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父の半生インタビューを終えて

先日の帰省の際、父にインタビューをした。目的は父をモチーフにした小説を書くネタを引きずり出すため。

この記事でも触れた通り、我が家は在日韓国人の家庭だ。

それ故、父の半生も映画「パッチギ」や「GO」のようなイメージとして僕自身は抱いていた。高度経済成長期の日本、国民総中流階級などと言われた時代を生き抜いた人間である父。だが、それらとは程遠い貧しい生活だった。

それ故、日本社会に対して、自身の出自に対して、歪んだ感情を持っていたのだと僕は勝手に想像していたが、全くそんなことはなかった。

気質的に負けん気が強く、喧嘩っ早いのは変わりないが、自ら喧嘩を売ることなどなかったそうだ。高校の同窓会の際、元担任の先生から

「○○は、いじめらている子を助けるような奴だったなあ」

そう言われたことがあるらしい。確かに頑固で問題児だったそうだが、将来展望も見えない状況の中でも、強きを挫き弱きを守った。まるで伝説の弁護士、中坊公平氏のようだと我が父ながら感心した。

家庭が貧しいゆえ、高校1年の段階で進学を諦めざるを得なかった。勉強に身が入る訳もない。よく授業をさぼっては遊んでいたそうだ。卒業時の単位もすれすれだったそう。更には国籍が理由で、就職も芳しくない結果に。

高卒後、親戚を頼りに九州へいく。ガラの悪い地域だったそうだ。○○組の人間が幅を利かすような街で、彼は喫茶店のチーフとして勤めていた。

○○組の若頭が店の中で横柄な態度を取る。見せしめのように店内で連れの客を土下座をさせる。その状況を見かねた店員が間に割って入った。すると、その若頭が今度は店員の頭を掴んで店の外へ出ていったそうだ。

父はその現場に居合わせなかったが、別の店員から事情を聴き、外へ駆け出した。もちろん、連れていかれた店員を助けるために。

相手は○○組の若頭だ。

誰もが怯む相手にも動じず、自身の筋を貫く。当然のように「ケンカ」になる。目には目をではないが、暴力には正当防衛として暴力で対応した。

とは言っても相手に傷を残す打撃ではない。学生時代に柔道をしていたこともあり、相手の足を払い転ばせ、そのまま腕の関節を取る。動けない相手はタップする以外にない。幸い目の前が交番だったこともあり、すぐに警察が駆け付け事態はいったん収まった。

要するに、○○組の若頭にケンカで勝った訳だ。

感の良い読者の方なら想像はつくだろう。極道・任侠の世界はそれこそ目には目を、歯には歯をの、ハンムラビ法典の世界そのものだ。当然のように父への怒りの矛先が向く。


ここまで聴くだけでもハラハラした…心臓の鼓動が早く脈打つ。


どのような展開が待っていたのか。



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当時の時代背景を考慮すると、例えるならば「池袋ウエストゲートパーク」の世界観だ。○○組、△△ギャング、××チーマーのような組織が乱立する状態だったそうだ。

その中の一つである新進気鋭の組織のボスがいた。

その彼は年齢も若く、怖いもの知らずだったのだろう。何を思ったのか、僕の父にケンカで負けた○○組の若頭を揶揄し、挑発したそうだ。


その結果何がおこったのか…


怒り狂ったその若頭は、挑発してきた人間の内臓をナイフで抉った。幸い一命はとりとめたが、その若頭は「殺人未遂罪」でムショ行きとなり、長い間服役したそうだ。


「もしかしたら、刺されとったんはワシかも知れんのう。」


そんな事をのんきに言う父だが、今だからこそ言える言葉だ。当時の状況を考えると、下手に道も歩けない、いつ後ろから攻撃されてもおかしくないような状況だ。

と言う訳で父は難を逃れたそうだ。もし父が刺され息を引き取っていたら、今の俺や家族の存在はない。考えれば考えるほど、不思議な巡りあわせがあるように感じる。


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時を経て、博多で同じく喫茶店のチーフとして働いていた際のこと。博多にも極道の世界がある。人によりケリだが、某極道の一味は店でのマナーが悪かったそうだ。当然のようにその彼をけん制しに行く我が父親。

