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男女共同参画に多大な貢献した方に贈られる「荻野吟子賞」って何。荻野吟子さんって?誰?

このことを、noteにしたかったのは、僕の友人が個人大賞受賞して。2/7午後から授賞式に参加することになったからです。

今回の荻野吟子賞の中で、個人大賞を受賞した
友人の酒蔵の女性杜氏 醸造家の佐藤麻里子さんの話は下のリンク先で、noteに書かせて頂きました。

(有)佐藤酒造店杜氏。大学在学中に、彩の国酒造り学校で酒造りを学び、平成27年に実家である(有)佐藤酒造店に入社。酒造りは男性が行うものという考えが強い酒造業界において、県内初の女性杜氏となり酒造りの責任者として蔵人を率いる。2019年、2020年には全国燗酒コンテストで金賞を受賞。

日本酒需要が低迷する中、女性や若い世代のニーズに応える酒造りに取り組み、自ら新商品の開発やデザインも手掛ける。(越生町在住)

今回は「男女共同参画」や「荻野吟子」さんに
ついて。思う事を書かせて頂きます。
埼玉県が荻野吟子賞の授与の考え方については
下のリンク先から、ご覧ください。

本県では、日本最初の公認女性医師となった荻野吟子の不屈の精神を受け継ぎ、男女共同参画社会の実現に向け先駆的な活動を行った個人・団体や事業所に「埼玉県荻野吟子賞」を贈っています。

との事。
埼玉県民である私も、知りませんでした。
友人の佐藤麻里子さんが、選ばれなければ
永遠に知らなかったかもです。

ただ「荻野吟子」さん
そのものは知っていました。

埼玉県に偉人として有名な方です。
あのお札の顔になった
埼玉ゆかりの偉人である渋沢栄一さんが
主人公の大河ドラマ「青天を衝け」
が2月から放映を開始しましたが
渋沢栄一さんと並んで
荻野吟子さんは
埼玉県の偉人3人衆の1人です。

荻野吟子さんは、映画にもなっています。
俳優さんも、山本耕史 さん賀来千香子さん、佐野史郎さんなど豪華です。

荻野吟子 記念会館も、あります。

「女医のパイオニアは埼玉出身!荻野吟子」マンガPR冊子を作成しました。
荻野吟子の功績とその不屈の精神を、若い世代をはじめ広く多くの方に知っていただくために、マンガと解説からなるPR冊子を作成しましたので、是非ご覧ください。

〇マンガPR冊子「荻野吟子~女医のパイオニアは埼玉出身!~」は、以下の県男女共同参画課ホームページに掲載しています。

掲載ページURL(男女共同参画課ホームページ)
荻野吟子さん。江戸時代末期の嘉永4年(1851年)、現熊谷市俵瀬に生まれました。18歳で結婚しましたが、不慮の病に罹り2年ほどで離婚しました。この時、婦人科の治療を受けたことから、女性医師の必要性を痛感し、医師となることを決意しました。

しかし、当時、女性には医術開業試験の受験が認められておらず、制度改正に奔走しました。その際、「令義解(りょうのぎげ)」という古文書に女医の記述があることを訴えたと言われています。この「令義解」を校訂し、後世に引き継いだのが埼玉の偉人「塙保己一(はなわほきいち)」でした。

こうして吟子は様々な困難を克服し、明治18年(1885年)、医術開業試験に合格、日本で最初の公認女性医師となりました。

開業後は、診療活動に加え、婦人解放運動等の社会的活動も担い、女性の地位向上や衛生知識の普及にも大きく貢献しました。大正2年(1913年)、62歳で永眠し、栄光と波乱に満ちた生涯を閉じました。

もう少し荻野吟子さんを、調べてみると

なんと北海道のせたな町の公式サイトで
大きく取り上げられています。

理由は、荻野吟子さんが、明治30年(1897)2月16日伝導に専念する志方を利別(今金)に残し、吟子は瀬棚会津町に移り医院を開業したからです。このせたな町と荻野吟子さんの関わりが深い事に。埼玉県民の1人として恥ずかしいですし
埼玉県民の1人として伝えたとnoteにしています。


せたな町では、荻野吟子さんの苦労を
女性としての苦労として
その時代を映しています。

■結婚後程なくして健康を害し、ひとまず実家で静養ということになり、離縁に至るのであるが、その病気は当時不治の病と言われた性病で、後に上京して順天堂病院で治療を受けることとなる。

■この頃、我国の医学界では女医の制度がなく、吟子の治療に当ったのも男性の医師であった。 業病といわれた性病の治療を受ける際の、女性にとっては何ものにも耐え難い羞恥と屈辱が、同性の人々に自分と同じ思いをさせてはならないと、医師になることを強く決意させたのである。

