家庭を「育む」ということ。
結婚して1年が経った。
小さなことで、妻とぶつかることが多くなった。
そもそもだが、おそらく私は結婚ができるタイプではない。自己中だからだ。自分勝手な行動は多岐にわたる。明るい家庭作りたいからこうする。楽しくしたいからこうしている。そんな大義名分を掲げて一人でキャッキャとふざけて、周りの人間を困らせる。まるでピエロのように。そのくせ、自分が集中したいときは、同じ部屋に人間の気配がするだけでストレスを感じる。とにかく全てが自分中心に回っているのだ。
そんな私が結婚できたのは、本当に奇跡だと思う。友人や同僚からも、「あの小木曽が結婚するなんて!!」と何度も驚かれた。
そんな私と結婚してくれた妻には感謝しかない。器が大きすぎる。両国の力士もびっくりなサイズの、特大器を持ち合わせているんじゃないかと。もしかしたら、妻は仏なのかもしれない。ありがたや、ありがたや。以下、妻のことは仏と呼ばせてもらう。
仏との出会いは会社の勉強会だった。それまでほとんど面識はなかったが、少し話すうちに意気投合し、交際し、今に至る。ホップ・ステップ・ジャンプとは、私たちの出会いから結婚までのリズムのことである。
こう書くと勢いに見えるかもしれないが、私はだいぶ慎重派だ。石橋を叩いて渡るどころか、できるだけ渡らない手段を考えるタイプである。
これだけ良いテンポでこられたのも、将来結婚したい相手の特徴をノートにまとめていたからだった。つまり潜在意識の中では、いつか現れるその誰かとすでに出会っていたのだ。だから、その条件とだいたい合致していた仏とは、実質以前から出会っていたも同然なのだと思う。だから全力でアクセルを踏むことができた。この石橋は、世界一の一級建築士が安全性を最優先に作ったものだと理解できたからだ。
パートナーへの条件として、特に強く望んでいたのは、自分自身のペースや生活が崩されないことである。仏とは価値観も趣味も近いので、お互いの時間も行動も、考えも尊重できている。また、外を走りながらその日読んだ本をアウトプットしたり、仕事の近況報告をしたりもしていて、お互いの活動が、お互いに良い影響を与えるような関係性も築けている。あと、一応誤解のないように補足しておくと、家事もちゃんと協力してやっている。
ペースや生活を崩されないと言っても、結婚や子育てという次のフェーズに入れば、完璧に維持できないことはわかっていた。だからこそお互いのことを尊重できる相手を探していて、たまたま出会ったのが今の妻、もとい仏なのだ。
そんな仏とすら、最近はぶつかってしまう。きっかけは些細なことである。仏が集中(以下、悟り)モードでゴミの交換をしている時に超ハイテンションで声をかけたり、私の自分勝手な振る舞いの度がすぎると、さすがの仏の逆鱗にも触れる。1度や2度はいいのだが、3度目は通用しない。ひょっとすると、仏の顔も3度までというのはうちの妻から生まれたことわざなのかもしれない。それはちがうか。
一方で仏もアップダウンが激しいので、私もフラストレーションが貯まる。今まで楽しく話していたのに急に悟りモードに入って、声をかけるだけで少し不機嫌になる仏。そんな悟りの境地でも、ひょうきんな私は果敢に攻めるのだが、火に油を注ぐように仏の機嫌が悪くなる。その仏に対して、私も機嫌が悪くなる。私も仏も漢字の通り「ム」の口になる。
そうやって仏との泥試合が始まるのだが、翌日くらいまで粘って謝り続ければ、仏なので許してくれる。ありがたい。やっぱり仏は仏なのだ。お供え物には、いつもシュークリームやショートケーキを献上している。
ところで、私と仏との泥試合の中で、よく思い出す言葉がある。
それは、「育む」という言葉だ。
実はこの言葉は、我が家の合言葉なのだ。付き合い始めたころにとある記事を読み、妻にも共有したところ、私たちも育むような家庭にしていきたいねと意気投合し、それから合言葉となった。
「育む」にはいくつか意味がある。例えばgoo辞書によると以下のように書かれている。
1 親鳥がひなを羽で包んで育てる。「ひなを―・む」
2 養い育てる。「大自然に―・まれる」
3 大事に守って発展させる。「二人の愛を―・む」
ご存知の通り、何かを大切に育てることを「育む」と表現することがある。
この言葉の意味を見て、改めて思った。我々夫婦はまだ「ひな」なのだ。だからお互い、ピヨピヨやかましく言っているのだと思う。個体としては30年以上も生きているけど、まだまだ夫婦になったばかり。1歳半にも満たない雛のような家庭なのである。そしてそれを、お互いが自覚しているから、自然と「育む」が合言葉になったのだと思う。
そう考えるとだいぶ気が楽になる。人間だったら、1歳児ができることなんてたかが知れている。だったら多少の衝突は仕方がないじゃないか。そう思うようになった。よちよち歩きができれば良い年頃だもの、高度なコミュニケーションや阿吽の呼吸が、1歳児にできるわけがない。仮にそんなことができたら、お利口を通り越してまさに神童である。いや、妻は仏だからある意味神なのかもしれないけど、私は人間だから、せいぜい神と人間のハーフ&ハーフがいいところ。半端者には無理な話である。
なんだ、自分が個人として辿ってきた人生と同じサイクル繰り返しているのか。昔も色々あったけど、それすら今となっては思い出なのだから、楽しみながら生きていけば、それで良いではないか。歴史は繰り返すのならば、繰り返し楽しんでいこう。公園の砂場で遊んでいた頃の、鼻水垂らしていた頃の、あの脳みそすっからかんな童心を取り戻そう。ぱっぱらぱ〜。
ただ、頭ではわかっても気持ちまではついていかない。だから多分、これからもぶつかり続ける。でも、しっかりと強く家庭を「育む」には適度な負荷が必要だから、小さな衝突すらも栄養なのだ。「育」という漢字にも「ム」に字が含まれているのは、そのプロセスで「ム」の口になることは必然だからかもしれない。しかも部首は肉月。そうやって肉のついた強い親鳥になって、また新しい雛を育てていくのが、私達の使命なのだと思わされる。
冗談混じりに書いてきたが、正直この「育む」という言葉には助けられている。できないことを許される感じがするから。完璧な人間なんていないのだから、お互いの失敗を「育む」プロセスだと捉えるだけで、ほんのわずかかもしれないけど、相手への理解も生まれやすくなる。全夫婦に送りたいおすすめの合言葉なのだ。
これからこどもができて、家族も増えていくと思う。家庭は2人で育んでいくものなので、どちらがやるべきとか、固定観念のとらわれずに、自分たちらしく在ろうと思う。
仏へ。いつもありがとう。これからも全力でふざけていくからよろしく。あと新しい望遠レンズ、誕生日に自分で買うから認識だけ頼むわ。育む家庭を写真に納めるよ。まあ、本当は自分が欲しいだけなんだけど。
以上。
小木曽
Twitter→小木曽一馬
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