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男女“平等”とは何か

男女平等、極めて重要な事である。2人の女児を育てる親としても無視できない問題だ。

だが、“悪平等”にならないよう注意が必要だ。男女の生物的な違いを無視するのは、真の平等とはまるで違う。

ときどき、「平等(Equality)」と「公平(Equity)」は似ているが微妙に違うと主張を聞く。辞書的に本当にその違いがあるのかは私にはよく分からないが、とても大切な視点だと私も感じる。私が真の平等と考えるのは、この主張でいう「公平」のことだ。

この主張では、「平等」とは、人々が同じ扱いを受けることを指す。すべての人に同じルールや規則が適用されることを意味する。
一方の「公平」は、公正な判断や配分がなされることを指す。個々人の属性や状況に合ったルールや規則が用意され、皆に適切な機会が与えられる。

例えば、スポーツで同じ経験年数なら競技によるかも知れないが基本的に女性は男性に勝てない。生物的な傾向として、明らかに男性のほうが身体的能力が高いからだ。それを同じ土俵で競わせるのは「平等」かも知れないが、「公平」ではない。女性の活躍の場を奪うだけだ。

男女を同じ土俵で競わせる? そんなバカな判断はしない、と思うかも知れないが、(若干話しは広がり複雑になるが)、実際にそういう事例はすでに起きている。

アメリカでは、肉体は男性で性自認は女性であるトランスジェンダーの水泳選手が、複数の女子大会に出場して、どれも優勝したという。

https://www.afpbb.com/articles/-/3387515

国際水泳連盟はその後、出場条件を変えたそうだが、本来優勝できたはずの女性選手の活躍は奪われてしまった。
生物的な違いを無視した「平等」の“好例”だ。
“彼女”がトランスジェンダーであること自体には何も問題はない。人生の様々な点で努力してきているだろうから、それは評価できる。だが、男性の肉体を持ちながら、スポーツ選手として、女性の大会で“勝利”する、というのは全く「公平」ではない。
“彼女”一人の問題ではなく、出場を支援する人々、その出場を認めた人々、試合を応援する人々など、多数の人が、生物的な違いを無視した“平等”を実際に支持しているのだ。


また、例えば、性暴力の被害に遭うのは、無論男性の場合もあり無視してはいけないが、ほとんどは女性である。
それを、“男女平等”なのだから電車から女性専用車両は撤廃すべきだ、等と言うのは言葉に囚われ現実を理解していない人の言説だと思う。

一方で、知的活動においては、思考の仕方にある程度の傾向の違いはあるかも知れないが、男性が女性より優れている、などということはない。
だから、本人が望むのであれば、女性が社長業でも、総理大臣にでもなることに何も問題はないどころか、そこまでの努力は大変に素晴らしいものだ。
そして、同様に、男性が誠実に努力し続けた結果、社長や総理大臣になったのであれば、それもまた素晴らしい。


“悪平等”ではなく、「公平」であることに努め、
男女双方、またトランスジェンダーの人々、それぞれが、それぞれの価値を認められ輝ける社会にしていきたいと思う。


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