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現代版組踊「獅Leo~會津宰相氏郷」の初公演を観よう!

はじめに~自己紹介

 現代版組踊「獅Leo~會津宰相氏郷」の初公演開催にあたり、魅力あふれる蒲生氏郷公について、調べたことを話す機会をいただいたので、その内容をここに記録しておきたいと思います。
(歴史のプロではなく、原典にあたり、丁寧に研究したわけではございません。出典の明記もできていない箇所が多々ありますが、ご容赦ください。)

 何事にもつけて、ご縁の積み重ねにより、今ここにいさせてもらえることに感謝します。私は、會津地域の建設業の会社で、いわゆる後継者として、4代目の経営者をしています。これ自体が、ご縁に導かれ、決意をもって挑んでいるチャレンジです。簡単な自己紹介に留めますが、生まれ東京の千葉県育ち。といっても、家があっただけで、中高は茨城のつくばへ通い、大学は東京へ通い、就職しました。結婚して會津にきて、8年経ちますが、それまではずっと首都圏で生活してきました。
 會津には、最近まいりました、まだまだ「余所者」です。

 加えて、少しだけ、弊社・株式会社金堀重機のご紹介をすると、建設業の専門工事業者であり、クレーン車や生コン圧送車という特殊な建設機械を職人が操作し、公共工事でも民間工事でも、建築にも土木にも、幅広く、會津中のお客様から、お仕事をいただいています。建設業は、地域をつくり、地域を守る仕事です。ですが、世間一般との直接の接点は、あまりありません。なので、意識して、地域貢献活動を何かしていないと、地域から離れてしまう危惧を抱いています。

私達の大義
「あいづごころで日本を照らす誇りある郷土をこどもたちへ」 

「あいづごころで日本を照らす誇りある郷土をこどもたちへ」私達の掲げる大義です。とても大それたことを言っていますが、本氣です。商売の基本は地域を意識することであり、そうして日本人は地道に商売を拡げてきました。
 いわゆる「近江商人」の「三方善(よし)」にある商いの精神です。蒲生氏郷公のルーツである日野城下から商売を営んだ日野商人も、もちろん近江商人です。「三方善」とは、「売り手よし、買い手よし、世間よし」のこと。自分の利益の為だけを追求していても、商売はうまくいきません。お客様というお相手があっての商売なのです。 
 一方、目の前のお客様のことだけを考えて、自らが犠牲になり、尽くしていては、それもまた疲弊してしまい、やはり駄目です。「従業員重視」「顧客満足」いずれも大事ですが、一方に偏らずに、「中庸」を追求しようとしたとき、自ずと浮かび上がるのは、「世間善」の発想です。地域社会に資する商いを追求していけば、全てが善で、円く治まる。 
 近江商人の多くは、天秤某を担ぎ、行商に出かけていきました。よその土地に入って物を売り歩くわけですから、最初は、煙たがられてしまう。そうではなくて、皆に喜ばれる商いをすることを心掛け、利益が出れば、無償で学び舎や橋を整備し、地域=世間に資する貢献をしていきました。「世間善」の為に、何が出来るかを常に考えて行動したのです。 
 これが商売の基本であるという近江商人の教えに学び、私達の会社では、自分達らしく実現できる「世間善」を追求し、中学生の職場体験、高校生のインターンシップで子ども達に建設業に従事する職人の働き方とは如何なるものかを伝えています。また小さい子ども達にも重機に親しんでもらう機会を増やそうと保育園から遊びに来てもらったり、会社をオープンにして、感謝祭を実施しています。今年、令和5年も5月7日(日)に敷地を開放して行います。

金堀重機感謝祭は、令和5年も5月7日に開催します!

 こういう機会は、1年に限られたタイミングでしか、出来ませんから、他に、週に一度、会社周辺でごみ拾いをしたり、地域のイベントに協賛するなど、出来ることを小さく続けたいと思っている会社です。
 さて、そんな私が、どうして氏郷公について語るのか?

