのだ。そうして、小笠原さんが特高警察だったことはだんたんと知ったという。

そんな祖父には、靜雄という名の少し年の離れた兄がいた。
めっぽう相撲が強く、自慢の兄だったそうだ。
海軍に自ら望んで入隊し、巡洋艦「妙高」の機関兵として世界の海で戦った。そして戦死した。21歳だった。
祖父はよく、私の顔を見ながら「兄貴に似ている」といった。

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夏休みが近づき、中国語を第2外国語で専攻していた私は、せっかくだから中国に留学してみたいと思っていた。
だが、自腹で留学に行けるほど裕福な生活ではない。
そこで大学の奨学金を利用することにした。その名も「やる気応援奨学金」だ。留学に対する「やる気」のみが選考基準という大変特徴的な制度が在学していた中央大学にあった。

だが、留学の目的がなかなか思いつかない。エントリー締め切りが近づくなか、応募用紙を埋められないままでいた。
そんなある日、中国人留学生の友人とランチをした帰り道だった。

後楽園キャンパスから駅へと向かう途中に、「東京都戦没者霊園」と書かれた看板を見つけた。午後の予定がなかった私は、霊園を散策することにした。そこには小さな資料室があった。

中に入るとたくさんの戦没者の方の遺品があった。遺書や日章旗、勲章など。そういえば、祖父の兄も戦死したんだったよな。その時あることを思い出した。以前、祖父が言っていたことだ。「兄貴の最初の戦場は中国だった」と。

すぐさま祖父に電話した。靜雄のおじさんは、中国のどこに行っていたのかを聞くためだった。答えは「海南島」。中国最南端の島だった。

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