私がクリスチャンになったわけ

子ども達が出演したミュージカルの興奮冷めやらぬ深夜にこの記事を書いています笑
私のお誘いで何人か来場いただきましたが、”なぜこのボランティアをしているのか”とか”なぜこの教会に通っているの?”とか説明が必要なこともあったので、それを書いてみようとなった今日この頃(2022.12.10 2:30)です!


直接的なきっかけは妻からの誘い

大学2年生の頃でした。確かGWに教会全体で行っていた花見に誘われたのがきっかけだったと思います。暇だったし、若干の下心?(笑)もあったので、イベントに参加しました。当時は付き合ってもいなかったし、ただの大学のサークル仲間という関係性です。
教会の方々の笑顔と積極性と自然な感じ(何とも表現しがたい)が印象的でした。

宗教をしているという感覚ではない

キリスト教を信じると告白する洗礼を受けたわけですが、”宗教をしている”という感覚ではありません。
私の実家はジャパニーズスタンダード(神棚と仏壇がある)。高校時代は、浄土真宗の高校でしたので、他の宗教も知っていました。日本人のごく一般の肌感覚(宗教は怪しい、お金を騙し取られる)みたいな感覚もしっかりと持っていました。
でも以下の3点で結果的にクリスチャンになったわけです。

  1. 自分(人間)という存在を進化の連続という偶然の産物と認めたくなかったから

  2. 奇跡的な出会いを通じて”偶然”というよりも”神様がいる”と思った方が自然だと思ったから

  3. 聖書に不幸になるような部分を見つけられなかったから

自分を偶然の産物と認めたくなかった

日本では”進化論”を学びます。単細胞生物から長い年月を経るうちに突然変異が起き、段々と姿かたちを変え、人間が誕生したというやつです。進化論を信じていたというよりかは、そう習ったからと疑ってもいませんでした。
でも、よく考えたら”たまたま出来ちゃった”の連続でこんな繊細な動物が出来あがるでしょうか。
私は、折り鶴ですら手順書”や作ってみた動画が無いと作れません!
設計者不在ではなく、この自然を創った設計者がいると私は信じています。
自分自身が偶然の産物で目的無く存在しているというより、目的を持って生まれたと信じた方が納得がいくと信じたのです。

奇跡的な出会いを通じて”偶然”というよりも”神様がいる”と思った方が自然

実家になぜか、今回子ども達が出演した”子どもミュージカルのVHS(ビデオ)”がありました。実家と今の住居は200キロ以上離れているし、妻に教会に誘われたときには子どもミュージカルのことも知らなかったし。私が同じ下宿の友人に誘われサークルに入らなければ妻とも出会っていないわけだし。
…と出会った確率が低いと証明できるエピソードは沢山あります。
これも「偶然だったね」で済ますよりも、「神様が引き合わせた」と思った方がしっくりくるなと感じたわけです。

このような絶妙な縁で人と人は結ばれているのではないかと思います。一個人としては”筆者との出会いが私の人生に大きな影響を与えた”と言われるのが、目標であり、それは教育業界に関わる身として最大の褒め言葉かもしれません。

聖書に不幸になるような部分を見つけられなかった

一見、「無理だよ」と感じるものもあるし、私は欠けばかりの人間なので、聖書のおすすめが実践できていないことも沢山あります。
また、”最も良いことを神様が用意してくれている”と聖書に書かれていても、希望の就職先から不採用通知は届くし、ケガもします。短期的には「不幸だな」と思ってしまうのです。

振り返るとその不採用通知があったから、今の職場に勤めているし(とても満足している)、ケガが無かったらもっと大きな事故に遭っていたかもしれません。
ということで今のところ、聖書の言うことで不幸になる部分を見つけられていません(あったら教えてほしいです)。

まとめ

12月はクリスマスの季節。
クリスチャンもそうでない人も盛り上がる時期です。
本物のクリスマスを是非教会で味わっていただけたらと思います。
「怪しいので確かめに来たぞ!!」と教会を襲撃してもきっと、「クリスマスおめでとうございます!!!」とあたたかく迎え入れてくれるでしょう。
ではメリークリスマス。

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