現代版組踊「獅Leo~會津宰相氏郷」の初公演が開かれます

 令和5年3月26日(日)、会津若松市の會津風雅堂にて、この舞台の初公演が開催されます。はじめは、「世間善」の一環で、地域のイベントに協賛、応援するというものの一つに過ぎませんでしたが、この「現代版組踊」という人財育成の活動に、大きな意義と可能性を感じ、より深く応援するようになっていきました。

現代版組踊「獅Leo~會津宰相氏郷」の初公演

 舞台の主催者は、「「感動産業」を創出する次世代育成事業実行委員会」で、ご縁をいただき、この実行委員長を拝命し、2年弱活動してきました。何をする団体かと言えば、その名も「感動産業」を創りだし、「次世代=すなわち地域の担い手である子ども達」を育てていく事業を行います。

 3月のこの舞台、公演での発表が、活動の中心なのですが、「現代版組踊」は、ただ、楽しい面白い舞台をやるという文化的事業、エンターテインメントの追求だけを目指しているわけではありません。子ども達が本氣で活動に取り組む姿を見て、大人たちは、その真っ直ぐさに心を打たれ、もっと感動を分かち合いたいと人が集まるようになる。わざわざお金をかけて、観に来て、応援してくれる大人達がいることに、子ども達も感動し、刺激を受け、感謝の気持ちで、期待に応えようとますます努力していきます。子ども達は、演劇や踊りが上手な子を集めているわけではありません。やりたいと手を挙げた子、全員に、練習して準備をして舞台にたってもらいます。それが成長する体験になるからであり、その体験を提供することが目的だからです。

 大人も子どもも対等に、その立場に応じた役割があって、それを果たすことで正のエネルギーが循環します。「教育×文化×観光」の3つの要素が融合し、文化・芸能の新ジャンル、「現代版組踊」の舞台は、特別な「感動産業」となるのです。もちろん、その中心には、一所懸命にやりきった子ども達の笑顔があることに間違いありません。

(令和4年秋に開催した「プロ公演」の様子)

 もちろん、子ども達が一所懸命に顔晴る活動は、他にも、たくさん存在します。この活動だけが特別だとは思っていません。むしろ、ないと困ります。そこは謙虚に受け止めなければいけません。公平に、様々な活動が尊重されるべきです。でも、日本の様々な社会課題に向き合ったとき、次世代に地域の未来を託さなければいけないのに、現代社会の枠組み、制約の中で、どうやって託していくのか、どうやって育てていくのか、そういう疑問に対する答えの一つがここにあると考えています。

 そして、この活動だけが答えではありません。この活動を深く応援する人も必要だし、他の何かを一所懸命に応援する人ももちろん必要です。エネルギーは分け合って、影響し合って、高めていけば、解決できない社会課題などない。目の前の地域をよくするために、子ども達、次世代をどう育てるか、大人の意識を少しでもそこに向けて「世間善」を実現していく必要があります。だからこそ、自分達だけがたくさんのお金を集めて、大きなことをやるのではなくて、一緒に顔晴る仲間とステージに立つ活動にもチャレンジしています。

令和4年、5年と開催した「会津獅まつり」は、
「チーム獅」以外の団体と共にステージに立つ

 私もかつて、「観ないとわからないから、是非観に来て欲しい」「とにかく、一度舞台を観に来てごらんよ。」と誘われ、南会津、奥会津の地で300年前に起こった百姓一揆の物語をテーマにした現代版組踊の舞台を観に行きました。現代版組踊「南山義民喜四郎伝」という公演を南会津で観ました。奥会津の現在の金山町で育った百姓・喜四郎が主人公でした。幕府直轄領の地で、困窮する暮らしの改善を求めて、命を賭けて直訴。想いを訴え、討ち死にするも、目指した生活の改善は事後的に実現し、その生き様を刻み付け、こうして現代に伝わった。この舞台を観て、いろんなことを考えました。そして、ささやかながら、応援を続けているうちに、この活動はなくしてはいけない、でも油断しているとなくなるかもしれない、きちんと支援し、育てていかないともったいない。いつしか危機感を共有していきました。

