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「ポメラ日記26日目(街を移動しながら読み、書く生活)」

移動しながら読む、書く機会が増えた



 以前よりも外でものを読んだり、書いたりする機会が増えてきた。というのも、週末は友人宅で過ごすようになったからだ。それまで僕はふらふらと単独行動をするタイプだったんだけど、平日は実家で在宅のライティング、週に一回はライターの事業所まで出かけていき、週末は泊まりがけで友人宅に行く、みたいなスケジュールが自然と固まってきた。街から街への移動を毎週繰り返しているので、平日と週末でプチ二拠点生活みたいになりはじめている。

 移動するときは電車に乗るので、車内で過ごす時間は暇だ。暇と機会がなければ本は読めないと相場は決まっているので、僕はそういうときのためにショルダーのすぐ取り出せる位置に一冊だけ読みたい本を入れておくことにしている。

 普段住んでいる生活圏の外に行くと、あまり行ったことのなかった喫茶店やらイートインのある場所を見つけることもあって、そういうときに本を読んだり、ポメラで文章を書き留めておけることに気が付いた。

 僕の場合だと、何かの用事をするために「街A」に行くとして、その用事が済んだあとの時間で「街A」の周辺をちょっとぶらついてみるということをあえてやるようにした。この用事のついで、ぐらいに散歩する感覚が僕にはちょうどいいらしい。

 たとえば、僕は月に一回は薬を貰いに病院に行ったりするんだけど、その通院の帰り道にイートインのあるパン屋さんがあって、腹ごしらえをしながら、読書をしたりする。通っているライターの事業所周辺には、気兼ねなく通えるコーヒーチェーン店があって、お昼休憩や仕事終わりに立ち寄ってポメラで文章を作ったり。週末は友人と一緒に本屋や図書館を回ったりして、そこで新しい本を見つけたりしている。

 小説だけは未だに外で書いたことはなくて、これはもう家の机だけでやると決めている。これは僕の個人的なこだわりというか、ひとりぽっちで明かりを落とした部屋のなかにいる、そういうところでしか僕は文章を書けないような気がするから。

『若い小説家に宛てた手紙』に出てくる「カトブレパス」



 以前、ブログで第一章を紹介した「若い小説家に宛てた手紙」。これの第二章の「カトブレパス」の箇所をブログにまとめたいと思って、第二章ばっかり繰り返し読んでいる。ショルダーバッグにはこの単行本とポメラをいつも入れて出かけることにしている。



「カトブレパス」って何ぞや、って思うひとのために簡単に説明しておくと「カトブレパス」は、自らを食べ尽くそうとする架空の幻獣らしく、フローベールの小説に出てくる神話の生きものらしい。

 マリオ・バルガス=リョサは、この「カトブレパス」は作家と似ているところがある、と話していて、何が似ているかと言えば、作家は自らの人生で経験したことやエピソードをくまなく探し回って、それを糧に小説を作るからだと話している。自分の経験をネタにして書くところが、「カトブレパス」と二重写しになるわけですね。 

 バルガス=リョサは作家自身が経験したことが、創作のタネになっていると考えているらしく、ただそのタネは文章となるまでの過程で、もう元の形(作家の原体験そのもの)が分からなくなってしまうほどうまく仕立てられているために、ほとんど別の世界を丸々ひとつ立ち上げたように見える、という主旨のことを話します。

 これはストリップショーを逆からやるようなものだとバルガス=リョサはたとえていて、衣服も何もない裸の状態(作家にとっての原体験)から、想像によって色んな衣装を着せて飾り立てていき、最後はもう元の部分がどこにあるか分からない状態にまで仕立ててしまう。作家がやっているのはこういうことだと、ちょっと種明かしをしています。純粋なオリジナルの創造をやっているわけじゃなくって、そういう風に「見える」ように仕立てるのが作家の腕の見せ所だと。お客さんの前でクロースアップ・マジックをやるようなものかもしれませんね。手元のトランプ捌きで、観客にとっては何が起こっているのか分からない、まるで何もないところから薔薇や生きた鳩がぽんと出てくるのを見ているみたいな。

 作品のテーマについても面白いアフォリズムのような言葉を残していて、

テーマというのは小説家が選び取るものではなく、テーマが小説家を選ぶのです。

『若い小説家に宛てた手紙』マリオ・バルガス=リョサ著 木村榮一訳 
新潮社 2000刊 p.22より引用 


 という興味深いことを喋っていて、これは体験を元に作品が作られるというバルガス=リョサの小説観とも繋がっていることなのだけど、ちょっと紙幅と時間が尽きてしまったので、本家ブログの『kazumawords.com』で取り上げることにします。

最近のもの書き近況、気になっている読書タイトルなど



 ちびちび小説は書き継いでいるけれど、とても昔の文学者たちが見つけたようなその作家独自の語り方というのは、とても一生掛かっても身につかないんじゃないかと思えてしまう。

 学生の頃は小説なんてすぐに書けると思い上がっていたけれど、やればやるほど、まだ誰もやったことのない新しい言い方を見つけることなんて不可能なんじゃないかって思ったりする。
 
 完全に新しい言い方を見つけることはできなくても、せめて文章が僕独自の言い方やトーンにならないかと試したり、物語の筋に頼らない面白さ、ワンシーンだけでもここは気持ちのよい言い方だと思ってもらえるような、そういう短編を目指して書いている。

 僕なりの創作の理論を打ち立てた上で、書くということをやりたいと思っている。感覚だけで書いていてはどうにもならなかった。

「若い小説家に宛てた手紙」を読みながら思ったのは、僕はもっと創作の理論について書いたものを読んだ方がいいんじゃないかなと。

 それで自分のものが書けるようになるわけじゃないと思うんだけど、作家がどう考えて作品を作っているのかというプロセスは一通り見ておきたいと思った。それでいま「ナボコフの文学講義」が気になっている。

 あと僕は学生の頃に日本の近代文学をすっ飛ばして、海外の翻訳文学に手を出したっきり帰ってこなくなってしまったので、もう一度日本文学をちゃんと通っておいた方がいいなと感じた。

 文庫本ポーチのガチャガチャで当てた夏目漱石編の抜粋文が良かったので、角川文庫の古典シリーズからやり直そうと思っている。趣味と実益を兼ねて(ガチャガチャの楽しみもある)、 角川の日本近代文学シリーズで読解記事をブログにまとめていったりしたい。

 いま読み進めたいと思っているのは、日本近代文学の枠で夏目漱石の「門」、現代海外文学の枠で呉明益の「歩道橋の魔術師」、創作論の本で「若い小説家に宛てた手紙」、その次が「ナボコフの文学講義」かな。

 今日はこれで。

 2022/12/13 22:16

 kazuma  

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