「同じ」視線の正体
何を血迷ったのか、このご時世にマスクを着けないことにしている。もちろん、不要不急の外出はしない、最低限の外出だけに留めている。
思いのほか街に人は少ない。
行きつけのスーパーへ行く道すがらにある、人気のラーメン屋に並ぶ人の行列くらいだ。このご時世にもかかわらず繁盛している。
それはそれで凄い。どういう構造なのだろうか。これまでの「信用」のたまものなのか。そこまでして食べたいラーメンなのか。
スーパーのレジに並ぶ人にも距離制限がある。レジを打つ店員さんと客を隔てる透明のシートは、あっちとこっちで異次元かのような異様な光景。
それくらい、世間は厳戒態勢なのだろう。
最寄りのスーパーまで歩く道則。約5分くらいだろうか。数人の人とすれ違う。いつもと違う視線を感じるのは気のせいなのか。
寝ぐせでもついてんのやろか?
無精に伸びた髭のせいか?
まあ、いいや。
スーパーに到着する。自動ドアをくぐり、赤い買い物かごを持って、野菜からはじまるいつもの導線を進んでいく。
あれ?
ふと感じる違和感。
やはり感じる視線。
よく職務質問されるからなのか。
そんなに俺は「異物」なのか?
その時ハッと気が付いた。気が付いてしまった。
この視線、過去に感じた「アレ」と同じだ。
なるほどと、妙に納得がいった。
どこまでいってもこの視線からは逃れられないのだ。
そう悟ると同時に、実態のない空虚な妄想に何を恐れているのだろうかとの疑念が湧く。
あんたと同じ人間だぜ?
何が違うんだ?
誰も明確に答えられない「問い」。
「得体の知れなさ」は人を不安にさせる。その不安によって本能的に、遺伝子レベルに組み込まれた反応なのだろう。
「諦める」の語源は、「明らかにみる」だ。
そういうことだ。
今日も今日とて、空は快晴。
季節の割に冷たい風が、心のひだをなでた。
おわり
※この物語はフィクションです。
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