 そして、コロナ禍で公演に人が集まりにくくなりました。そもそも人の動きが緩慢になってしまった。せっかく、未来の、次世代の子ども達を育てていく活動の仕組み・枠組みが良いものでも、そこに人を呼び込めなくては、簡単に廃れてしまいます。そこで、今こそ、新しい活動にチャレンジして、会津若松で、新しい物語を紡ぎ、多くの人を魅了するシンボルを立てていこう。こうして、2年前に、挑戦に向けて、実行委員会が組まれ、新チームが結成され、いよいよ新しい舞台が出来上がります。この3月26日です。

 そこで、題材にしたのが、蒲生氏郷公であり、会津若松のシンボルの一つである鶴ヶ城だったわけです。この初演で勢いをつけ、今年の8月には、鶴ヶ城本丸にてお城を前に野外公演をやりたい!当初から3年計画でことを進めてきました。私たちは、百年続く舞台を本氣で目指しています。次世代を育てるためには、大きなことをやり、本物に触れる機会、体験をたくさん創り出す必要があります。今は、まだ舞台で動きやすい軽いレプリカの甲冑の用意に留まっていますが、百年続けていくうえで、大切に繋いでいく道具として、「本物」に近い甲冑も用意していきたいと考えています。

しげ部さんに製作していただいた舞台用の甲冑のレプリカ

 また初演には、総合演出の平田大一さん、歌手の宮沢和史さん(元THE BOOM ボーカル)、大城クラウディアさんらに、特別出演していただきますし、地元からは、東山芸妓衆6名が舞台に上がります。子ども達が主役の舞台ですが、プロと共に舞台に立つことは、様々な刺激をいただくことができます。これも本物に触れて、体験価値を高めることに繋がりますし、初演ということもあって、舞台を大いに盛り上げていくために、できることをどんどんやっているのです。

特別出演の豪華ゲストの皆さん

會津宰相・蒲生氏郷公の生涯

 それでは、ようやく本題へ。蒲生氏郷公のことはご存じでしょうか。若松を中心にして會津を語ったとき、どうしても目立ってくるのは、幕末・戊辰戦争であり、會津松平家、新選組、白虎隊、はたまた藩校・日新館とほとんど江戸時代のことです。もちろん、日本史においても重要な歴史の出来事であり、今に続く会津の精神として大事にしたい時代です。ですが、その江戸時代が平和な300年だったから、こういう結末へ繋がっただけなのか?今ある街は、いつからこうだったのか、誰がどんな想いで、この街をつくってくれたのか?原点を知ること、はっきりはわからなくても想像してみることが大事ではないでしょうか。そして、思いに感謝し、私たちは、今この時代に生まれたことの巡り合わせに、心から感謝して、精いっぱい生きていかなくてはいけません。これが「歴史に學ぶ」ということです。

 現在まで続く、会津若松の町の形をつくったのは、氏郷公だと言われています。そして、氏郷公は外から、商人や職人をたくさん連れてきてくれて、商売、産業が発達する基礎をつくってくれました。
 時代はまさに戦国時代、米沢から独眼竜・伊達政宗が攻めてきて、400年以上會津の地を治めていた蘆名氏を倒した。だが、信長亡き後、日本列島は秀吉のものとなろうとしていた頃。小田原にて、北条氏を征伐したあと、出兵の遅かった伊達政宗は、せっかく手にしたばかりの會津を奪われ、代わりに欧州の要に座ることになったのが、蒲生氏郷公でした。これが秀吉による奥州仕置、1590年のことでした。

