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サッカーにおける「文脈依存性」について——。いかにゲームをデザインするべきか?

既に存在するシナリオを、現場において他者を統率し、作品を作り上げていく映画監督とは異なり、サッカー監督というのは、机上における言語や図式的な構築(デザイン)から始まり、それを他者に学習させ(る方法論をまた構築し)、実際のトレーニングやゲームにおいて表出させるまでが、サッカー監督における「つくる」という仕事の内容になります。

ピッチ上において、どうやってトレーニングする?どうやって選手に振る舞う?どうやってコーチングする?など実装の部分は一旦置いておいて(実際は完全に仕事を分けることなどできないのですが…)、純粋に「ゲームをデザイン(机上における言語や図式的な構築)する」という点において、最近考えていることをまとめたいと思います。


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建築家であれば、図面を書いていく作業に近いと思います。つくる建物によって「素材」に制約があり、さらに「自然の法則」に逆らってデザインすることはできません。言わずもがな、サッカーにおいて「素材」とは「選手」であり、「自然の法則」とはサッカーという「ゲームの法則」となります。

なので、監督という仕事における「サッカーのゲームをデザインする(≒図面を書く)」という作業は「所属選手」に依存しますし、またサッカーという「ゲームの法則」を“自分なりに”理解しておく必要があります。これらを度外視してサッカーのことを考えていいのは、ジャーナリストやライター、あるいはブロガーなど、ピッチに立つ必要のない人たちです。「デザインする」という点で、監督と、その他全てのサッカーについて考える人々は明確に線引きをされなければなりません。さらに、同じ指導者でも「コーチ」とはあらゆる点で異なり、コーチは「実装」に関与しますが、役割を与えられていない限りは、基本的に「机上における言語や図式的な構築」という意味でのデザインは行いません。

つまり「ゲームのデザイン」こそが監督の監督たる所以である、と言うこともできます。


■レオナルド・ダ・ヴィンチはなぜ細部にこだわるか?

今回のテーマであり、タイトルにも入っている『サッカーにおける「文脈依存性」』の話に入る前に、少し私の考えを述べたいと思います。

サッカーにおける「ゲームのデザイン」とは、「選手に伝えること(領域)」が全てなのか?という問題についてです。

つまり、選手に伝えないような(見えないような)非常に細かい領域を監督がデザインすること(しておくこと)には意味があるのか?実際にサッカーをするのは選手であるのだから、その選手に伝えないような細かい領域をデザインしても意味ないのではないか?という問いがあります。

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『ジネヴラ・ベンチの肖像画』レオナルド・ダ・ヴィンチ

かのレオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画作品において、人々が全く気にしないような、目にも入らないような細かい描写にこだわりを持っていたそうです。芸術作品は他者によって鑑賞されて初めて作品となると言え、人々の目に入らないような細かい部分に時間をかけて何の意味があるか?と思うかもしれません。あるいは、プログラマーの世界には、コードを書く際に実際にはこだわっても意味がない(機能として問題にならない)コードにすら、美的なこだわりを持つ人がいるそうです。映画監督の撮影エピソードなどを聞いていても、実際には映像に映像にごく僅かしか映らないような、あるいは全く映らないようなセットや人の動きにもこだわりを持つ監督もいることがわかります。

これらは一体、何の意味があるのでしょうか?私は『ハッカーと画家』という本を読んでから、この問いについて何の疑いなく、細かく細かく細かくデザインをする(しておく)ようにしています。

