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ロボットの命

 
 あるシンポジウムでのこと。東京大学で人工生命の研究をしている複雑系科学者、池上高志氏の講演のなかで、ナム・ジュン・パイクというアーティストの作ったロボットの話が出た。

 「K-456」は、一九六三年に作られた。ワイヤーが丸見えのスカスカの体をもち、リモコンで動く不細工なロボットだった。長年ナム・ジュン・パイクと行動をともにしていたが、一九八二年、ニューヨークのホイットニー美術館前のマジソン・アヴェニューで、パイクのリモコン操作によるパフォーマンス中に、車に轢かれてしまった。「史上初の交通事故犠牲ロボット」として知られているという。

 池上氏がその話を持ち出したのは、「ロボットは命をもてるのか」という問いを提示するためだった。今の人工知能の技術やロボット工学の方向性では、ロボットは「壊れる」ことはあっても「死ぬ」ことはできない。生き物の死に直面したときと同じレベルの恐怖や動揺、悲しみ、そしてそれを超えた畏怖の感情は、バラバラにちぎれたロボットの破片を見ても「感じられない」と、普通は考えるだろう。

 だが、池上氏はレトリックを使ってその固まった感覚をゆるがしにかかった。「K-456」というロボットが、交通事故で「死んだ」という言い方をしたのだ(ナム・ジュン・パイクがそういう言い方をしたかどうかは知らない)。

 費用も労力もかけて一生懸命つくった、精緻にできあがっている、そういう意味で「手塩にかけた」ロボット。だがそうであっても、それだけなら命にはならない。「せっかく作ったのに壊れた」と思われるだけだ。「生きていた」「死んだ」と仮に表現したとしても、それはメタファーにすぎないだろう。

 だが、「このロボットは本当に車に轢かれて死んだ」と言われたとたん、スクリーンに映し出された、路上に散乱する金属の破片は、突然、得体の知れない悲哀を感じさせた。人間の身体も、電車にでも轢かれればこんなふうに意味を感じさせない肉のカタマリと化すのだろう。肉か金属かの違いだけなら、頭のなかのチャンネルをすこし操作すればスイッチできる。

 死んだ状態が似ている、それは確かにそうかもしれない。ならば、「K-456」はそれまで「生きていた」のだろうか。

 もちろんこれは逆説で、当該のロボットは命をもっていたわけではない。じゃあ何なのか。
 

 池上氏の講演はそこから別の学術上の議論に移ってゆき、「K-456」の事故現場の写真は一瞬スクリーンに登場しただけで消えたが、私はずっとひっかかったまま考えていた。

 ロボットが「死ぬ」とはどういうことなのか。ひるがえって、生物はなぜ死ねるのか。なぜ生物はロボットではないと言えるのか。
「死ぬ」ことができるロボットをもし作れたとしたら、それは「命」をもつのか、つまりそれは「生き物」なのか。
 
 演台には五人の講師がいて、丁々発止の議論が巻き起こっていた。彼らの意見はそれぞれに個性的で、これからの人工知能と人工生命研究の方向性についてすら合意には至らなかった。もちろん、そう簡単に合意できてしまえるようではつまらないから、喧嘩で終わってもいいのだが。
 
 ほんの一瞬でも、「K-456」が「壊れた」のではなく「死んでしまった」と感じた瞬間が、ほかの誰かのなかになかったか。それが気になる。
 

 (了)


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