氏郷公の会津入封

 氏郷公はどこから来たのか。当時、伊勢松阪12万石の城主でした。それが、戦果をあげ、その実力を認められて、會津42万石の地を与えられた大出世でした。(この時点で約4倍、のちの加増、検地により、やがては92万石となり、徳川家康、毛利輝元に次いで、加賀前田に並ぶ大大名へと出世していく、そういうポテンシャルのあった地だった。)
 この大抜擢は、秀吉からみれば、伊達政宗を押さえる奥州の要としての実力ある家臣をつけるという人事という見方もあれば、その実力があるが故に、上方には置いておけないという危機感からとも言われ、いずれにしろ、実力の高さを証明するものである。
 この決定には、さぞ大喜びしただろうと思うところですが、そこは、当時の戦国武将。天下を夢見ていたわけです。自分の領国が大きくても、天下に近い場所は京であった。何かあったときにまっさきにかけつけるそんな場所から遠ざけられたのでは、自分は活躍できない。大出世にもかかわらず、自分の置かれた境遇を憂いて泣く。戦国武将なら当然かもしれませんが、天下を夢見、大志を抱いていたからこその、涙の會津入封でした。

氏郷公の生い立ち(幼少期。人質~元服~娘婿として帰城)

 では、大志を抱いた大きな人物、氏郷公は、いかにしてこの大抜擢まで歩んできたのか、簡単に氏郷公の略歴を確認していきましょう。

 定かではないものの藤原秀郷(平安時代の豪族、平将門追討の功、ムカデ退治の伝説を持つ)の系統に属する鎌倉時代からの名門の家柄にして、1556年、近江國(今の滋賀県)日野城主の息子として、戦国の世に生誕します。幼名を鶴千代。父・賢秀が仕えていた六角氏が、信長の侵攻に屈したため、軍門に降る。そこで、人質として、信長のおひざ元、岐阜城に預けられることになります。1568年、13歳の頃のこと。当時の人質事情とは、主従関係の証であるものの、有望な跡継ぎを優れた主君に預けて教育するような側面もあり、氏郷の外に、100名近くの子どもがいて、信長は彼らを部下として育てていた。
 当然、主である信長と子どもらが絡むことがある。預けられたとき、最初から目つきが違ったと、すぐに一目置かれたというエピソードもあれば。美濃三人衆の一人、稲葉一鉄は、岐阜城での毎夜の軍談に、信長の近侍について深夜まで眠りもせずに前のめりに傾聴する姿を見て、「蒲生の子は器量人。やがて大軍を率いる武勇の将になるだろう」と予言した。
 気まぐれにこんな話もある。信長らが自分で切った爪をばら撒き、「拾い集めよ」と声をかける。皆が嫌がる中、鶴千代は進み出る。集め終わったように見えてもいつまでも立ち去らない。「早く行け」と言われた鶴千代は、「一つ足りない」という。「なに」と睨み返した信長はニヤッと笑った。「気付いたか?」と隠していた爪を一つ差し出した。集めた爪が9つしかなかったので、「一つ足りない」と堂々と言った。試されているという狙いにまで思いが至ったのかどうか。こうした日々の関りの中で、その存在が光り、認められていったのだろう。気に入られ、元服は、信長自らが烏帽子親になり、織田弾正忠信長の「忠」の一字を与え、忠三郎賦秀(やすひで、ますひで)と名乗る。初陣では、華々しく武勲を上げ、信長の次女・冬姫をめとることになる。人質だった小僧が、織田家にとって、娘婿という特別な存在になった。信長の息子を支える同世代の家臣として期待されたとみられるが、後継者候補になったとも言え、いよいよ人質の身分も解かれ、帰城する。

氏郷公の商才(戦乱期、松坂へ)

 実際に、戦でも活躍して、力をつけていった。氏郷は、率先垂範して、自らが前に出て戦う武将であった。新参者の部下には、「銀の鯰尾の兜をかぶり、先陣するものがいれば、そいつに負けぬように働け」と激励したといいます。実際に、いの一番に、飛び出していく、その猛者を見て、部下たちは必至で前に出ようと追いかけた。その銀の鯰尾の兜をかぶるものこそ、氏郷公その人自身でした。

銀の鯰尾の兜をかぶった氏郷公像(下村P撮影)