偉大な絵画とは、到達すべきゴールのさらに上に到達していなければならない。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチがジネヴラ・ベンチの肖像画を描いた時、彼は人物の後ろに杜松の潅木を配置した。絵の中で彼は、松の葉を一枚一枚、注意深く描いた。他の多くの画家だったら、これは単に人物の背景を埋めるだけのものだと考えたかもしれない。誰もそんなにそれを注意深く見ることはしないだろうと。レオナルド・ダ・ヴィンチは違った。彼にとって、絵のある部分にどれだけ手間をかけるかは、誰かがそこを見るかどうかには関係なかったのだ。彼はマイケル・ジョーダンと同じだ。妥協しないんだ。
見えない部分も、組み合わさることにより見えるようになる。妥協しないことはこの点で重要だ。(中略)すべての見えない細部が組み合わさることにより、まるでほとんど聞こえないかぼそい声が幾千も合わさってひとつの旋律を歌っているかのように、ある種圧倒される何かが生まれる。
偉大なソフトウェアも、同じように、美に対する熱狂的な没頭を必要する。良いソフトウェアの中身を見てみれば、誰も見ないような箇所でさえ美しく創られていることが分かるだろう。

美に関する熱意という点を度外視しても、『見えない部分も、組み合わさることにより見えるようになる』またすべての見えない細部が組み合わさることにより(中略)ある種圧倒される何かが生まれる』という点では、サッカーのゲームデザインにおいても、非常に大きなキーだと僕は思っています。

監督は自らがデザインしたものを頭の中に入れた状態で、全ての仕事を行い、また選手と会話し、振る舞っていくため、例え選手には直接伝えないような細部をデザインをしておくことは、無意識な価値を生み出している可能性が高いと言えます。


■サッカーにおける「言葉の限界」

その上で、本題に入りたいと思います。

サッカーのゲームデザインとはつまり、机上において、昨今の言われ方であれば「ゲームモデル」や「プレー原則」などを、言語や図式を用いて表出させる作業と言えます。ポリシー、指標、ルール、決め事、などと言い換えることもできると思います。つまり、賛否両輪のある表現「俺たちのサッカー」を机上で整理する作業だと認識して良いと思います。

注目したいのは「言語(言葉)を用いる」という点です。

私はサッカーというゲームにおいて、集団がシンクロするための指標のような、あるいはガイドのようなものを「言葉で表現する」という行為に、怖さを感じます。めちゃくちゃ簡単に誤解が発生するからです。そうすると、監督の能力は(少なくともゲームデザインの仕事領域に関しては)言語能力によって左右されている、と言うことが出来てしまいます。

あるいは「言葉で表現するしかない」ということの「限界」を感じてもいます。

これが芸術などの領域であれば、例えばピアニストのレッスンにおいて、先生がピアニストに「蝶が舞うように」とか、「叶わない恋をしているように」とか、こういった類の言葉を使って伝えることを時にするかと思います。それは「言葉には限界がある」ことをある種証明しているような気がするのです。

サッカー監督が、選手に向かって「冷え切った氷のようにプレーするんだ」と言っても、ポカンとなってしまいます。私がアルゼンチンにいた時は、何か詩的な言葉遣いをする監督もいましたが、外国語に比べて日本語の場合、「書く」場合は良いですが、「話す」場合にこの類のことを言うと、違和感のようなものを感じてしまいます。「魂」などをサッカーの現場で使うのは、日本においてはなかなか困難なのです。例え「魂」という言葉でしか表現できない何かであっても。

そういった言葉に対する「危機感」を感じない人は、良いデザインはできないのではないか?と私は思うのです。


■ルールに基づく思考

『類似と思考』という本があります。本書は、私が煮え切らなかった部分を、いくらか解消してくれました。

まず冒頭にある以下の描写は、昨今の「サッカーに言語化は必要か?」などの議論や、「ゲームモデル・プレー原則は選手の自由を奪い縛ってしまうのか?」などのことを考える上での前提を提示してくれます。

論理学のルールが内容に依存しないということは、きわめて大きな意義があある。つまりどんな内容のものに対しても、同じルールが適用できるとすれば、応用可能性が最大ということになる。そしてそれを頭に入れれば、全てそれで事足りる。こうしたルールが存在せず、場面ごとに個別の思考方法があるとすると、厄介なことになる。なぜなら、人間が遭遇する場面の数、種類は膨大であるからだ。当然、それらを分類せねばならないが、その分類基準をどう置くかもわからない。一方、内容を考慮しない、形式的なルールが思考を支配していると考えれば、そうした苦労が無用になる。

