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新社会人へ。世界は〇〇でできている。

社会人になると、20代から60代、ともするとそれ以上の人たちとも同じチームで働くことになる。
仕事で関わる人だってさまざまだ。

とにかく、いろんな価値観を持つ人と、時間や行動を共にすることになる。

しかも、一緒にいればいいだけじゃない。
役割を果たしたり、価値を作り出すことが求められる。

とにかく学生時代までの同質性の高い環境とは大きく変わる。

そして、ジェットコースターのようにいろんなことが起こるだろう。

新社会人を脅したいわけじゃない。
むしろ、そんなジェットコースターの日々をどう楽しんだらいいか、あるいは、どう安心して過ごしたらいいかというヒントを伝えたいと思う。

それは、世の中はキミの意味付けでできているということだ。

「意味付け」とは、それがなんであるのかという理解や定義のこと。

たとえばキミの前に「黄色の棒状で少し曲がった太い物体」があるとする。

ある人がそれを見たら「バナナ」と理解する。
でも、「バナナ」を知らない人にとっては、それは「黄色の棒状で少し曲がった太い物体」としか見ないだろう。
それどころか、風景に溶け込んでしまって、それがあることすら認知しないかもしれない。

つまり、「意味付け」をすることによって、初めてそれがそのように「存在」することになる。

あるいは、誰かが突然キミの顔を見て目を反らしたとする。

キミは、何にも気にしないかもしれないし、「自分が何か悪いことしたかな?」と思うかもしれないし、「自分は嫌われているのかな?」と思うかもしれないし、「感じ悪いな」と思うかもしれないし、「この人、体調悪いのかな?」と思うかもしれない。

人には誰しも思考のクセがあって、同じことが起きても、ポジティブに捉えたり、ネガティブに捉えたり、気にしなかったりと、さまざまだ。

つまり、相手が目を反らしたという行為は同じなのに、その「意味付け」はさまざまで、それがキミにとっての「事実」であり、キミにとっての「世界」になるということだ。

しかも、多くの人は、自分の思考のクセには気づいていない。
だから、周りも自分と同じ見方をしていると思うし、同じ世界を生きていると思ってしまう。
だから、突然目をそらされて「感じ悪いな」と思ったキミは、同じ場面で「この人、体調大丈夫かな」と心配する人がいるなんてことに気づかない。

そう考えると、キミの世界は、すべてキミなりの「意味付け」の集合体ということだ。

何か出来事が起こったとき(いまのウクライナ紛争についても)、人によって意味付けが違う。
意味付けが違うと、そのあとの思考も行動も違う。

つまり、どう意味づけるかが大事なわけだけれど、「意味付け」のハンドルを握っているのは、ほかでもないキミ自身だ。

社会人になると、いろんな出来事に遭遇する。
その出来事をキミ自身がどう「意味付け」するか。

上司や先輩から注意されることもあるだろう(というか、間違いなく注意される)。
そんなとき、「自分を否定された」と思うかもしれない。
でもそれは、キミの思考のクセによる「意味付け」だ。
ほかの人は、別の「意味付け」をするかもしれない。

うまくいかないこともあるだろう。
そんなとき、「自分はこの仕事に向いてない」と思うかもしれない。
でもそれは、キミの思考のクセによる「意味付け」だ。

自分が感じた世界が、世界のすべてだと感じてしまう。
しかし、キミとは違う「意味付け」が存在し、
「意味付け」の違う別の世界が必ずある。

社会人になって落ち込んだ時、
別の「意味付け」はないだろうか。
別の「意味付け」はできないだろうか。
とぜひ問いかけてみてほしい。

世の中はキミの「意味付け」でできている。

「意味付け」のハンドルを人に渡さず、自分自身で握り続けてほしい。

こんなことを、新卒内定者に伝えたという話でした。

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