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蹴球症候群

他分野を通してサッカーを解明し、サッカーを通して他分野を解明する
サッカー、またはサッカー以外の分野から日々何を学んでいて、何に気付いて、何に疑問をもち、どんな風に… もっと詳しく
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#コラム

「変化」と「波」

「変化」と「波」ということについて、考えてみる。

『W杯、鬱陶しいコンプレックス』

一応『蹴球症候群』というタイトルを付けているわけだし、4年に一度の祭典ワールドカップのことに触れないわけにはいかない、などと思ってパソコンに向かっている。

30代でやりたいこと(強い意志はない)

20代は濃かったなあと思いますし、本当にいろんなことがあり、いろんなことをしたので、30代もそれくらいの濃度で、もしくはもっと内容の詰まった10年間になるだろうと思っています。またこっから10年かあすごいなあというなんだかよくわかんない感情もあります。 せっかくなので、これからの10年間でやってみたいことを思いつくだけ上げてみたいと思います。絶対に達成してやる!みたいな強い意志はないので、目標とは言えるようなものではないかもしれませんが。 ***

人と同じことを人と違う方法で行う人たち。

どのように、何をするか、という時の「どのように」の部分には興味があります。昔ある人に、「人と違うことをするんじゃなくて、人と同じことを人と違う方法でするんだよ」と言われたことがあります。確かに、そんな気もします。人と違うことをしているように見えても、辿っていけば実は同じことをしていて、だけれども、その捉え方や方法が違うために、出てきたものが人と違うように見える、そういうことなのかもしれません。 例えば私はよく本を読みますが、ほとんどのものが、人と同じことを人と違う方法でして

ハロー、何もしない人

何もしないってのは、何かをするより、ずっと難しいのではないかと思って、それはどうしてなのだろうと、考えたりしている。昔々、僕がサッカーというゲームの世界に身を置くようになってから、勝ちと負けで人生が武装されるようになって、そうすると、他者との比較や、自己との対峙を通して、次第に「何もしない」ということが難しくなったのかもしれないなどと、思う。 勝ちと負けというのは、つまりフィードバックで、自分が「何かをしないと…」とまたさらに焦りを抱えて生きている(た)期間は何かと考えると

「問題」と一緒に生きるか「仮想問題」と一緒に生きるか

生きていると、あるいは仕事をしていると、「ここが問題だ」と気づくことがあると思います。例えば何か実現したいことがある時、あるいは現状に何らかの変化をもたらしたい時は、そのプロセスの中で、大なり小なり「問題」があることに気が付く瞬間があります。 それが常識的になりすぎていて、「問題である」ということに誰も気が付いていないパターンと、あるいは、みんな気が付いてはいるけれど、見ないふりをしているとか、「その問題は決して解決されないもの」として放置されている(問題があることが前提と

Necessity is the mother of invention|必要は発明の母

新しい戦術が生まれるとき、そこには必要性があります。アリゴ・サッキだって、ペップだって、クロップだって、誰だって、そこに必要性がなければ血眼になって戦い方を発明することなどなかったはずです。そうしなければ、ならなかった(勝てなかった、あるいはクラブが発展しなかった)。この必要性を無視してしまうと、つまり、戦術を生み出すことや、戦術を実行すること自体が先に来てしまうと、そこでエラーが発生してしまうのですが、私たちの世界ではそれを頻繁に起こしてしまいます。 スタイルが先行すること

書くこと、知ること、

「欲望—手段・方法—目的」の崩壊

『若者のサッカーに対する興味関心を語る時の、圧倒的な勘違い』について

まず、若者の、あるいは、若者でなくとも、「サッカーへの関心」や「興味」というものは、「長い時間をかけてつくられて、長い時間をかけて失われていくものではない」と私は思うのです。そこを勘違いしてしまっては、いけないと思うのです。 そもそも「サッカー」というコンテンツは、西洋由来のもので、日本においてその存在を確かに持ち始めたのは、ここ30年の話です。Jリーグという人為的かつ戦略的に作られたコンテンツがきっかけでした。 それなのに、私たちは、どの領域に関してもサッカーを語るとき

「そうであることの必然性」について

「必然」に近づいていく感覚。自分が関わっている仕事領域や、あるいは私自身の人生においても、その「必然性」や「自然(な状態)」を一貫して求めることが私にとっての正義です。 現在仕事で行っていることを既存の名前で整理すると、(サッカーの)コーチング、ブランディング、(広義の)デザイン、組織マネジメント、執筆、などが挙げられますが、それらに共通しているのは「そうであることの必然性」を追求する作業である、ということです。

なぜサッカー選手は“挨拶”をするべきなのか? インタラクションとセンサーの欠如

サッカー選手や、サッカーに関わる人間は、挨拶をするべきだと思ってきた。挨拶をする、という行為は人によっては当たり前の行為であるが、ただ、中にはその感覚が抜けている選手などがいる。 ただこの“挨拶をする”という行為は、何も深くお辞儀をしろとか、目上の人にはペコペコしろとか、礼儀を守れとか、そういううるさいジジイみたいなことを言いたいわけではないことは、先に断っておかなければならない。 いわゆる、スポ根的な、日本の体育会的な「させられている挨拶」ではなく、人間と人間がする、自

「生きる(お金を稼ぐ、税金を払う、社会のピースになる)」ことへのリアリティと幸福

成長した、伸びた、上手くなった、器用になった、できるようになった、向上した……などの「実感」は、幸福に生きるために欠かせない要素なのかもしれません。なんの目的もなしにただ生きているような人でも、「仕事」や「趣味」あるいはその他の「ライフワーク」に情熱(という言葉が適切かどうかは分かりませんが)をもっていないような人でも、その生活を「保つ」=「生きていく」ためには例外なく成長や工夫が必要(それが分かりやすい成長や工夫でなくとも)で、それが生きているということだと思います。 幸

Extraño mucho a Argentina.