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知の立体地図としての本屋――ちくさ正文館のこと

故郷の馴染み深い本屋が、この夏、店を畳む。

名古屋の「ちくさ正文館」。高校時代から通い始め、郷里を離れてからは帰省するたびに、必ず立ち寄っていた。

1961年創業の老舗書店。閉店の理由は、店舗の老朽化と売上の減少が理由だという。

人文・文芸・芸術などの選書が素晴らしかった。向かって右手の入り口から店に入ると、左側が詩や短歌、近現代文学などの文芸棚、右側が哲学、思想、言語学などの人文棚。壁際には歴史書などが並び、奥には映画や演劇、音楽などの本が置かれていた(*1)。その棚を一目、見ようと、本好きや書店員、出版関係者が県外からもよく駆けつけてきたといわれる。

「文芸棚の平台の中央に分厚い『田村隆一詩集』1、5、6巻が。歴史棚には函入りの古い研究書も見える。フランクル『夜と霧』が旧版の霧山徳爾訳と、新版の池田香代子訳が棚に並んでいた」

これは10年ほど前に店を訪ねたときの備忘録だ。新刊書店でありながら、古い本も大切に扱われていた。そんな棚を眺めていると、時間を忘れてしまうことも、しばしばだった。

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ちくさ正文館の棚は、過去から現在までの本の系譜を押さえた棚になっているという(石橋毅史『「本屋」は死なない』新潮社)。

「ひとつのジャンルにおけるポイントとなる本、過去の叡智を集結して登場し、そのジャンルの新たな柱となった重要な本があり、その柱となる本からたどったときに今はどの本がよいのかまでを見えるようにする、棚はそうやって作るのだ、と古田は話していた」

「古田」とは、ちくさ正文館店長の古田一晴さんである。長年、店を切り盛りし、アルバイト時代を含めると、約50年、この店に勤めてきた。

「系譜ってものをわかってもらいたいから、ちょっと年季の入った状態の本なんか、わざと潜り込ませとくの」と古田さんはいう。

また、「棚を見てにやりとしてるお客様がいましたが、品揃えに秘密が?」と聞かれて、こうも応えている(古田一晴『名古屋とちくさ正文館』論創社)(*2)。

「お客様と棚のどこか一カ所でも方向性が合致すれば、印象づけになります。それだけに、僕は品揃えや、この本の横にこれを……といった並べ方など、どの棚も印象づけできるように仕掛けをしています。それが毎日の仕事です。店頭の日常こそが、ライブみたいなものですよ。かと言って、突出した棚づくりとは違います。平均点をいつも保つようにと思っています」

こうした古田さんの話を読むと、いったん店に行けば、1時間はおろか、2時間も3時間も棚を眺め続けた理由も、欲しい本が何冊も見つかって、まとめ買いをした理由も、よくわかる。

そこは、まぎれもなく、「知の立体地図」だった(*3)。

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この店を教えてくれたのは、高校の同級生・M君だったと思う。M君は、かなり早熟な人だった。

私が大学は教員養成学部に進むことになったと知ると、「なら、これは読んでおけ」と、ある本を手渡してくれたこともあった。その一冊とは、大田堯『教育とは何かを問いつづけて』(岩波新書)。教育学者である大田さんが、自身の経験を織り交ぜながら、戦前・戦後の教育史を綴ったものである。

当時の私は、政治・社会オンチも甚だしかった。「日教組って、右翼なんでしょ?」と言っていたほどに。M君はそんな私を見かねて、本をプレゼントしようと思ったのだろう。ちくさ正文館を教えてくれたのも、その一つだった気がする。

以来、およそ40年。この店で出会った本は数知れない。

最近でも、山尾三省『新版 狭い道』(野草社)、櫻井田絵子『月のような山』(港の人)、藤原辰史『歴史の屑拾い』(講談社)、庄野雄治『融合しないブレンド』(mille books)……etc。

店内にはBGMは流れておらず、「そこに良い本が並んでいる」というシンプルで、落ち着いた雰囲気が好きだった。本が、ど真ん中にあった。その棚に、自著を置いてもらったときの感激も忘れられない。

ちくさ正文館は7月いっぱいで閉店する。
とても残念だけど、今はただ感謝しかない。

*1…『定本 本屋図鑑』(本屋図鑑編集部編、得地直美・絵、夏葉社、2022年)に、ちくさ正文館の棚が精緻なイラストと、簡にして要を得た文で綴られている。この部分の記述は、同書が助けになった。

*2…『名古屋とちくさ正文館』には、古田さんの歩みと、ちくさ正文館の軌跡、そして、その背景となる名古屋の文化運動の歴史が語られている。名古屋のミニシアター、芝居小屋、詩の同人誌など、古田さんはそうしたムーブメントとつながりながら、店を牽引してきた。

*3…「大波小波」(東京新聞2023年7月14日付夕刊)。「『ちくさ詣で』の書店が終幕」と題したコラムで、ちくさ正文館を「書店空間が丸ごと知の立体地図だった」と評している。

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