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デザインを勉強したら何故か別のスキルが評価され始めた話

TL;DR

タイトルの通りです。デザインを勉強して、自分のデータ可視化プロダクトに活かし始めたら、なぜか企画力やプログラミングのスキルが評価されるようになりました。以下はその経緯や考察です。


経緯

僕はもともと編集部とはまったく別の部署に所属していて、データベースやウェブの設計・開発をしていた。前々からデータ分析や可視化には興味があり、データ報道に該当するような記事を作って編集部に提案していたが、ほとんどはボツになっていた。

その後「きちんとプロダクトを完成させるためにデザインの勉強をする必要がある」と感じ、イギリスの大学院に留学してデジタルデザインを専攻した。エンジニアリング関連の授業はほとんど取らず、主にデザインの勉強をしていた。

さて、帰国して、それまでよりデザインに気を遣いつつデータ可視化を作り始めると、何故か以前より技術力やデータ可視化のアイデアを褒められることが多くなった。留学前と後で変わったのは、ほぼデザインのスキルのみで、企画力やプログラミングはほぼ変わっていないはず。不思議だったけど、今は下のような仮説を立てている:

人は細部のUI/UXが良いプロダクトに接すると、それをわかりやすい原因に求める傾向がある


考察

つまり、配色とか要素の配置とかインタラクションといった細かいUI/UXによって「クオリティの高いプロダクトだ」という印象を受けると、それが技術力や企画力によるものだと思われがちになる、という仮説。実際には細かな微調整の積み重ねによって優れたUI/UXは担保されているが、細かすぎて見えづらいとアイデアや技術といった大きな要素のせいだと勘違いするのでは、と考えている。

心理学で帰属の誤謬(attribution error)という言葉がある。私たちが誰か他人の行動理由を推測するとき、その人自身の性格や気質を重視して、その場面における文脈や状況を軽視する傾向を指す。これに似ているかもしれない。

これ、たぶん広い意味での「プロダクト」全般に当てはまるのではないか。たとえば、いわゆる「どんでん返し」のある漫画や小説でも、登場人物たちの会話や細かな話の運びが魅力的でぐいぐい読ませる作品ほどクライマックスで「だまされた!」と感じる人が多いだろう。そして作品に対する感想は「どんでん返しがすごい!」となる。

もうひとつ身近な例を挙げると、服を買うとき。ちょっといい服を買うと、本来なら自分には似合わないような色やデザインでも、細部のシルエットや縫製がしっかりしているせいか、まるで自分にその服が似合っているように錯覚することがある。あるいは自分のスタイルがよくなったように錯覚する。これも同じように、細かな品質の高さをわかりやすい原因に帰属させてしまう例と言えるかもしれない。ちなみにこの錯覚は「俺けっこう色んな服いけるやん」と調子に乗って、似たようなデザインの安い服を買うとたちまち消える。

たとえばプロダクトの中身とデザインのどちらが大事かと聞いたら、おそらくほぼ全員が「中身」と答えるだろう。しかしその「中身」に対する評価はデザインによって変わりうる。もちろんそれは悪いことでも何でもないので、プロダクトを作る側としてはせっかく作った中身を過小評価されないようにデザインにも気を遣わなくてはいけない。

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