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なぜ、BUMP OF CHICKENは絶大な支持を得ているのか ~【楽曲】ノーヒットノーランの考察を通じて ~

「彼女の死」が僕にくれた「プレゼント」~この「物語」はノン・フィクションです~①(←クリックで詳細ページへ)

「彼女の死」が僕にくれた「プレゼント」~この「物語」はノン・フィクションです~②(←クリックで詳細ページへ)

上記2本の記事でも触れた通り、私はBUMPが大好きだ。高校生の頃からある意味熱狂的なファン。ファン歴かれこれ15年以上。僕の青春は彼らと共にあったといっても過言ではない。最近はファンの事をバンパーなんて言うらしい。車のバンパーしか浮かばない。これがじぇねれいしょんぎゃっぷなのか…

タイトルの通りに今回は記事を書きたいと思うのだが、

・なぜ、このタイミングなのか?
・なぜ、この楽曲なのか?

BUMPファンの方はもしかすると気になるかもしれない。気にならない方は飛ばして読み進めて頂いて構わない。

その背景を端的に言えば、

本日、この楽曲を通じた「衝撃のセレンディピティ」が降りてきたからだ

この一言に尽きる。その前提で以下読み進めて頂くと幸いです。ただし、余りの熱の入りように長文となってしまった事をご了承下さい。この時点で文字にアレルギーがある方はご退室頂くことをお勧めします。それでは。

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タイトルの副題にある楽曲ノーヒットノーランは、1999年に発表されている。インディーズにて初めて発売されてアルバム「FLAME VEIN」に収録されており、彼らが19歳の時に制作された。20年も経つがこの楽曲も全く色褪せない。寧ろ、今になってこそ一層味わい深い代物だ。

結論から言おう。

この楽曲は、人間の本質が凝縮されている(哲学的)、極めて優れた「文学作品」だからだ。

一体どういう事か。
歌詞を引用しながら紐解いてみる。

「物語」の始まりはそう 成す術の無い僕らが主役
白いライト当てられて 期待を背負って
頼むぜ我らがスラッガー
今日はどうした 未だノーヒットノーラン

野球を舞台にした「物語」であり、期待されたスラッガー(強打者)がバッターボックスに立っている様子が想像できる。

だが、この表現に違和感を覚えないだろうか?

①成す術のない僕らが主役

「成す術のない僕ら」が、なぜ主役なのか。主役とはもっと華々しいものなのではないのか。何か矛盾していないか。僕らとは誰だろうか。

頼むぜ我らがスラッガー 今日はどうした
 未だノーヒットノーラン

ノーヒットノーランという言葉は、「カズマ投手ノーヒットノーラン達成!おめでとうございます!」という文脈で一般的には使われるのではないだろうか。にも関わらず、「未だノーヒットノーラン」と表現されている。投手をディスりたいのか。だが、主人公はスラッガー。よくよく考えると、この構造は極めて不自然ではないだろうか?矛盾している気がする。

一番前で見ている人の目 その想いは僕を焦らせて
高鳴る心の背中につかえる タメ息に勇気かき消されても
「まかせろ」なんて言う だけど…
ライトからすぐ逃げたいよ 打てるかな 打てなきゃ
ノーヒットノーラン スラッガーだって怯えるんだ

スラッガーとはいえ、打てるかどうか不安に駆られている様子が描写されている。「まかせろ」と口では言うものの…本心は不安で一杯。この辺りは想像に難くはないだろう。しかし、

打てるかな 打てなきゃ ノーヒットノーラン スラッガーだって怯えるんだ

なぜ、ここでまたもや「ノーヒットノーラン」という言葉があるのだろう。至って不自然な気がする。なぜなら、先述の通りこの言葉は通常ピッチャーを主語として使われる言葉だからだ。前節同様、矛盾していないだろうか。「ノーヒットノーラン」という言葉と、スラッガーが「怯えている」事の関連性を理解しかねる。なんだか「ちぐはぐ」な気がする。

好きな時に好きな事をして 時々休み
また適当に歩き出していた それがいつの間にか
誰かに何か求められて誰にも甘えられない

ここから歌詞が別局面を迎え理解しやすくなる。ある程度年齢を重ねた方なら分かると思うが、年齢を重ねるにつれ、様々なものを「背負う」のが人間だ。仕事上はもちろん、子育て、親の介護、持ち家や車のローン等、借金を背負ってしまうこともあるだろう。「責任」を抱えた状況の中で、誰にも「責任転嫁」できない状況だと自覚しているのだろうか。

ライトからすぐ逃げたいよ だけど僕はスラッガー
ノーヒットノーランのままじゃ認められない
そんな僕は存在しちゃいけない

背負ったモノ、もしかしたら背負わされたモノかもしれない。責任の重圧に逃げ出したいという心境がありありと描写されている。ただ、違和感を覚える箇所がある。

④「ノーヒットノーランのままじゃ認められない

「誰を」認められないのか。スラッガーだろう。ただ、ノーヒットノーランのままじゃ…と前段にある。どういうことだろうか。「誰に」認められないのだろうか。自分自身なのか、もしくはチームメイトや監督なのか…。

私の勝手な解釈だが、「ノーヒットノーラン」は世の中の「権威・肩書・常識」等の例えだ。限りなく平たい言葉で言うと「一般的に凄い、偉い、逆らえないと思われているもの」。それらに対して、「このままで(ノーヒットノーランのままで)終わらせてたまるか!」という、「反骨精神」を表現しているのではないだろうか。

なぜ、そう思うのか。彼等のバンド名である「BUMP OF CHICKEN」「弱者の反撃」と翻訳されるからだ。

願わくば怯える自分に逃げ場を与えてあげたい
願わくば誇れる自分と名誉とライトが欲しい

ボクになにが残るんだろう?
臆病なボクにナニガデキルンダロウ?

