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なぜ 「会いに行けるサッカー選手」 はダメなのか? エンタメの副作用と錯覚

「会いに行けるアイドル」として、秋元康プロデュースによる「AKB48」がエンターテイメントの一時代を築き、多くの社会現象を巻き起こした。

では「会いに行けるサッカー選手」というコンセプトはどうだろうか?

かつて「雲の上の存在」であったアイドルをファンに近づけることで成功を収めたAKB48のように、サッカー選手、及びスポーツ選手を「遠い存在」ではなく、「ファンと近い存在(身近な存在)」にしていくような動きは、一体どのような影響を及ぼすのだろうか?

私はこの記事を持って「やめた方がいい」と主張する。



理由①:アイドルには終わりが来る

アイドルには必ず終わりが来る。例えばアイドルは歳をとるし、メンバーが入れ替わると同時にファンが離れる可能性が高い。ファンの年齢も同時に重ねられていくことも無視できない。

そして「それを前提に進められている」のがアイドルの世界である。

アイドル :ブームをつくることが成功の形
スポーツ :ブームをつくることは成功の形ではない

ブームには、必ず「終わり」が来る。スポーツ(及びスポーツ団体)が長期的な価値を保つためには、ブームはない方が良い。アイドルのように、メンバーがいなくなったら人気が落ちる状態や、ファンが年齢を重ねると離れていってしまう状態、すなわち人に依存している状態は避けなければならない。


■アイドルの仕事

上記を前提にすると、「アイドルが行うべき仕事」「スポーツ選手が行うべき仕事」は異なる。アイドルは、いかに短期間の中で「ブームを起こせるか」が結果の指標となり、「ファンが求めていること」を行う方が効率が良いのは明らかである(それによる弊害は後述)。その結果、やがてファンがアイドルを求めるようになる。


■スポーツ選手の仕事

一方スポーツ選手は、ファンとの関係性が「逆の矢印」を描く。スポーツは「ファンに求められていることをするからエンターテイメントになる」のではなく「スポーツという価値をファンが求めるからエンターテイメントになる」と言える。スポーツの起源はエンターテイメントではないからだ。「ファンが求めている」という結果は同じになるが、そこには若干異なるプロセスがある。

つまり、この2つは「異なるエンターテイメント」だ。異なるものであれば、それを取り囲む様々な方法論も異なるはずである。

アイドルはファンが求めることをする。スポーツはファンに求められる。


■サッカーとは舞台芸術である

オーケストラやコンサート、サーカス、演劇などの「舞台芸術」には、質が高ければ高いほど人が集まる。そこには「プロフェッショナル」のみが成し得る「質の高さ」があるが、彼らは舞台上で客(ファン)を感動させるために、また何らかの価値を提供するために、日々「パフォーマンスの質」をあげる努力をしている。人はそれに感動し、それに見合ったお金を払う。

しかし一方で、いくら「質の高いもの」を作っても人々に知られなければ意味がない。ここで初めて、宣伝や、見せ方の工夫をする必要性が出てくる。あくまでも「本来の価値は舞台上」であって、それ以外ではない。サッカーというスポーツにおいても、全く同様のことが言える。

サッカー(スポーツ)に関わる人間は「サッカー(スポーツ)の価値」を理解しなければならない。


■マイナースポーツ選手のTV出演

マイナースポーツの選手が「競技をメジャーにしたい」という理由でバラエティ番組等に出演するのをよく見かけるが、それによって、そのスポーツがメジャーになった例は未だ見たことがない。

「まず興味のない人を別の方法(何でもいいから)で呼び、徐々にそのものの価値・魅力に気付かせればいいのだ」

このようなことをよく耳にする。私はこれを、大嘘だと思っている。より重要なのは「どう本来の価値を魅力的に伝えるか」であり「他の価値で人を呼び込むこと」ではない。


理由②:アイドルはファンと共に疲弊する

プロスポーツ選手(アスリート)を必要以上に「身近な存在」にしようとする行為を「やめた方がいい」と主張する2つ目の理由は、「アイドルはファンと共に疲弊する」からである。AKB48のやり方は、ビジネスとしての成功と引き換えに、アイドルとファンを同時に「疲弊」させた。


■「オン・ステージ」と「オフ・ステージ」

「会いに行けるアイドル」というコンセプトは、エンターテイメントの世界から「オフ・ステージ」を消し去った。全ての行為が「オン・ステージ」と化したのだ。その結果得た「ファンにとっての魅力」は、一体どれくらいの期間持続させるとこが可能だろうか?


