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これまでの発言、そしてこれからの発言は、全てこの3937文字に通ずる。

時々私は、自分は動物園にいる動物だったのではないだろうかと思う時がある。特に外国に住み始めてからというもの、この人たちが野生の動物であるならば、日本人は“動物園にいる動物”なのかもしれないと、確かにそう思う。もしくは、野生の動物に近い環境で飼育されている動物だろうか。

それが良いか悪いかは一度置いておいて欲しい。全く正解を言える自信がないし、その必要もないように思う。

ただ、日本人は、いつからこんなにも人間離れしていってしまったのだろうかと、最近そう思わずには居られないのだ。というより、動物の、生物としての本能を失ってしまったのではないかと。身体的な触れ合いを避け、湧き出た感情を抑え、機械的に“人”生をこなし、大きなマスクで表情や言葉を隠すようになり、そして踊らなくなった。

私は色んな国に行った。本当に色んな国の人と話をした。ただ、「この国の人々は日本人と全く一緒だな」なんて、ほとんど思ったことはなかった。これは私の偏見だろうか。妄想か何かだろうか。人は自分が求めている情報しか頭に入れない生き物なのだと、そう批判をされたらそれは確かに正しいのかもしれないけれど。

少なくとも私が今住んでいるアルゼンチンの人々は、日本人とは全く性質が違い、どこか人間味に溢れている。人間の、というより動物としての何かが、確かに宿っている。逞しいと言おうか、はたまた野生的、それとも本能的とでも言おうか、私たちと同じ人間とは到底思えないのような、全く違う雰囲気を漂わせている。人々は身体に触れ合い、感情を素直を表出させ、何かを全力で喜び、そして深い悲しみに暮れる。言葉を投げることを臆せず、音楽とともに踊るのだ。

彼らが住む“世界”は、人に何かを強制することがない。それどころか犬でさえ、リードをもってして人間の言い成りになってはいない。彼らは犬の散歩にリードを持ってはいかないのだ。日本では人間の支配下に置かれている飼い犬も、こっちの世界では自ら飼い主の後ろや前を歩く選択をしているように思える。時に寄り道をして飼い主と離れることもあるが、誰も気にしていない。共存とはそういうものだ。犬って頭がいいんだなあと、日本人の私は彼ら(と犬)を見て感心させられるのだ。ちゃんと一緒に歩けるじゃないか、リードがなくても。

私たちは、リードに繋がれた犬なのだろうか。気付かないうちに、誰かによって歩く道を強制され、別の道を行こうと思えば、リードで首を引っ張られる犬だろうか。

動物園には、動物の他に飼育員が必要になる。動物園の中では、飼育員は圧倒的に動物を支配している(支配という言葉は少しネガティブだけど)。誰が見ても動物は檻に囲まれているし、飼育をしなければ人間を襲ってしまう可能性もある。逃げてしまうかもしれない。もちろんこれは、なにも動物園の飼育員を非難しているわけもなく、ただ、人類の生きる社会が「飼育員」に支配されている状態は果たして適切なのか、という疑問が頭をよぎっているのだ。悲しいかな、人間は、すぐ飼育員になりたがる。

日本にも(まあ、世界中かもしれないけど)、人間を飼育したがる飼育員がいる。それは政治家のことかもしれないし、のことなのかもしれないし、学校の先生のことかもしれないし、スポーツチームの監督かもしれないし、あなたの近くにいる“偉い人”なのかもしれない。彼らは、人を見えない檻(たまに見えてるけど)に入れ、偉い人の都合の良いように“その他”を強制するために、首にリードを巻く。そしてその世界では、「女」とか「子供」とか「障害者」とか「学生」とか、そういったカテゴリーに分けられて飼育がされている。それでいて、日本で飼育されている「動物(人間)」は、どのような方法で自らが飼育されているのかを知ろうとしない。知ったとしても、あたかも他人事のように振る舞うのだ。


