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はじめまして。かずまさです。
キッカケ
noteで記事を書いて見ようと思い、募集中のカテゴリ一覧に「自己紹介」があったので、初めて書くにはちょうど良いと思い、自己紹介~生立ち篇~を書かせていただくことにしました。
出身は東京都下
私は東京都稲城市という東京都でも23区外に位置する、都下(「とか」と読みます)多摩地域で生まれ育ちました。
東京といっても誰もが想像する大都会東京ではなく、多摩川がほど近く、梨の有名な街で、それ以外は、、、何もない街ですね。あ、よみうりランドという遊園地が有名。
幼少期の私
多摩地域ののどかな街で生まれ育った私の幼少期は、内弁慶で静かな性格。あと、病気がちで幼稚園や小学校時代はしょっちゅう休んでいました。大学以降に知り合った人からはとても信じてもらえないけど、もともと、自分の意見も言えず、グループにいても影の薄い存在で、居ても居なくても分からない、そんなタイプの子供でした。
自分が人前に出ることに感動を覚える
小学6年生の時、学年全体で行う合奏で大太鼓のパートをゲット!これを選んだ理由は単に「叩くだけの簡単なパートだから。」
このパートをゲットした結果、学年で私一人!!他のクラスでの練習にも駆り出され、なんか、人気者になった気分になりました。
今思えば、ただの自己満足なんだけど、目立たない性格の私にとってはとても大きな一歩を踏み出したような気がします。踏み出したというと自ら挑戦した感が強いけど、結果論なので踏み出したわけでは無いですね。(汗
パッとしない中学時代
中学の楽しみといえば部活動!
私の通っていた中学では吹奏楽部が比較的有名で都大会に出た実績もあり、私としては大太鼓で感動した経験もあったことから吹奏楽部に入ろうとしましたが、父親に「男のくせに何が音楽だ!!」と怒鳴られて、吹奏楽部をあきらめさせられて、次にクラス担任が顧問をするバスケ部に入ろうとしたら「塾に通っている奴は入部禁止」と言われ、結局、小学校来の友人が入ると言っていたサッカー部に入ることに。
弟は幼稚園からサッカーをしていたが、私は体が悪かったことを理由に小学校6年間は剣道をさせられていたので、ボールスポーツには縁がない。でも、他に行くあてもなくサッカー部に入る。
中1のころは、姉が2コ上の中3だったこともあり、いい先輩から悪い先輩まで、皆にかわいがってもらった。(汗
中2になって、なぜか(いまだに本当に理由が分からない)、生徒会に推薦されてしまい、「書記の匂いのする男」というキャッチコピーで出馬。当然落ちると思っていたが、先輩に人気のあるかっこいい同期がダントツ1位通過しながらの2位当選。パチパチパチ。
朝礼のあいさつを生徒会役員が順番にやるのが嫌だったなぁ。。。
当時はおニャン子クラブ全盛期で、唯一、生徒会室にはおニャン子クラブのポスターを貼っていいという意味不明のルールが出来上がり、生徒会室はおニャン子クラブのポスターだらけ。
でも、私はおニャン子クラブが嫌いだった。。。嫌いというと極端だけど、好きな子がいなかった。今でいう「推しメン」ね。
私が好きだったのは、キョンキョン(小泉今日子)とナンノ(南野陽子)です。
人生初のモテキ!???
生徒会役員なんてものは、誰がやってもある程度人気が出るらしい。
私が生徒会に書記として入ったら、見ず知らずの同級生やら後輩ちゃんやらが友人をメッセンジャーに使って、ことあるごとに体育館裏にご招待していただきました。
でもねえ。。。
女性に対して「好き」という感情こそ芽生えていたものの、告白されたらどうしたらいいの?
「付き合う」という言葉すら知らなかった私は、「ありがとう、でも好きな人がいるのでごめんなさい。」とだけ言って、お断りしていました。
気になる子がいたときも、どうしたらいいのか分かっていなかったんです。ごめんなさい。
はい。本当にうぶうぶなおバカちゃんでした。
あ、そういえば、同様のことが小学校時代も数回あったかも。
高校選びは親任せ?