ライトがまだ足りないよ
「ボクはスラッガー」もっと思い込ませてくれ

⑤願わくば怯える自分に逃げ場を与えてあげたい
 願わくば誇れる自分と名誉とライトが欲しい

逃げ出したい気持ちがある一方、「壁」を乗り越えた先にあるであろう、自分自身を肯定したい気持ちとの「葛藤や矛盾」が手に取るように分かる描写だ。わかる、わかるぞ…と納得するのは私だけではないはず。

⑥ボクになにが残るんだろう?
 臆病なボクにナニガデキルンダロウ?

葛藤や矛盾の最中だが、皆の期待がある分、このまま逃げ出す訳にもいかない。仮にこの場を逃げ出してしまえば何か取り返しのつかないことになる、何か大切なものを失くしてしまう。そのような心情を推察する事が出来る。

「物語」の始まりはそう 成す術の無い僕らが主役
白いライト当てられて 期待を背負って
「頼むぜ我らがスラッガー」「まかせろ!!」って僕は胸をたたく
この手よ今は震えないで この足よちゃんとボクを支えて
白いライトあてられて怯えないように
帽子を深くかぶり直し 不敵に笑うスラッガー

これまでピックアップしてき①~⑥のまとめとなっている。成す術のない物語の主役であるスラッガーが、ノーヒットノーラン達成間近のピッチャーへと挑む構図だ。

・ノーヒットノーランを達成させてたまるか
・絶対に一泡吹かせてやりたい
・でも…そんなことできるだろうか…不安だし怖い
・そんな僕に勇気をくれ

と自らに暗示をかけている状態、つまり、自分にハッタリをかましている事が容易に想像できるだろう。そんな瞬間、読者の皆様にもないだろうか。私はよくある。自分自身によくハッタリをかましている。


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ところで、直近で2冊の本を拝読した。

神メンタル (←クリックでamazonページへ)
ストロング本能(←クリックでamazonページへ)

画像1

前者は演繹的に、後者は帰納的に、極めて科学的かつ具体的に書かれた良書だと、私は思う。特に前者はDaisuke Inoueさん(←クリックでTwitterページへ)の著書である

たとえる力で人生は変わる(←クリックでamazonページへ)

を高い次元で踏襲しているかの如く「例え話」が豊富である。

前段が長くなったが、「神メンタル」「ストロング本能」両書の共通事項として以下がある。シンプルに述べると、

・ハッタリをかませ

というメッセージだ。簡略的に趣旨を述べると、ハッタリをかますことで脳が良い意味で錯覚をおこす。その状態を維持することで「ウソもホント」になる、という事だ。


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本題に戻る。下記フレーズで終了だ。

普通に生きてりゃ誰だってライトを浴びる日は訪れる
そんな時誰でも臆病で 皆腰のぬけたスラッガー
ノーヒットノーラン 誰かにそれを知って欲しいから
「まかせろ!」って僕は胸をたたく

普通に生きてりゃ誰だってライトを浴びる日は訪れる  そんな時誰でも臆病で皆腰のぬけたスラッガー

「物語」の主人公であったスラッガーが急に現実味を帯び、現代を生きる我々に一般化される。極めて修辞に優れた自然な流れだ。これまでのスラッガーの「物語」は、「あなた」へ向けてのモノなんですよ?、「あなた」がスラッガーなんですよ?、「物語」の主人公はあなたなんですよ?、そんな風に感じないだろうか。

誰かにそれを知って欲しいから
「まかせろ!」って僕は胸をたたく

臆病で弱い自分、でも闘っている自分を誰かに認めてもらいたい。額面通りに解釈できる描写だ。誰しも自分の事を分かって欲しい、理解して欲しい、承認して欲しい、そのような本質的な人間の欲求をストレートに表現している。


【まとめ】
いわゆる「壁」に際して、人間が往々にして陥る葛藤や矛盾、本質的欲求の類が、野球の場面を例えに、非常に高い水準で表現されている。
この「物語」の中には、

・どのように我々は生きるべきなのか

という「哲学的命題」が凝縮されていると、私は思う。一方的な「あるべき論」ではなく、柔らかく包み込んでくれる一方で、突き放すような矛盾「弱さ(優しさ)と強さ」が込められているのではないだろうか。

神メンタルを読み進める中、文中の文言からふと本楽曲が浮かび、何気なしに聴いてしまったが最後、僕は号泣してしまった。同時に、本楽曲が、修辞に富み、哲学的要素を含む優れた文学作品であるという事に改めて気が付いた。

極めて哲学的な詞を、抜群の文学的表現力を以って演出する彼らの楽曲スタイル。作詞を手掛けるギターボーカルの藤原基央は「哲学者」であり「文学者」だと思っている。

人間の本質を捉えた楽曲。聴く者の「魂」を揺さぶらない訳がない。

おわり

最後までご覧下さった方、もしいらっしゃれば改めて感謝申し上げます。

#BUMPOFCHICKEN

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