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第2話:他人と違う自分 編|『あのサッカー大国は、天国か地獄か』

▼第1話:はじめてのひとり旅

第2話:他人とは違う自分

『あのサッカー大国は天国か地獄か』タイトル

日本に帰ってきてから、比較的すぐに日常を取り戻したように思う。荷物は全てなくなっていたけれど、それが新たなスタートを切る上で、身軽さに変わっていたのかもしれない(保険がおりたからお金はあったのだ)。僕は何か大きな出来事を終えたとき、燃え尽き症候群になることが多い。でもその時は、空港についてすぐに電話をかけた親友から、『もう海外終わり?』と言われたことが脳裏に焼き付いて、いやいやまだ始まってすらいないと、次なる挑戦に向けて気持ちを切り替えることが出来たように思う。

その親友というのが、のちに出てくる、僕に10万円を渡す男である。

とにかく自分は、少なくない国で見たサッカーというものを、日本で消化して、一度表現したいと思っていた。どうやらサッカーの神様というのはいるもので、アイルランドで出会ったサッカー指導者の方が、僕が大学生のコーチをしたい(将来若いうちに監督としてピッチに立つことを望んでいたから、できる限り歳の近い選手たちのチームでコーチがしたかった)と言っていたのを聞いて、ある大学を紹介してくれた。僕は帰国後すぐに、その大学のサッカー部に出向き、熱意を伝え、雇ってもらうことになった。この大学との出会いも、この大学で一線に立たせてもらえた経験も、夜勤のアルバイトをしながら寝ずに通った経験も、僕の監督人生における一生の財産になったことは言うまでもない。アイルランドに行かなければ、もっと言えば、あそこで頭に大きな傷のあるおじさんに8万円を借りなければ、僕はこの大学でコーチをすることも、なかったことになる。

自分は、何か良い運を持っている。

そう感じ始めたのもこの頃からだったし、「次に海外に行く時は、もっと緻密で、理にかなっていて、僕のオリジナルの戦略が必要だ」と考え始めたのも、この頃だった。


他と違う自分

海外を回っているとき、ある国で、ある人と会う機会があった。当時の僕は、海外でサッカーの仕事をしながら海外で生活を送っている人に、一定の憧れのようなものを持っていたように思う。「どうやってやんの、それ」という種類の憧れである。僕が欧州で出会った人もそのうちの1人で、日本人としてというより、1人のプロフェッショナルとして、サッカー界の第一線で活躍していた。

それが、おかしいのである。

無論その人がおかしいのではなく、僕が、である。

これまでも違和感として感じていたものが、その憧れの人と話をしていくうちに確信に変わっていった。

「俺、多分、みんなと考えてることが違う」

平凡な若者というのは、例え自分のもつ感覚が他人と違くとも、自分の考えを肯定する代わりに、他人の、自分よりも凄そうに見えるひとの意見に大きな価値を置いてしまうものである。平凡な若者である僕が、国を選ぶ基準も、将来の指導者像も、そこに至るまでのプロセスも、なんとなく他人から耳にするものを基準にしていたことに気が付いたのが、その時だった。「同じ『海外へ行く』にしても、他人とは違う目的があるんじゃないか」ということを無視できなくなった僕は、ボロボロの旅を終えて日本についた頃、2つ目の決意をしたのだった。

「他人のアドバイスは一切無視する」

この決意をしていなければ、多分僕はアルゼンチンに来ることはなかったし、興味を示すことすらなかったように思う。

他人のアドバイスを無視するということは、自分のとる行動に何かしらの確信を持つのと同時に、人に「狙い」を説明できるようにならなければならない。だから僕はまず、「なぜ海外に行きたいのか?」ということを、徹底的に考えた。


大人に刃向かう

変なことを言うようだけど、僕は「大人に刃向かう」とか「大人に反抗する」とか、そういう行動とは無縁の子供時代を送っていた。大人の顔色を伺いながら生きていたし、大人に怒られることが何よりも苦手で、それゆえ先生や、指導者や、その他大人に刃向かったことはあまりなかったように思う。もしかしたら、今の僕しか知らない人は、自分が納得のいかないことは誰に向かっても口するような今の自分からは、想像が出来ないかもしれないけれど。

でも、常に「お前の言っていることは違う」と、どこかで考えている自分には子供の頃からずっと気が付いていた。それでも何も言えない自分は度胸がないと、コンプレックスを抱いていたのが子供時代だった。

今でもはっきり覚えていることがある。小学校低学年のとき、ある道徳の授業を受けていた。グループを作って、『どうせ』という言葉について、使い方を考える、というような授業だったと思う。確か教科書には「ポジティブな使い方」と「ネガティブな使い方」みたいな2つの空欄があって、そこに「どうせ〇〇」という文をクラスメイトと作っていく作業だった。教科書の作りと、先生の説明の仕方で、『「どうせ」という言葉はネガティブな使い方しかされないから、使わないようにしましょう』という方向へ誘導するためのものだと、僕は勘付いていた。クラスの全員が「どうせ」という言葉をネガティブな使い方をしている中、僕は1人だけ「どうせ死ぬんだから、なんでもやってみよう」という、ポジティブな使い方を堂々と披露した。その時の先生の「それはちょっとね…」みたいな顔と、誘導できなかった子供に対して送っていた変な視線は今でも忘れない。僕は確か、自分だけ違うことを言って否定されたことに悲しみを覚えたと同時に、人とは違う角度で物事を考えることに、ある種喜びのようなものを覚えた。

子供を終えて、僕はある時から「大人に言いたいことを言う」ことが出来るようになっていた。子供の頃に抱えていた「強いものに何かを言う度胸がない」というコンプレックスは、今の僕のあらゆるものの原動力になっている。それが弾けたのが、海外挑戦に関して思いを巡らせていたちょうどその時期だったのだ。


なぜお前は海外へ行くのか

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