考えてみれば当然だろう。他のお客様に迷惑になる行為を店内で繰り返す輩を放っておく訳にはいかない。権力に媚びない姿勢は今も変わりない。

だが、注意された方はどう思うだろうか。相手は極道の人間だ。

「自分のバックには○○組の人間がいるんだぞ」

そう脅しをかけてくる。

普通の人間ならばたじろいでもおかしくない状況。彼はどうだったのか。全く動じなかったそうだ。それこそ「だから何?」という具合だ。しかし、店の他のスタッフが事態の深刻さを案じていたそうだ。

そのスタッフの中に、1人の大学生がいた。彼の父は警察官である一方、彼の叔父は極道の人間だったらしく(それも不思議な関係性だが…)、彼から一度、その叔父さんへ相談してみると申し出てくれたそうだ。

その叔父さんの家へ招かれた父と大学生の彼。淡々と事情を聴く極道の叔父。一通り聞き終えた後、穏やかにこういったそうだ。


「今回の件は預かるよ。何も心配しないでそのまま営業を続けなさい。」


地域でも評判の○○組に裏から根回しできるほどの権力を持つ彼に、父も驚いたそうだ。そしてそれ以来、父の勤める店にも、父にも何も悪い影響が出ることはなかったそうだ。

恐るべし、その叔父さんの権力…


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月日は流れ、その後ある日突然、スタッフである大学生の彼から父に申出があったそうだ。


「叔父が、もう一度会いたいと言っている。」


父の頭の中は??だったそうだ。なぜまた呼ばれるのか。事態を収めた事に対する報酬を要求されるのか。はたまた何か別の事情があるのか…


暗中模索の中、今度は一人でその叔父さんの自宅へ伺う。木造で和風の奇麗な玄関を通り抜け、居間へと誘導され、ソファーに腰を掛けるよう促される。どんな一言が発せられたのか…





「うちの組に、入らないか。」


極めてシンプルにそう誘われたそうだ。

この話を僕は、実は過去に少しだけ聞いたことがあった。当時の時代背景や国籍の事も考えると、当然心が揺らいだのではないかと僕自身が勝手に想像していた。だが、その誘いに対する父の返事は意外なものだった。


「田舎に父と母を残しています。僕に兄弟姉妹はいません。その父と母を見捨てることはできません。いずれ田舎に戻り父と母の面倒を見ないといけません。ですので、頂いたお話には応じることはできません。申し訳ありません。」

この記事でも触れた通り、父は養子だ。両親の実の子ではない。もしかすると血筋的にも日本人かもしれない。だが父は生みの親の事など全く以って気にしたことがないという。

ドラマではよくある話だ。実の親にあってみたい、自分のアイデンティティの出処を確かめたい。そう思うのがある意味普通だと俺は思っていた。

だが、父は違った。

「日本に来て、日本語もよう喋らん、字も書けん、読めもせん、そんな状況の中で、自分を育ててくれた両親を誰が無碍にできるんだ。」

そう父は言った。祖父母と実子だ養子だの話をしたことは一度もないという。「生みの親より育ての親だ。大切にしない訳がない。」そう父は言った。我が父ながら、極めて筋が通っていると俺は感心したもんだった。


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面白エピソードはまだまだある。

博多で交際していた日本人女性と結婚を誓い、地元に戻って同棲をはじめるも、両親の猛烈な反対にあい、お互いに泣く泣く別れを選んだ事。

お見合いを2回程実施したが、実家の借金が理由で断られた事。

聴けば聴くほど、「一般的」には不遇な人生のように思える。だが、インタビューを終えて僕が感じたことは、


・父が人生を悲観したことなど一切なかった


という事だった。そうか、だからこそ、我々兄弟姉妹が健全に育ったのだと。改めてそう思った。時代や出自に決して言い訳をしてこなかった父の姿が、確かにそこにはあった。それだけで俺はなんだか泣きそうになった。


御年73歳になる父親。幸いまだ元気でいてくれている。少なくともあと10年は生きて欲しい。俺はまだ、親孝行らしいことが何もできていないから。

頼むぜ、親父よ。長生きしてくれよな。


おわり



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