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データ報道における「停滞感」を考察する

日本のデータ報道は一時的に流行ったが今は停滞している、という意見を最近見かけた。

私はこの数年間日本のデータ報道を観察し続けているが、同じ感覚を持っている。新型コロナ禍を機に、日本の報道業界でもようやくデータ報道やデータ可視化に参入しようとする報道機関が増えたものの、その試みは多くの会社で小規模なプロジェクトにとどまり、当初の熱が消えかけているように感じる。

そもそも2010年ごろ米国や欧州で盛んになったデータ報道は、日本の報道業界においては長らく実践されてこなかった。単発の実験的なコンテンツこそあったものの、継続的にデータ可視化やデータ報道コンテンツを制作し続ける報道機関は数えるほどしかなかった。それでも徐々にデータやデジタル表現の重要性が浸透し、Flourish / Tableau / QGISといったデータの可視化・分析ツール群が多くの報道コンテンツで使われるまでに至った。それが今「停滞」に瀕しているということだ。

特に「停滞感」が強いのは、地方紙など小規模にデータ報道を進めようとしている組織が多いようだ。データ報道を始めるため、まずは無料で利用できるデータ可視化ツールを使ってインタラクティブなグラフや地図を作り始めた。そこまではよいが、ツールに出来る表現には限界がある。またデータの取得や加工については自動化できないため、使えるデータもすぐ利用できるオープンデータなどに限られる。結果として、従来とそう変わらない「記事の『おまけ』としてのグラフ」に終始する……。そんな悩みを複数の関係者から聞く。

この停滞感はどこから来るのか。話を聞く限り、根本的な原因は「データ報道の担い手が記者に限られている」ことにありそうだ。

本来、データ報道や、それに類するデジタル手法を駆使した新しいジャーナリズムは、記者だけでなく他の専門職の協力が欠かせない。ソフトウェアエンジニア、デザイナー、研究者、データサイエンティスト、etc.…。いわゆる「ペン記者」としてのプロフェッショナルと同様にプログラム、デザイン、データに精通した専門家が求められる。

しかし新聞社を中心として、まだまだ伝統的なメディア企業では記者が一番であるとするヒエラルキーが根強い。「コンテンツは記者だけが作る」「記者がすべてを決定する」という固定観念があると、それ以外の専門家が社内にせよ社外にせよ記者の手足にしかならない。たとえば、あるデータ報道プロジェクトに、デジタル分野は未経験のベテラン記者がリーダーとしてアサインされたとする。記者は慣れないデジタル分野のプロジェクトマネジメントに疲弊するし、担当するエンジニアやデザイナーは自分の意見が採用されずストレスを抱える。これは誰にとっても不幸である。

このような試みがうまくいかないと、「もう編集部門の外の人間は使わず、記者だけで作れるものを作ろう」という発想になる。そこでクイックな解決手段として重宝されがちなのがノーコードツール(コードを書かなくてもGUIで様々なアウトプットが制作できるツール)である。

データ報道が伸び悩んでいる報道機関に話を聞くと、とにかく記者だけで実行可能なソリューションを求められることが多い。たとえば「もっと高度なデータ可視化をノーコードで/無料で作れるツールはないのか」といった具合だ。よくよく話を聞くと、上のような事情が垣間見える場合も多い。

気持ちはわかるが、現実としてノーコードで表現できるビジュアルの範囲は限られる。単なるグラフや地図であれば問題ないかもしれない。配色やフォントの色など基本的な視覚要素もほとんどのツールで調整できるだろう。しかし「地図とグラフなど複数の要素を連動させる」「データを自動更新する」「そのデータにしかない特殊な要素をUIで表現する」といった「痒いところ」には手が届かない可能性が高い。そしてデータ報道やデータ可視化では、まさにその「痒いところに手が届くこと」こそが極めて大きな価値を持っている。

Flourishとて同じことだ。Flourishはおそらく日本の報道機関に最も普及しているデータ可視化ツールである。Flourishを使う人々が報道業界で増えたのは望ましいことだが、それはあくまでもデータ報道の入口として、である。Flourishが向いているのは「小さなものを素早く作る」ケースだ。最初は小規模なプロダクトでも問題ないが、いつかもっと大規模な/高度な/尖ったものを作りたい衝動に駆られるだろう。そのときはFlourishではない別の手段を使う必要がある。Flourishはいわば、すぐに乗れる自転車のようなものだ。近所に向かうためなら問題ないが、より遠くに行こうとするなら、多少面倒でもいつかは自動車に乗り換える必要がある。

データ報道の停滞感を打破し、より社会的インパクトの大きなコンテンツを作っていくのであれば、いつかはノーコードツールではなくフルスクラッチで(=ゼロから)プログラムを書く場面がやってくる。そこまで個人の記者に求めるのは現実的でない(付言しておくと、数は少ないながら記事もコードも両方書ける人材は業界にちらほら存在する。しかしそれを全員に求めるのは現実的でない)。

となれば、従来は編集工程に携わってこなかったエンジニアやデザイナーも意思決定の段階からメンバーとして迎え入れることが必要だ。

それは別に組織体制を変えるとか、新たに何人もエンジニアを雇うといった大袈裟なことではない。どの新聞社にも技術やデザインに明るい人材はいるだろう。そうした記者以外のメンバーも、記者と同様にコンテンツに対する意思決定ができるようにすることが第一歩だ。

編集部門の記者から話を聞くと「エンジニアやデザイナーはコンテンツに興味がないですよ」と言われるが、本当にそうだろうか。メディアにいる「非編集」の人たちも、多かれ少なかれメディアやコンテンツに興味がある場合が多い。というより、報道やコンテンツに興味があるからこそメディアで仕事をしているのではないだろうか。私もそうだったし、同じような同僚は最初の会社にも多かった。編集部門かどうか、記者かどうかで線を引くのではなく、より多様なメンバーを集めて多彩なコンテンツを作ることが未来のジャーナリズムには求められる。

私自身、最初に働いた出版社では記者でも編集者でもなかった。データ可視化を勉強して留学から帰国した後、最初は海外の先進的な報道機関にならって記者と協力してコンテンツを制作することを試みた。しかしそれは叶わず、結局自分ひとりでコンテンツの企画・開発・デザインから記事執筆まで行うことになった(このあたりの経緯は『データ思考入門』にも書いている)。それは振り返れば貴重な経験ではあったが、もし記者と協力できていればもっと素晴らしいコンテンツを作れていたかもしれない。

あらゆる方面で日本のデータ報道が廃れているわけではない。トップティアに目を向ければ、その試みは着実に成果を挙げている。たとえば2024年9月には、早くからデータ報道に力を入れてきた日経新聞が「新たなデジタル報道手法の開拓」を評価され新聞協会賞を受賞した。いわゆるスクープや調査報道が大勢を占める同賞において、これは快挙だ。特に「新聞技術賞」の枠組みではなく「新聞協会賞」であった点が重要だ。「優れた技術だね、でも『報道』とは関係ないね」では終わらなかった、ということだ。報道業界のエスタブリッシュメントの中でも少しずつではあるが変化のきざしは見えつつある。

データ報道をはじめとして、次世代のジャーナリズムの試みは決して記者だけの努力では完結しないし、同時に記者だけに責任を負わせるべきでもない。まずは編集部門の議論を社内に開き、多様なメンバーの意見を取り入れてはどうだろうか。

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