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さて、サッカーとは「最も人間らしいスポーツ」だ。

バスケットボールのそれとは違い、人間の自然の営みの中で、長い時間を経て今の形に落ち着いた。ルールありきのゲームではない。大きなピッチの中で、一つのチーム(社会)が、競い合うチームに対して、ルール(法律)という制約の中で「自由に」動くことを許されている。失敗をすることは前提で、その度に次へ、次へと進んで行かなければ、生き続けていくことは出来ないだろう。他人と協力してプレーをすること(生きていくこと)も出来るが、一人で生きていくことも出来る。そして、一人で生きていると思っている人間は、決して一人で生きてはいないのだ。社会の常識(サッカーの原理原則)は存在するし、「こうやって生きた方が効率がいい」という指標(戦術戦略)は謳われるが、それはそれでしかない。目的(ゴール)を達成するためには、実際、何をしても良いのだけれど。はあ、ややこしいのはここからだ。ファール(罪)は犯してはいけないが犯すこともできる。だから世の中(サッカー)には、私たちが生きている時間より、遥か、遥か前から、倫理や哲学が存在しているのだ。それは「〇〇=悪」と、ただただ受け入れることではない。決定までの間に、つまり「=」にはプロセスが存在する。そのプロセスには思考対話が含まれていなければならない。例えば「社会を生きる人間(サッカーをする人間)」は、自分が何か本当に求めているものを掴もうとした時、罪を犯してもいいのだろうか?それが、誰か大切な人(試合を決定づけるゴール、それも人生を決めるかもしれない試合で…)を守るためだったら?あなたは、食べる物がなくて死が見えた時、お店から物を盗まないと、今、断言できるだろうか。サッカーとは、そういうことだ。罪を犯すことを正当化しているわけではないし、それをオススメしているわけでもない。それこそ、全人類が罪を犯さない世界が理想なのかもしれない。ただ、そこには、踏まなければならない段階がある、というだけだ。「〇〇=悪」とただ認識しているだけなのであれば、それは“飼育”されているだけなのかもしれない。

「サッカーという世界」では、飢餓状態で食料を求める人間と同じように、ゴールを、そして勝利を求める人間たちで溢れている。もし日本人が「サッカーという世界」で、それも“世界のルール”で勝利を求めるのであれば、私たちはそれらのジレンマと対話をする必要がある。罪を犯してまで、何かを求めることができるだろうか、と。考えて、考えて、考えた結果、「罪を犯してまで(あるいは感情を剥き出しにしてまで)勝利を掴み取る必要はない」と結論を出したのであれば、そこにはプロセスが存在しているのであるから、それはそれで問題ないだろう。

しかし人間が出した結論は、簡単なきっかけで変わってしまうものだということは、わかっておいた方がいい。


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大事なことは2回言う。サッカーは、最も「人間が出る」スポーツだ。ゲームと言い換えても、戦いと言い換えてもいい。

日本人は、サッカーをするために「人間味」を取り戻す必要がある。子供は大人のようにプレーし、大人は子供のようにプレーしなければならない。野生の動物と飼育された動物は、明らかに何かが違う。どちらが正しいか正しくないか、そういう問題ではないことははわかってもらえるだろうか。


“私が生涯を通じて表現したいサッカーは「人間味」にある。サッカーという表現を通して、日本に「人間味」を取り戻したい。”


これは私が、日本人は、日本という国は、もっと人間味を取り戻すべきなのではないか?と考えているからに他ならない。

そしてこれが、私が監督としてサッカーを「表現」する理由である。サッカーこそ、それを表現するのに最も適していると考えているのだ。あらゆるものに勝たなければならない理由もここにある。日本人や日本の社会に興味を持っていることも、日本で表現をすること以外は求めていない理由もここにあるし、これまでの発言、そしてこれからの発言は全てここに通ずる。

ただし矛盾するようだが、世界はサッカーから人間味を取り除こうとしている真っ只中だ。見落としてはいけないのは、人間味を取り除こうとしても「野生の動物」たちから本質が抜けることはないということだ。私たち「動物園の動物」が「野生の動物」がやっていること(しかもプロセスを抜いて)コピーすれば、何が起きてしまうのかは火を見るよりも明らかである。

これからの日本人は、犬を信頼してリードを手放すことが出来るだろうか。そのためには、まず犬の特徴を知る必要があるのではないだろうか。


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人間味とは何か?人間味があるサッカーとはどういうことを言うのか?それを取得する(取り戻す)ためには、何をする必要があるのか?そもそも「人間味のあるサッカー」をする意味は…?これからこの場所を使って自分の理論を書いていくことにしたい。長い、長い戦いになるだろう。

サッカーにおいて「人間味のある表現」をするという私の挑戦は、昨今よく言われている「日本人らしいサッカー」とは真逆の方向へ進むことなのかもしれない。また一方で、長期的観点からすれば「日本人らしいサッカー」をするために踏まなければならない過程なのかもしれない。

その答えは、ずっと先(みらい)のピッチにしか存在し得ない。


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河内一馬(@ka_zumakawauchi)

1992年生まれ(26歳)サッカー指導者。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍中。サッカーを"非"科学的な観点から思考する『芸術としてのサッカー論』筆者。NPO法人 love.fútbol Japan 理事。

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1992年生まれ(27歳)/ サッカー監督 (南米サッカー協会 Aライセンス)/ アルゼンチン在住 / 監督養成学校在籍中 / サッカーカルチャーブランド「92 F.C.」Founder / NPO法人 love.fútbol Japan 理事
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