これはつまり、サッカーに精通する人々が「プレー原則は必須である」と言う所以である。なぜならサッカーにおいても、“こうしたルール(サッカーでいうプレー原則)が存在せず、場面ごとに個別の思考方法があるとすると、厄介なことになる。なぜなら、人間が(ピッチで)遭遇する場面の数、種類は膨大であるから”である。

しかし、本書が言いたいのも、また私がここで考察したいのも、そこではありません。本書は、こう続きます。

問題はそうしたルールを人間が使えるのかということである。「使っていない」がその答えだ。

ではどうやって人は思考するのか?という問いに答えようとするのが、本書のテーマである「類似」であり「類推」です。


■サッカーにプレー原則は必要か?

先に述べておかなければならないのは、私は「だからサッカーにプレー原則など必要ないのだ」と言いたいわけではない、ということです。ただし、言葉遣いを考慮する必要はある。引用した文章にもあった「応用可能性」をコントロールしなければ、インスピレーションが大切なサッカーというゲームにおいて、あるいは選手が自ら二度と同じ場面がやってこないシチュエーションで選択をしていかねばならないサッカーにおいて、能力を奪ってしまう可能性が言葉には充分あるからです。

例えば、

①前方にスペースがある場合ドリブルで前進する
②ミドルゾーンの高さで、かつセンターレーンでボールを持っているとき、前方にスペースがある場合ドリブルで前進する

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この2つのプレー原則は、応用可能性がかなり異なる。具体度が異なると言っても良いです。①を原則に据えるのか、あるいは②を原則に据えるのかでは、全く異なる効果が現れるはずだからです。②の原則を元にプレーする選手は、この特定のエリアでしかドリブルで前進することをしなくなってしまう可能性があるし、もしくはこの特定のエリアでは(具体的に定められているがために)「それしかしなくなる(その選択肢しかしなくなる)」という可能性が出てくる。

この絶妙な言葉遣いの違い・具体度のコントロールが、サッカーのゲームをデザインするという点で、肝になってくる“かもしれない”。これは選手のレベルや特徴によっても塩梅は変わり、正解はないと考えています。“かもしれない”と書いたのは、以下のツイートで理由を説明しています。

つまり机上におけるデザインを経た「実装」の段階において、監督は「言葉で説明する」以外にも、ピッチで実際に動かしながら学習させていく、ビデオ等を見せながら修正していく、選手同士で暗黙知的に合わせていく、などのことが基本的にはできるからです。


■サッカーの文脈依存性

筆者は、実験結果やその他のことを通してそれを証明したのちに、以下のようなことを書いています。

享受されたルールであれ、自発的に生成したルール(と見なせるようなもの)であれ、その利用は文脈や状況に依存しているということである。ある領域やその中の現象、問題一般に適用可能なルールを教示されたとしても、人はそれをうまく場面に適用できないことが多い。したがって人間の知識は汎用性に乏しく、状況や文脈に強く制約されているということになる。(中略)応用問題を解く際には、それにおいて用いられるべき事項はすでに学習済みのはずである。にもかかわらず、応用問題は難しい。ある公式を適用しなければならないことをわかっている問題ですら、解けないケースは少なくない。
こうしたことはすべて、人の知識が文脈依存であることを示している。仮に抽象的な形でルールが導入されたとしても、人がそこから構成する知識は文脈情報を含み込んだものとなっているのである。知識には文脈情報が抜き難い形で入り込んでいるのだ。

ここでいう「文脈」とは、先程の例で言うところの

・前方にスペースがある
・ミドルゾーンの高さで、かつセンターレーンでボールを持っているとき

の部分。『享受されたルールであれ、自発的に生成したルール(と見なせるようなもの)であれ、その利用は“文脈や状況に依存”している』という部分は、サッカーのゲームデザインという点において、無視することができない事実でです。


■いかに言葉を使ってデザインするべきか?

では、先ほど私は言葉に対する「危機感」と書きましたが、実際にゲームデザインを机上にて行う際に、どういったことを考慮して行うべきなのでしょうか?

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