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Door7: 森に溶けてゆくもの~ベンメリア(カンボジア)

初夏のカンボジアは、日差しが透き通り、そこらじゅうにあるこんもりとした緑や、水辺をきらめかせていて、どこもかしこも瑞々しかった。
森の合い間には、小さな集落が現われ、色とりどりの睡蓮の咲く沼、そのそばには高床式の簡素な家がいくつか並び、木陰のハンモックで昼寝をする人や、すっぽんぽんで水を浴びる子ども達、牛を連れたお年寄りなどが立ち現われては、消えて行く。

原始的とも言えるくらいの、シンプルな光景。
無意識に、自然に寄り添った、人々の営みの様子。
思いだすだけでも、どうしてこんなに気持ちがなごむのだろうと思う。

カンボジアといえば、行ってみるまでは、地雷、国民の大量虐殺からまだ年月の浅い国、乏しい知識から、深い影差す国をイメージしていた。
それは真実には違いなく、アンコールワットのガイドさんも、カンボジアには今も犯罪、特に性犯罪や人身売買の問題が蔓延していると話をしていた。

それを脇において、カンボジアの村の風景を眺めて心惹かれるのは、観光客の甘い視点だからと言われても仕方ないだろう。
だからといって、私の感じたみずみずしい美しさや、のどかさが、カンボジアのうわべということではなくて、それが本質ではないのかとも思う。

わたしにとっては、思い返しても心惹かれる風景に、何の価値も見出さない人たちがいるということ。
豊かな緑に地雷を埋め、そこで穏やかに暮らす人々を殺したり傷つけることを、なんとも思わない人たちがいるということ。
そのことを考えると、さすがに、絶望的な気持ちになってしまう。

それは世界中のあちこちで思ったことだ。
対抗するには、わたしは本当に無知で無力だとも感じた。
けれど、その土地の闇の部分を知ることだけではなく、本来の美しさや良さを感じ、伝えることにも意味がない訳ではないと、今は思う。

でこぼこ道を走り続けて、辿りついたベンメリアの入り口となる村。
数年前まで地雷の撤去作業が行われていたため、まだ、観光地化されてから日が浅く、観光客もほとんど見かけず、のどかな印象だった。
睡蓮の沼を眺めながら森を進む。

木陰では牛が歩いていたり、黄色い蝶が飛び交っていたり、子どもが佇んでいたり、童話の挿絵のような風景が続く。
その奥で、目の前に現れたのは、ばらばらに崩壊した古代の石造りの寺院だった。

遺跡全体が、ガジュマルなど、熱帯樹の密林に覆われ、森に飲み込まれているといった風情。
意思があるかのようにぐねぐねと伸長した木の根が、石壁に絡みつき、じわじわと浸食を進めている。

絡みついた熱帯樹の倒木により、崩れた石はひんやりと苔むしたまま、うず高く積み重なっている。
地上は歩くこともできない状態であるため、遺跡を見学するには、回廊の屋根に上り、縁をつたってゆっくりと歩くしかない。
回廊を覗き込むと、真っ暗な中、崩壊した屋根の隙間から光が射していた。

数百年も昔に、人間が作った壮大な寺院。
それが今、森の中に溶けていく姿を見ると、空しさや切なさではなく安心感のようなものを感じた。

人間に計ることのできる時間よりも、もっと大きな時間の流れに包まれているような、その場所に残るいろんな人の思いや歴史も、すべて森が葬ってくれようとしているような、そんな場所のように感じられた。
今後ベンメリアも他の遺跡と同じように、修復が進められるのかなと思う。
人の手で甦るものもあれば、その陰に消えてしまうものもあるのだろう。

崩れた石や柱にまたがったり、回廊を走り回って遊んでいた子供たち。
お金をちょうだいと後を着いてきた子供たちに、してあげられることは少ない。
それでも、頭やほっぺたをぐりぐり撫でたり、ハグすると、照れて笑い出すし、手持ちの折り紙で折り方を教えてあげると、お金をねだることは忘れ、すっかり夢中になって覚えていた。

いまだ葬り切れない、生々しい痛みがそこらじゅうに残る国。
それでも、カンボジアと聞くと、わたしの頭に浮かぶのは、神秘的なほどみずみずしい森と、その中にすべてを委ねたように朽ち果てていく、美しい遺跡。
そしてあっさりとして明るい人々の面影ばかりだ。


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