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『身体ごと、入り込んでいるときだけは。』

天井を見上げると、壊れたシーリングファンの代替えとして取り付けられた小さな電球が、申し訳程度に吊り下げられている。『いま直す準備を進めているから』と、釣りの話になると永遠に止まらない大家は言ったけど、もちろんそんなはずもなく、この部屋を出る最後の日まで僕を照らし続けたのは、小さな電球ひとつだった。

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アルゼンチンで迎える、3年目の春。

2018年2月、「フットボール」というたったひとつのものを追いかけて、地球の反対側に位置する国へ、ひとり移り住んだ。我ながら、結構ロックである。知っている人がいない、言葉がわからないところからスタートした日々は刺激に満ち溢れていて、何より、僕がまさに求めていた「フットボール」を“感じる”毎日は、何事にも代え難いものだった。SNSで絡んできた知らないアルゼンチン人を頼りに、名門リーベル・プレートのスタジアムへ試合を観に行ったときは、危険な目に遭っても自分のせいだと覚悟を決めたし(会ってみたらめちゃくちゃいい奴らだったけど)、異様な雰囲気を放つサポーターたちと同じ貸し切りバスに乗ってスタジアムへ出かけた時は、ここで何かあっても自分のせいだと覚悟を決めたし(道中警察の取り締まりにあい高速道路でバスの外に出され、腕をあげさせられながら、何人かのサポーターが全力で逃げる姿を目撃したり、実際、色々あった)、思えば覚悟ばかり決めていたけれど、アルゼンチンでの日々は文字通り「フットボール」に満ち溢れていた。

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ベットに横たわって、空虚な心で天井を見上げるのは、それから2年が経った頃だった。


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世界中で新型コロナウィルスが猛威を振るいはじめた2020年上旬、僕がいたアルゼンチンも例外なく、徐々に感染者数を増やしていった。アジア、ヨーロッパで流行していく過程を見ていた政府は、アルゼンチン国内での感染者数がまだ少数だった3月、早々に「ロックダウン」を決定した。「世界最長」と言われたアルゼンチンのロックダウンは、驚くなかれ、2020年いっぱい強固に継続されることになる。もちろん3月の時点では、そんな未来は想像すらできず、自分にとってアルゼンチン最後の年になる1年は、国内中を旅するんだとか、ブラジルへ行くんだとか、話せるようになったスペイン語と、たくさんできた知り合いたちとの時間を思う存分楽しむんだとか、そんなことを思っていたわけだけど、結果的には、そのどれも実現することができなかった。

朝起きて、天井を見つめて、テラスで深呼吸をして、寝る(寝れない)。そんな生活を、毎日ひとりで過ごしていた僕は、やっぱりフットボールのこと、この国に来た「意味」のことを考えずには、いられなかった。

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同じ頃、日本では『芸術やスポーツは本当に必要なのか?』と、誰かが囁き、それをきっかけに、芸術やスポーツに従事する人たちが自問を始めていた…と思う。

僕はインターネットを通してその様子を眺めていたけれど、フットボールを仕事にして生きていきたいと思っている自分にとっては、もとい、これまでのほとんど全てをフットボールのために費やしてきた自分にとっては、まったく無視のできないことだった。

芸術やスポーツが、好きだ。

それは紛れもない事実だけれど、果たして、それは「必要不可欠」なものなのだろうか。

僕らにとって、フットボールとは、「スポーツ」とは、一体何だったのだろうか。


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人生には、失って初めて気付くことがある…という言葉は使い古されているし、そんなことは分かっているつもりだったけど、僕はフットボールを失って、初めて気付いたことがたくさんある。こんなにも長い間フットボールに触れることができなかったのはもちろん初めてだったし、加えて僕は、その、まさにその「フットボール」を求めて地球の逆側まできていて、やっていることは、家の中で机に向かい、『スポーツは本当に必要か?』とかいう誰かと誰かの議論を、悶々と眺めているだけなのだ。思い出すだけで泣けてくるではないか。

でも、その毎日があったおかげで僕はいま、胸を張ってフットボールに関わることが出来ている。スポーツが、これまで僕にもたらしていたことの全てが、わかったからだと思う。

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photo: Kazuki Okamoto

ピッチに立っていると、日常で今まさに起きている、例えば人間関係の悩みとか、仕事の進み具合とか、あるいは将来のこととか、それらの気にかけて然るべき出来事のすべてが頭の中から排除されて、フットボールというゲームのことだけを考えることができる。勝つか負けるか、こんなにシンプルなことは、決して日常には落ちていない。僕らはフットボールに限らず、それをする者も、観る者も、皆が同じくしてゲームの世界に入り込むことができる。嬉しかったら喜び、悲しかったら落ち込み、ムカついたら怒ることが許されているのは、日常ではなく、ゲームの世界に「身体ごと」入り込んでいる時だけなのだ。

1週間の中の、たった1日。1日の中の、たった数時間。数時間の中の、たった「一瞬」。人はスポーツをすることで、観ることで、その「一瞬」に言葉では表現できない何かを見出す。僕らが本当に「生きている」と感じることができるのは、日常から離れ、その「一瞬」を味わうときで、人間は案外「一瞬」のためだけに、未来に向かって生きていくことができる。

スポーツはこれまで、人々に美しい「一瞬」をもたらしてきた。これからも、なにがあっても。

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たとえマスクをつけなくてはならなくても、たとえ気軽に人と会うことができなくても、たとえ1年中天井を見上げていても、それは「日常」である。これまでとは少し違うだけで、これはひとつの「日常」なのだと、僕はある意味極端な状況に置かれて気付くことができた。

スポーツは唯一「日常」から僕らを「身体ごと」引き離し、「生きている」ことを感じさせる。堂々と「生きている」と言うことができる。それがスポーツの他にはない、だけど本当に大切な、唯一無二の「意味」である。

だから僕は、この世にスポーツは必要不可欠なんだと、叫び続けてゆく。


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この文章は、パナソニックがnoteで開催する「 #スポーツがくれたもの 」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

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河内一馬

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1992年生まれ。鎌倉インターナショナルFC 監督兼CBO。南米サッカー連盟 プロサッカー監督ライセンス保持者。NPO法人 love.fútbol Japan 理事。月額マガジンを配信しています。