■ファンが起こす錯覚

素人目線でいえば、AKB48のやり方が倫理的に正しいとはあまり思えない。グループ内の順位を決める総選挙と呼ばれたイベントでは、アイドルたちは全てを「オン・ステージ」にし、ファンに媚びる必要性が出てくる。実際にファンと接触する握手会や、恋愛禁止などの公言、それによって髪を刈るアイドルが現れた。

このような関係性を一度築いてしまえば、ファンはアイドルがより近い存在になったと「錯覚」を起こす。思い通りにいかないファンは、時に暴挙にでる。そして、次第に疲弊する。


■「オン・ステージ」への影響

もちろんサッカー(スポーツ)界がこのような状態になるとは思わないが、ここから学ばなければならないことがある。

サッカー(スポーツ)は「オン・ステージ」と「オフ・ステージ」を明確に分けるべきであり、「オフ・ステージ」が「オン・ステージ」に影響を与えてはならない。

あくまでスポーツというエンターテイメントは、アイドルの成功の形とは異なる、ということを理解する必要がある。何よりも優先されなければならないのは「オン・ステージ」であり、それ以外ではない。

「オン・ステージ」の質が上がり、なおかつ見せ方を工夫した上で人が集まらないのであれば、この国にスポーツというエンターテイメントはそもそも必要ない。わざわざクラブを作る必要も、どこにもない。


■媚びることに「長期的価値」はない

媚びる:(意味)気に入られるように振る舞う。相手の機嫌をとる。

ファンに「感謝する」ことと「媚びる」ことは似て非なるものである。媚びた先に待っているのは「飽き」と「疲弊」であり、長期的価値を生み出すことは出来ない。

昨今は、AKBを真似て「会いに行けるアイドル」が増殖している。その結果、アイドル業界全体が「疲弊」した。

かつて「モンスターペアレンツ」と呼ばれる親に対して、教師はいつからか「媚び」ることを始めた。そして今、日本の教育からは本質が失われているように思う。正しい関係性を保てなくなれば、その先にあるのは、修正が極めて難しい「破壊」である。


理由③:必ず二番煎じが現れる

「会いに行けるアイドル」というコンセプトは、多くの二番煎じを世に誕生させた。今では「アイドル=会える」という認識が広まっているようにも見え、コンセプト自体の価値が薄まった。では、なぜ真似をするのだろうか?

このコンセプトが「簡単に短期的な成功を収められる(ように見える)」からである。「媚びた方が勝ち」というような世界になると、そこには「無理」が生じ、次第に不正や違法が幅を利かすようになる。

そしてこれには、副作用がある。


■なぜ八百屋は値段を下げないのか?

八百屋が同じ集合体の中に収められた「市場(いちば)」があったとする。各店では、野菜、フルーツなどが売られているが、ある一つの八百屋が売り上げを伸ばそうと、お店のフルーツを使った「シェイク」を120円で売り始めた。

シェイクを売り始めた「八百屋A」は、他の八百屋よりも、1×120円分多くの「売り高」をあげることになった。それを見た他の八百屋は、さらに売り高が増えるならと、同じようにシェイクを売り始めた。

しばらくして、一番初めにシェイクを売り始めた「八百屋A」は、他の店舗よりも「シェイクによる売り高」を伸ばそうと、シェイクの値段を100円に引き下げる選択をした。多くの人々が、他の八百屋でシェイクを買っている様子を目の当たりにしたからだ。

八百屋Aは「安さ」で客を呼び込み、他の八百屋がシェイクを「1個:120円」で売っている間に「2個:200円」以上販売することに成功し、より多くの売り高をあげることに成功した。

シェイクが売れなくなった他の八百屋は「八百屋A」に追いつこうと、同じく値段を「100円」に落とし始めた。

二番煎じに次ぐ、二番煎じである。ここには当然、猿でもわかる「弊害」がある。


■価値(値段)を落とす弊害

当初120円で売り高を分け合っていた4つの八百屋は「価格競争」をすることによって「市場全体の売り上げを落とした(最初より損をする)」。これであれば、最初から八百屋同士で話し合いをして、120円のままで販売をしていた方が、各店舗得をしていたことになる。

