いよいよ花見ですね!おすすめ佐藤酒造店の日本酒と花見の歴史と桜餅の始まり
いよいよ桜が満開になる花見の時期になりました。
越生の桜もいよいよ満開になります。
Twitterのけろ山さんの写真。素敵です!
いよいよ越生の桜の季節と
けろ山さんの写真は「まさに越生の桜」と言う
イメージ上手な写真だと思います。
新型コロナ禍なので、大きな集まる場所での
花見の宴会はなかなか出来ませんが
ほんのちょっと、自分の家の周りを歩くと
素敵な桜が本当に沢山、咲いている事に
「気付ける」事は、新型コロナ禍だから
気づけたと僕は思うんです。
だから、世間の桜の名所。
よりも
自分の家の周りの桜の名所
を見つけたいですね!
もう桜が散りますから!
さて、この時期。
越生の佐藤酒造店まで。
思い切って、ドライブして欲しいものです。
蔵元の直売所しか買えないお酒。
手に入れたいですね。
ほんの一例、おすすめ紹介します。
なんと言っても、花見酒。
佐藤麻里子 杜氏が、この時期に合わせて醸造した
直売所で絶対買うべき1本です。
わんわんがお迎えしてくれる?笑
わんわんのエプロン可愛いですよねー。
2本目は「越生梅林 純米吟醸 原酒」
前掛けエプロン付き可愛い❤︎ですよねー。
3本目と4本目は「にごり」の飲み比べです。
絶対「飲み比べて」ください。
そこに価値が何十倍にもなります。
にごりってなぁに?は下のnoteで書かせて
頂いてますので、そちらをご覧頂ければ幸いです。
春のイメージにぴったりな素敵なにごり酒。
純米吟醸の原酒の桃色にごり酒は
新鮮すぎて、栓を開封すると中がかなり吹き出します。本当に吹き出します。笑。
シュワシュワ。凄いんですよ。
でも凄い!体験できます。
白いにごり酒もめちゃ美味しいので。
必ず飲み比べて欲しいなぁ。
最後におすすめは
越生梅林 しぼりたて新酒です。
しぼりたて純米吟醸 新酒
佐藤酒造店の酒蔵で買う
最大の価値は
「鮮度がずば抜けて高い!」
本当に行く価値あり
です。
是非、佐藤酒造店の蔵元直売所まで。
足を運んでみてください。
酒蔵の桜の花も是非お立ち寄りください。
昨日の越生さくらの山公園の写真をTwitterで
越生の桜。是非、佐藤酒造店まで
酒蔵応援よろしくお願いします。
現在は花見というと桜の花が真っ先に思い浮かぶが、江戸中期までは梅の花見(梅見)が主流であった。
そもそも花見は奈良時代に中国から伝来した風習だが、当時の中国は唐王朝である。この時期は遣唐使が派遣されるなど、日本史のなかでもとりわけ中国の影響が強い時代だが、まずは朝廷の行事として取り入れられた。
当初の花見は梅の花を愛でる行事だったが、平安時代に入ると桜の花見もはじまる。
弘仁3年(812)、嵯峨天皇が御所近くの神泉苑で「花宴之節」を催したが、これが桜の花見の最初とされる。これを契機に、桜の花見も天皇主催の行事として定着していく。
梅、そして桜の花見は、朝廷を構成する貴族社会を発信源として社会に伝播していったが、やがて武士たちの間でも花見が広まる。
豊臣秀吉が晩年に催した「醍醐の花見」などは、その壮大さが後世まで喧伝される大イベントとなった。秀吉は京都の醍醐寺三宝院内に700本もの桜を植樹させ、正室の北政所や側室の淀殿たちと花見を大いに楽しんだ。
泰平の世の江戸時代に入ると、花見は大衆化する。貴族や武家、上層町人に限られていた花見を、裏長屋住まいの江戸っ子たちまでもが楽しむようになったからである。
さらには、梅や桜だけでなく躑躅や菊の花見も楽しむなど、季節ごとの花を愛でるようになったことで、「梅に始まり菊に終わる」というフレーズも生まれた。花見の多様化だ。ここに、初春の梅見にはじまり、秋の菊見で一年が終わるという習慣が定着する。
花見をプロデュースした将軍吉宗
江戸時代はそんな花見の文化が花開いた時代だが、そこで八代将軍徳川吉宗が果たした役割は大きかった。隅田川堤や飛鳥山など、桜の名所の生みの親だからである。
吉宗が将軍の座に就いた頃、桜の花見の季節になると江戸っ子は、現在上野公園となっている寛永寺の境内に繰り出すのが定番だった。
現代も花見の時期になると、公園内は花見客でいっぱいとなるが、花見となれば飲食が付き物である。酒が入ると、その勢いも手伝って、度が過ぎてしまうことも少なくなかった。
将軍の墓所も置かれた寛永寺境内での騒ぎは、幕府にとって頭の痛い問題であったが、吉宗は一計を案じる。遊楽地が乏しいことに原因があるとして、江戸の町に桜の名所を作ろうと思い立つ。
享保2年(1717)から、江戸東郊の隅田川縁(墨堤)への桜の植樹を開始し、同5年(1720)からは、江戸北郊の飛鳥山にも桜を植樹しはじめた。以後、江戸っ子は隅田川縁や飛鳥山に繰り出し、心ゆくまま花見そして飲食を楽しむようになるが、隅田川縁では副産物のような形で、長命寺桜餅という名物まで生まれた。
隅田川縁の長命寺で門番をしていた者が、桜の落ち葉を塩漬けにし、その葉で餡入りの餅を挟んで販売したのがはじまりだった。
『南総里見八犬伝』の著書で知られる曲亭馬琴によれば、文政7年(1824)には塩漬けされた桜の葉が77万5000枚にも及んだ。
当時は餅一つを桜の葉2枚で挟んだことから、年間38万7500個の桜餅が製造されたことになる。今も人気の長命寺桜餅は、江戸の花見文化から生まれた食べ物であった。
飛鳥山の場合は、元文2年(1737)2月に、吉宗が家臣を連れて酒宴を催している。将軍自ら範を垂れ、飛鳥山での花見を推奨したのだ。花を愛でるだけでなく、その際の飲食も勧めたことが窺えるが、翌年には花見客が飲食を楽しめるよう、水茶屋54か所の設置を許可する。
その結果、飛鳥山は桜の名所として賑わいに拍車が掛かり、観光地化が進展した。後には、高級な料理茶屋も山麓に立ち並ぶほどになる。
ちなみに、吉宗の頃の桜はサトザクラ、キクザクラ、ヤマザクラ、エドヒガンであった。現在、最も植栽されているソメイヨシノは、幕末に入ってから登場した品種である。
明治に入ると、桜の花見は観桜会という名のもと、天皇や皇后が臨幸する行事としても注目される。明治14年(1881)、旧江戸城である皇居内の吹上御苑に、内外の賓客が招待されて花見を楽しんだのが最初で、その後、会場は浜離宮、新宿御苑と変遷した。
戦時中は中止されたが、戦後に春の園遊会として復活し、現在では春の風物詩となった。桜の花見に箔が付き、その賑わいに大きく貢献していく。
花見の日本史を辿ると、現在もみられる光景が随所で顔を覗かせているのである。
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