■吟子はこの希望を実現させるべく、学問を始めるのであるが、生来の利発さと、大きな目標に向かう強い意志とで、どこでも抜群の成績で修学している。しかし、学問は個人の力で如何様にも成し得るが、女医を認めないという制度や習慣の壁は、吟子の前に大きく立ちはだかり、目標達成に向かって邁進(まいしん)しようとする前途を苦難に満ちたものとするのである。
■上京して井上塾に入門。東京師範学校卒業。

■吟子の医師希望の強いことを知り、当時の医学界の有力者が2~3の医学校を紹介してくれたが、女人禁制ということで、いずれも断られた。しかし、更に努力の結果、私立医学校「好寿院」が受け入れてくれることとなった。ここで3年間の勉学を続けたのであるが、この間は家庭教師をしながらの、苦闘の3年間であった。

■好寿院では女性ということで種々の困難があったようであるが、3年間の通学は、男子用の袴(はかま)に高下駄(たかげた)の男装であったという。

■女医の道を拓く第一の難関は、医学校へ入ることであったのだが、苦学を続けながらも好寿院の課程を修了したのである。

■好寿院を終えて第一の難関を突破したものの、次に待っていた第二の難関は、医師となるための開業試験に合格することであった。この試験に向けて、吟子は再三にわたり願書を提出したが、女性なるが故をもって全て却下されてしまった。

■吟子はまたもや苦難の道を歩むことになるが、初志貫徹の意欲は堅く、最後の難関を乗り越えるべく涙ぐましい努力が続けられたのである。

■兄弟たちは吟子の医学志望に最初から反対であった。それを押し切って、ここまできた以上、吟子にとっては今更諦(あきら)めることは到底出来得なかったのである。これこそ、新しい道を切り拓く者の歩まねばならぬ先人の通る苦難の道であった。

■この頃のことを、吟子は「女学雑誌」354号にこのように書いている。
「・・・願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。 恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 ...親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」

■この文面から吟子の万策尽きた様子がうかがわれるのであるが、 しかし開業への思いは堅く、どうしても実現できないときには、最後の手段として、外国での資格取得も考えていたようである。 

■医師開業に向けての吟子の決意には並々ならぬものがあったが、しかし、これの実現を見るには、吟子を支え励まし続けてくれた人々のあったことを 見逃すわけにはいかないだろう。そのように考えると、初婚に失敗はしたものの吟子は人間関係には恵まれた、幸運な人であったと思われるのである。

■開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して衛生局局長、長与専斎に紹介している。

■吟子に依頼を受けた石黒忠悳(ただのり)も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ、「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と喰いさがったそうである。

■吟子も、好寿院に入る際、いろいろの書物を捜し、「令義解」という本に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ、このことを強調したのであるが、高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に与えたのである。

■吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになった。

■このようにして前途が開け、明治17年9月の前期試験に受験し、女性受験者4名のうち、吟子がただ1人合格したのである。

■そして、翌年3月には難関とされる後期試験にも見事合格したのであった。

■女医第一号はこのようにして誕生したのであるが、開業当時は、「女に医者ができるか」と世間から酷
評を浴びたようである。

■吟子女史の偉大さは、開業後の成功うんぬんよりも当時は女人禁制とされていた医学校に入学を認めさせると共に、開業試験への堅い拒否の扉を開かせ、日本医学界に女性進出の道を切り拓いた先駆者としての功績にある。

■この偉大なる功績は我国医学界において永遠に燦然(さんぜん)と輝き続けるものである。又、偉大なる吟子女史が開業し、その傍(かたわ)ら婦人運動やキリスト教の布教などに活躍されたせたな町は、町民あげてこれを誇りとし、その業績を讃えるものである。

埼玉県として
荻野吟子賞を設ける中で
男女共同参画として

荻野吟子さんの名前の賞を
設けた理由が少しわかりました。

現代風に荻野吟子さんを考える中で
上のネット記事に出会いました。
下の言葉に心を惹かれます。


うん。

荻野吟子さん

そして今日。荻野吟子賞 個人大賞受賞する
友人の佐藤麻里子さん

時を創った美しきヒロイン


本当におめでとう。

そして僕は男として
全ての女性に対して

猛省しながら

日々、生きていかなければ
いけないな

と心から思う日になりました。

本当はこんな賞が無く
男女共同参画が当たり前に
ならないといけない。


そう思うと「おめでとう」以上に
いつもありがとう。

かもしれません。

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