実際はこれほど単純な話ではないが、私たちはこの例からあらゆることを学ぶことができる。


■八百屋Aがやらなければならなかったこと

この「市場」を「業界」とすると、私たちは「コンテンツ(シェイク)が本来持っている価値(120円)」を下げるような行為には慎重にならなければならないことがわかる。それは「お店(チーム)のためではなく、市場(業界)全体のため」である。

八百屋Aは、他者との差別化のために「値下げ」という選択をした。客は120円から100円になれば「短期的に喜ぶ」。しかし、本来であれば「持っている価値をそのまま」「①宣伝の仕方や展示の仕方の工夫」あるいは「②シェイク自体の質をあげる」などして、他者との差別化を図るべきだった。

これは「スポーツの世界」がやらなければならないことと一致する。短期的なブームをつくらないためには「本来の価値(それ自体の価値)」を浸透させる意外に方法はない。


■二番煎じが現れると「価値」が落ちる

前述したように、AKB48がファンに歩み寄った結果、多くの二番煎じが現れた。それによってアイドル業界全体の「質」や「価値」が落ちていくことになる。

もしも、八百屋がシェイクを「100円」で売ること自体「無理をしている」状態なのであれば、値段に合わせて「シェイクの質を落とす」という選択をせざるを得なくなるか、改ざんや不正が行われる可能性がある。アイドルの世界でも、スポーツの世界でも、どの世界でも同じことが起こり得る。


■「落ちた」のか「変わった」のか

かつて「アイドルの価値」は「オン・ステージの質」にあった。しかし現状は、ファンに求められることが出来るか否か(媚びれるかどうか)が「価値」となり、その結果「オン・ステージの質」は、以前ほど求められなくなってしまった。

時代の変化に伴ってアイドルそのものの価値が「変わり」、それによって求められる「質」も変わってきているのだ。

このような捉え方も出来る。ここ数年でテクノロジーの進化が進み、より表現者が受信者に歩みることが可能になり、世の中がそのような流れになってきたのかもしれない。表現者を受信者が直接評価出来る時代だ。

ただ「変えてはならない価値」もまた存在する。なぜか。


■変えてはならない「価値」

「本物の価値」「本物の質」がわかる人間が、その場から「離れていく」からだ。つまり「オンステージの価値」を知っていて、かつ「オン・ステージの質」を"見る"ことが出来る人間が、文化の中から減少していくのだ。本物の世界には、本物を見極める人がいる。

少なくともサッカーというスポーツには、そうなってはいけない理由がる。


理由④:Jリーグは日本だけのものではない

日本は日本で、日本サッカーは日本のサッカーで、Jリーグは日本のリーグである。それと同時に「世界に多くあるうちの1つ」という感覚を持たなければならない。1人の価値観で生きていくことが不可能な「社会」と同じように、サッカーというものは、その国、そのリーグ単体で存在することは不可能である。

日本のサッカーを、左のように見るか右のように見るか、そこには大きな違いがある。


■他者との比較

「個」として存在しているものは「社会(集団)」の中の1つに過ぎず、地球に存在している限りは他者との関係性は避けられない。「私は他人からの影響は受けない」という「個(人)」の発言は「社会(集団)」に向けての発言であり、一人で生きていくには他人の力を借りなければならない。Jリーグ(個)も同様に、世界のサッカー(集団)に影響を受けざるを得ない。

少なくとも、本来Jリーガーと海外リーグの選手の「価値」は、同じだ。同じにしていかなければならない。それこそが、サッカー選手(スポーツ選手)を取り囲む、周りのプロフェッショナルが行わなければならないことである。「Jリーガーの価値」と「他国リーグ選手の価値」、ここにズレが生じてしまうと、やがて国際的な問題に発展していく。

サッカーの(普遍的)価値=ピッチ(オン・ステージ)
選手の(普遍的)価値=プレー(オン・ステージ)

サッカーが国際的なスポーツである以上、Jリーグが、日本が、それ単体で存在できる可能性は0であり、そこから逃げることはできない。


■サッカーはサポーターが試合を決める

具体的な理由は、今後の『芸術としてのサッカー論』の中で触れていくが、サッカーというスポーツは、他のスポーツよりも「サポーター」が勝敗を分けるスポーツである。

ピッチ上で起こるあらゆる要素の中で、チーム、及び選手がもっとも先に攻略しなければならないのは「スタジアムの空気」であり、攻略できないチームは勝利から遠ざかる。例えば「Jリーグにおけるスタジアムの空気」「海外リーグにおけるスタジアムの空気」が、大幅に異なる空気を発している場合、一体どのような問題に波及するだろうか?問題はそこにある。