そうえいば、今になって思うのはあまり勉強をした記憶がないということ。
母親はいつも「勉強しなさい!!」とガミガミうるさくて、机に向かっていたところまでは記憶しているけど、もっぱら机の整理整頓。背の高さ順で教科書やノートを並べたり、50音順で並べたり、右から左から、、、と、いろんなルールで机中の整理をしょっちゅうしてた。(笑
なので、勉強って、、、まともにやっていない。
そしてそのせいか、整理整頓が得意になった。(笑
勉強しなかったといっても、超スパルタな英語塾「渡辺英語研究所」っていうとこに通っていたので、英語は必然的に偏差値65以上をキープし、公式さえ覚えればいい数学も結構好きだったので、3科目の成績は比較的良かったです。国語が多少悪くても3科目平均偏差値で65を割ることはまずなかった。
他方、理科社会は大の苦手。記憶するものが多すぎるし、日本の話なのか世界の話なのか、生物なのか植物なのか宇宙の話なのか、、、無駄に記憶するものが多いって印象しかなく、偏差値で50を超えることの方が稀だった。
で、当然のように、高校入試は3科目のみの私立に。
んじゃあ、どこの私立に行こうかって話なんですが、サッカーを3年間やってきたから帝京高校の黄色いユニフォームにもややあこがれて提供に行きたいって言ったら、母親に「あそこは大学行っても医学部くらいでしょ有名なのは、他にしなさい。」といわれ、勧められたのは日大鶴ケ丘高校。大学までそのまま行けるから楽でしょ。というのが進めてきた理由。
でも、中学時代の紺ブレにボルドー色のネクタイを付けただけの変わり映えの無い制服。そして共学。なんか、中学の延長みたいでいやだなて思って、同じレベルの専修大学付属高校の男子高・学ランを選択!!受験も面倒なので他の高校を受けずに単願で名前だけ書ければ合格しますよって言われたで、
「んじゃあそれで。」
無駄にした高校3年間
高校時代3年間は、誰がどう見ても無駄に過ごした。
やりたいことは全くなく、ただただ、毎日帰宅してから地元の友達の家に行ってバイクいじりをして、いわゆる峠族というか走り屋みたいなことをして、でも、全然センス無くて速くなるわけでもなく、ただただバイクいじって乗ってを繰り返すだけの日々。あ、バンドにも興味をもって友達のバンドに参加させてもらったりもしてましたね。
学校でも親友と呼べるような仲の良い友人ができるわけでもなく、学校でマンガの回し読みをする程度の友人。友人と呼べるのか?たぶん、私のことを記憶している同級生は0じゃないかってくらい、溶け込んでいなかった。
授業は全科目ほぼ爆睡状態で、高2まで大学推薦の60点平均をギリギリキープするのがやっとだった。
人生の転機が訪れる
そんな高校生活を送っていた3年1学期の終業式の日。
ホームルームで担任の角田先生が
「北海道(専修大学北海道短期大学)に行くやつは、今日が締め切りだからノームルーム終わったら書類持って職員室に来るように。」
(ん?北海道?今日が締め切り???)
専修大学付属高等学校(杉並)は、定期テスト平均60点以上で全科目赤点なしをKEEPすることで4大(生田か神田)に進めることになっていて、成績順に人気の学部が選べるって仕組み。で、この点数が取れていない生徒は、北海道の短大か、宮城県石巻の4大理系に落ちこぼれる仕組み。あ、どうしようもないクラス最下位3~5名程度はどこの推薦ももらえないって感じです。(注意:30年以上前、1987~90年ごろの話なので今のことは知りません。)
ギリギリ4大に進めそうだった私は、担任から北海道や石巻の話を受けていなくって、その時初めて地方の存在を知ったのです。
(これはチャンスだ!)
当時、というか中3のはじめくらいから父との関係が悪く、3年間近く一言も会話をしていなかった私は、4大に進学すると実家からの通学が確定してしまうので、地方に行けば親と離れられるとその場で判断し、ホームルーム終了と同時にそのまま担任と一緒に職員室に向かい、
「さっきの話、今日中に親を説得するので北海道に行かせてください。」
と担任に直談判。担任は、当然4大に行くと思っていた私が突然言い出したことに仰天していたが、1日猶予してくれることになった。
3年振りの父との会話
母親をどう説得したか全く覚えていない。説得できていないまま「お父さんに相談しなさい。」と言われながら、怒っていたか泣いていたかのどちらかだった気がする。そんな母のことなんかより、久々の父との会話。かつ、今日1回しかチャンスがない地方進学の説得。
私「お、お、お父さん、相談があります。」
父「何だ?」
私「自立した人間になりたいので、北海道の短大に行って一人暮らしを経験したいです。今日が締め切りだったんですが、担任に相談して1日猶予をもらいました。行かせてください。」
父「分かった。行って来い。」
私「・・・・・・・?」
久々に話しかけたのに、しかも、超無茶ぶりな相談したのに即OK!!!その後、ちゃんと4大に編入して戻ってきて、最終学歴が短大にならないことを条件として付けられたけど、絶対に反対されて怒鳴られて殴られて蹴られるんじゃないかと思っていた私は超拍子抜け。
でも、勝ち取った。
そして、何もかも中途半端に生きてきた私が、大学生になる。
また時間が出来たら自己紹介~大学生篇、社会人篇~を書きます。
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