令和の時代に赤塚不二夫「レッツラゴン」を考える
最近、内田樹さんが「街場のマンガ論」(小学館、2010年)の中の養老孟司さんとの対談で以下のように言及しているのを見つけました。
赤塚不二夫は「壁を破った人」なんですよ。ぱっと開いたら見開き真っ白、みたいな。(中略)終わりのころは『天才バカボン』でほとんどマンガジャンルの限界に挑むようなとんでもない冒険をいっぱいやっている。それがアヴァンギャルドじゃなくて、毎週何百万部か出ているきわめてポピュラーな雑誌でやっていて、それがまたいちばん人気があった。つまり「赤塚不二夫は外せない」っていうポジションを作っておいてから、めちゃくちゃなことをやった。結果的に後続世代に「やりたきゃ、何をやってもいいんだよ」っていうメッセージを伝えた。赤塚不二夫の最大のメッセージはそれに尽きると思うんです。(同書231〜232ページ「サブカルチャーの代表・赤塚不二夫」より)
本稿の結論が、すでに指摘されていました。これを引用して本稿を終わりにしたいところですが、それではあまりにも何なので、自分の言葉でも解読を試みます。
赤塚不二夫先生の最も油が乗り切った時代とされる1970年代に「天才バカボン」と同時並行で連載されていたのが「レッツラゴン」です。タモリさん、娘さんの赤塚りえ子さんなど、本作のファンとされる著名人は多く、ここでは、本作のあらすじ、及び登場キャラクターの紹介はすべて割愛し、以下に本作の特徴をいくつか簡易に挙げてみます。
・しゃべる動物のキャラが出てくる(筆者のプロフィールに使わせていただいているウナギイヌは「天才バカボン」のキャラですが、本作にも登場します)
・時事ネタが頻繁に出てくる(例:あさま山荘事件)
・文学ネタが頻繁に出てくる(例:走れメロス、イワン・デニソーヴィチの一日)
・ミュージカルネタが頻繁に出てくる(例:美空ひばりの歌詞を使ったセリフ)
さらに暴力や死をネタにした自爆的(?)バッドエンド、差別的ギャグ、実在の編集者が登場するメタフィクションの多用などが挙げられます。
「赤塚不二夫の特集」(和田誠責任編集「赤塚不二夫1000ページ」を再構成した本。話の特集、1997年)の中で、金井美恵子さんは「バカボン」と「ゴン」の後期には(個人的好みと前置きした上で)否定的評価であり、その理由として、セリフの長尺化とともに、楽屋落ちとオネエ趣味が嫌味に走りすぎていたことを挙げておられました。こうした特徴は、本作に限らず赤塚作品の負の要素としては的を射ていると思われます。実際、「レッツラゴン」は巻を追うごとにあえてタブーに挑むようなネタが増えていき、ときに画風も乱れ、「何かにつけて切腹を命じる株式会社」「天才脳の少年の頭におからを入れて知能を低下させる」といった令和に限らずともいつの時代にもアウトという話が多くなっていきます。
洗礼を受ける前後に、単行本をすべて手放した自分にとっても、記憶を辿ってみると本作の大部分は下品で過激なだけで、それほど面白くないものが多いのが率直な感想です。
元々自分は、ギャグマンガを読んでも笑うことは少なく、心の中で「面白い、おかしい」と楽しむタイプなのですが、本作は(特に後期は)面白いというよりも「驚く、あっけに取られる、もしくはア然とする」というほうが正確だったような気がしました。
それでは、そんな欠点(?)を重々承知の上で、赤塚マンガの集大成であり到達点ともされる「レッツラゴン」の面白さは一体どこにあるのでしょうか。
結論からいうと、本作は1〜4巻までは普通に面白いです。4巻は、作者と担当編集者が開き直って悪ノリし、本格的に狂っていったとされる「伊豆の踊り子」が掲載された巻です。
個人的にはむしろ4巻までのほうが、テンポ、掛け合いのギャグ、テーマも1話ごとに比較的分かりやすく、中身も濃く完成度も高くて楽しめる作品です。特に、4巻に収録されている「東京ちゃわんむし」(カッパに似た少年とベラマッチャの絆を感動的に描くが、ラストのセリフは「りっぱなバナナになれよ‼︎」である)と「シラノ・ド・ベラマッチャ」(パロディのためストーリーがしっかりしていてオチも強い)には、ある意味、世の中と人間に対して絶望しきった人間が描くことのできる、屈折した希望と愛情が描かれています。
本作を総合的に見るなら、(一部を除くと)本作の世界観をひととおり受け入れて楽しめる人が、続けて惰性で読んで楽しめないとちょっと厳しいかもしれない内容ばかりになっていきます。一言でいうならば、破綻の妙味を楽しむというスタンスです(こんなことを書くと、分かっていないと怒られるかもしれませんが)
たとえば、ストーリーと脈絡なくたびたび出てくる茶わんむしとスプーンの夫婦の会話、散々悪事を働いた挙句に自爆する目ん玉つながりのおまわりさん、何もないところから電話が鳴り、普通のキノコを笑いダケと信じて笑い転げる熊のベラマッチャ、ゴンのおやじ以外には誰も乗っていない電車を満員電車と表現するなど、完全に「だれもついて来ることができない」狂気の世界線へと突き進んでいくのです。
なんでもあり、これは裏を返せば「だれも考えつかないものであれば、たとえつまらなくても面白い」ということになります。
世の中には「面白いけどあまり好きではない」作品と、「あまり面白くはないけど好き」な作品があります。それは、究極的には受け手の感受性に委ねられている訳ですが、「レッツラゴン」は作品そのものよりも、作り手の姿勢そのものに評価のポイントが多めにつけられているマンガだと感じます。そういう意味においては、一読の価値はあるでしょう(再読したらまた違った感想を抱くかもしれませんが)
なお、4巻に収録された「バイオレンス・ショック」は、本稿を書くきっかけともなる非常に印象的なインパクトのある話です。
内容は、文章で説明しても伝わらないとは思いますが、あえて簡略化すると、
だれかを半殺しの目にあわせたいと思う男→わざと弱いフリをして助けを求める→ベラマッチャが男を助ける→男は萎縮した態度でベラマッチャをイライラさせる→男をボコボコにするベラマッチャ→男「お前を半殺しにするとき、憎さ100倍になるように弱いフリをしていたのさ」と豹変……そして最後に男はなぜか「里の秋」をしみじみと歌いあげながらベラマッチャを血祭りにする描写が丁寧に描かれ、やがて川に身を投げます。顔が5倍に腫れ上がったベラマッチャが布団で寝込んでいる隣で、一緒に暮らしているゴンとゴンのおやじは「人間なんか助けるからだ‼︎ ざまあみろ‼︎」といってニコニコ笑っているというのがオチです。怖いというか、笑いどころが完全に分からないサイコな話ですが、何かと炎上、炎上といわれる昨今、なんとなく身につまされはしませんか。
よく、本作以降の赤塚不二夫先生はマンガ家としてダメになったといわれますが、必ずしもそうとは思えません。
晩年の2002年、赤塚不二夫先生は、野中英次先生の「魁‼︎クロマティ高校」4巻帯に以下のような推薦文を寄せています。
「このマンガは面白い‼︎ けど読むヒマは無かった。」
取るに足りないレビューとなってしまいましたが、結論としましては、赤塚不二夫先生は最後まで現役のギャグマンガ家であり続けたのです。
追記…「レッツラゴン」は手塚治虫先生の主な作品と同じくスターシステムを採用しているため、一度死んだキャラも翌週以降何事もなかったかのように登場する。
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