■サッカーにおける「狂気」の重要性

誤解を恐れずに言えば、海外のサッカースタジアムには「狂気」があり、日本のスタジアムには「狂気」がない。良いか悪いかは別にして、事実である。

狂気:精神が異常になり常軌を逸していること。また、そのような心。

「狂気」のあるスタジアムでプレーをすることのない選手(及び監督)は、何かの機会に「狂気」に出くわすと、空気に殺される。空気を攻略できない。

Jリーグでプレーをする選手が「国際試合」もしくは「海外リーグ」で空気を攻略できない、という問題は出来るかぎり避けなければならない。つまりJリーグには、「本物と同じ空気」、もしくは極めてそれに近い空気を充満させる必要があると私は考えている。

「日本は日本なんだから、独特の柔らかい雰囲気でも良いじゃないか」

という意見も必ずある。ただし、それは日本のJリーグが「個」として存在している場合にかぎり、何度も書いているように、Jリーグは他者との関係性を避けることは出来ない。なぜか。


■国際試合の存在

サッカーには、国際試合がある。親善試合もあれば、W杯などの公式戦もある。その試合における「勝敗」は、「サッカーというエンターテイメントに人を呼べるか」に重要な役割を持っている(持ってしまう)。国際試合において(世界において)日本サッカーの価値(勝ち)を増やすことが、必然的に国内リーグの人気や集客に繋がる。それが出来なければ、必然的に人は呼べなくなる。前述した通り、サポーターは「勝敗を分ける」重要な要素である。

例えば国内における国際試合で「空気」を作り出すことが出来ないのであれば、ホームのアドバンテージが無くなり、勝敗に影響を与えるばかりか、普段サッカーを見ないような人が「本物の価値」を知ることは一生出来ない。

もしもスタジアムの「空気」がサッカーというスポーツの勝敗を決めるのに重要な役割を担っているのであれば、「日本独自の柔らかい雰囲気」がJリーグのスタジアムの「空気」になっていくことは、国際試合で「正しい空気」をつくれなくなることを意味し、選手は「狂気的なスタジアム」に殺され、国際的な地位を守れなくなり(勝つことが出来なくなり)、最終的にはJリーグに足を運ぶ人間も減っていく。


■客には作法・マナーがある

全てのエンターテイメントにおいて重要なポイントは、客には作法・マナーがあり、それは各分野ごとに異なるという点である。ここでいう作法やマナーとは、「利口にしている」「節度をわきまえる」とは違う。その分野で築き挙げられてきた文化は、「本物を知る客」が振る舞う一つ一つの行動にある。

ジャズの客とロックの客では、「オン・ステージ」で表現をする「プロ(表現者)」に対しての反応・行動が変わってくる。私たちが初めて何かのエンターテイメントに行くときには、必ず「他とは違う客の雰囲気」や「他とは違う客の行動」に出会うはずだ。それを事前に勉強していく人もいれば、行ってから場に溶け込もうとする人もいる。

私たち日本人は、「本物」からファンとしての作法・マナーを学ぶ姿勢を持たなければならない。スタジアムに「サッカーの本来の価値」を知る人間が少数になった時、ファンやサポーターではなく「見物客」が多くなった時が、日本サッカーが終わる時だ。

どのエンターテイメントにも、どこかに本物がいて、どこかに本物がわかる客がいる。そして何かの価値を守っていくのは、本物の価値を知っていて、本物の質を求めることが出来る人々である。


■岐路

日本は今、サッカーやスポーツ、あらゆるエンターテイメントにおいて、一つの岐路に立たされているのではないだろうか。時代の変化に応じて「価値が変わってきた」と見るか「価値が落ちてきた」と見るか。どのような視点で見ているのかで、10年後、20年後の未来が変わってくる。

もちろん、一つのやり方としてアスリート(プロフェッショナル)を「ファンと身近な存在」にしていくような動きがあっても良いのかもしれない。しかし、慎重にならなければならない。それらには、取り戻すことの出来ない「副作用」がある。

私たちは今一度、サッカーの価値、スポーツの価値を問うべきである。



筆者:河内一馬

92年生まれ。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍。サッカーを"非"科学的な観点から思考する『芸術としてのサッカー論』を執筆中。

Twitter:ka_zumakawauchi

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