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「中立」と言うこと【221024】

 先週の北大CoSTEPの講義でエンハンスメントの倫理が取り上げられていた。講義には直接参加できず、残念ながら聞く事は出来なかったが、このテーマも前から注目している事の一つなので、どんなdiscussionがあったのか、ぜひ知りたいと思う…

科学の伝わり方

 エンハンスメントの様に、実は知らず知らずのうちに、思いもかけない形で自分たちの身近に新しい科学技術が使われている、と言う事が案外ある…と言うか、多くの場合、使う側、あるいは「使わされている」側は、単に「便利」になるからとか、これまでできなかった事ができる様になる…程度で、まぁ理解できたかどうかお構いなしになしに、気がついたら当たり前になっていた…なんて話が少なくない。多くの場合、物事にはオモテとウラがあり、オモテが輝かしく見えるものほど、ウラの闇が深かったりするのだけど、オモテ面の光ばかりに目がいって、足元に広がる闇の深さに気づけない、いや、闇が拡がっている事さえ知らない…事が実は多い、のではないか…これは明らかに科学コミュニケーションの欠落、あるいは方法論(欠如モデル、の様な…)の誤りがもたらした結果、と思われるのだが、科学技術が人類にとってバラ色でしかないならば、それでも良いのかも知れないけど、社会に対する影響が大きいものほど、それがもたらすネガティブな側面も同時に伝えて行く事が不可欠だと思う。

科学コミュニケーターの立ち位置

 これぞ科学コミュニケーションの意義、科学コミュニケーターの出番!と言う所だけれど…科学コミュニケーターは、自分の立ち位置を光と影のどちらに寄せるのだろう…いやいや、コミュニケーターはあくまで「中立」な立場ですよ….なんて声が聞こえてきそうだけど、「中立」って、そもそも成り立つ?あり得る?のか…中立って、例えば専門家と非専門家の集団があったとして、自分はそのどっちの味方でもなく…って事なのだろうけど、それって可能ですか?例えば、医学の専門家が新しい技術を解説する際、例えそれが自分の専門とは必ずしも言えない内容であっても、自らのidentityの影響抜きに語れない…  
 専門家という時点で、すでに「中立」には立ち得ない…のではないか。noteの記事の中にも科学コミュニケーターは大学院生や、専門家にしても若手の方が良い…と言う記事を見たけれど、それはある種の印象操作?の様な感じがする。歳をとっていようが若かろうが、専門家と非専門家、持っている情報量の格差を補えるものではないのではないか。モチロン、若手の方がコミュニケーションがしやすい(…話しかけやすい、とか…)と言う事はあるのかもしれないけれど…それは「中立」とは別次元の話ではないか。
「中立」とは、力が拮抗する二つのグループ間にいるのであれば成り立つのだろうが、専門性を有した人が科学コミュニケーターとして働くとしたら、やはり「中立」はあり得ない…のではないだろうか。

改めて「中立」を考える

 「中立」と言う言葉を聞くと、いつも水俣病の患者救済に尽力された原田正純先生の「圧倒的に強い者に弱い者が立ち向かおうというときに、『中立である』というのは弱者のほうにつくということ。元々対等ではない者どうしの間に立ったときに何もしないのは、強いほうに味方することにしかならない」と言う言葉を思い出す。

https://www.iwanami.co.jp/book/b262656.html

 これは経済力や政治力など、それこそ圧倒的な力の差が存在した水俣病の現場から原田先生が学び、実践された事から出てきた言葉で、必ずしも科学コミュニケーションにそのまま当てはまる事ではないかもしれないが、「科学を伝える」と言う事を考える際に、噛み締めてみる必要がある言葉じゃないか、と思う。

改めて、あなたは「エンハンスメント」を科学コミュニケーターとしてどの様に語りますか?

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