 秀吉が氏郷を評して、「蒲生氏郷の兵10万と、織田信長様の兵5千が戦えば、勝利するのは織田軍である。蒲生側が織田兵4千の首を取っても、信長様は必ず脱出しているが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中に必ず氏郷の首が含まれているからだ。」と語ったという(『名将言行録』より)。
 戦での活躍を続け、1584年、小牧・長久手の戦い(信雄+家康V.S.秀吉)の後、伊勢・松ヶ島十二万石へ加増・転封となる。出世であるものの、これまた政権の中枢部に置いておくことを警戒して遠ざけた秀吉の一手と見ることもできる。
 それはともかく、伊勢松ヶ島は手狭で、後に、四五百(よいほの)森に移り、築城、まちづくりを開始する。もともといた日野の城下からも、多くの商工業者が氏郷に従い、移っていった。近江商人というのは、行商が得意な人たちなのでしょう。もともと伊勢にいた商人たちと、日野商人と、確執を生まずに、どう折り合いをつけたのか。甲か乙かの二者択一ではなく、新たな選択肢を見つけ出す。伊勢、四五百に新しい名前、「松阪」という地名をつけて、改名した。在来の商人たちか、古参の商人たちかのどちらかを優遇するのではなく、いずれも新しい「松阪の商人」として、生まれ変わって、協力して、新たに商売をせよと対立させず、発展的解消を目指した。
 商人だけでなく、武士たちも同じように、松阪城の家臣、武士として、新しい環境で団結を目指していこうと意識が向いていった。これはなかなかの智慧であり、新しい街づくりを目指すにあたり、誰かが正しいという一方的な主張を正とせず、融和し統合することが発展する途だと信じていたのでしょう。自分自身も「余所者」であると、一歩引いてしまったら、日野商人や昔からの部下に重きを置いたでしょうし、加増・転封とあって、身構えてしまったら、「郷に入っては郷に従え」と今までの苦労をすべて忘れて、新しい土地の者に迎合しようとしたかもしれない。どちらかに偏ることなく、新たな街づくりという目指す目的地、未来に向けて、皆が協力するように、訴えたのでしょう。現代のまちづくりや、組織づくりにもそのまま活かすべき視点のように思います。

 全く同じ考え方で、改名し、街づくりが行われたのが、會津若松でした。当時、鶴ヶ城は、黒川城と呼ばれ、陸奥・黒川という地だった。ここでも、旧来の黒川商人と連れて来た松阪商人を対立させず、協力しあうように、新たな地名を設けたと言えます。松阪、会津若松。「松」が蒲生家にとって、縁起がいいというのもある。黒川がやや暗いというのもあったことでしょう。(余談ですが、福島県の福島を当時の杉妻とかいてスギノメと呼んでいた地名から転換したのも氏郷だという伝説もありますが、これは諸説あって、真実は不明です。)
 
 様々な産業を持ち込み、「日野椀」と呼ばれていた漆工芸品(漆器)も伝え、やがては「会津塗」となっていく。なかには、何が「会津塗だ、日野椀じゃないか」と思う者もあったでしょうが、そこは近江商人の根本精神、その土地の利益、「世間善」に資するべく、新しい土地で必死に技術移転して、商売を支えたのでしょう。実は、若松というのは、もともとは日野にあった地名である。現在でも、日野には、綿向神社という近江商人に所縁の深いお宮がある。行商に出る前に、お参りし、戻ってきては、利益を還元する対象となっていた。この綿向神社が鎮座していたのが、若松の森であり、参道をいっぱいに包んでいた。四五百の森を松阪に、黒川を若松に、新たな土地に飛び込めと檄を飛ばしつつも、日野の原点を忘れずに、ともにあるという粋や絆をしっかり感じたリーダーシップだったに違いない。

氏郷のリーダーシップ

 リーダーシップのエピソードはどうか。有能な部下に報いようと自分の生活を切り詰めてでも報酬に回していたという。それでも足りないので、自宅へ招待し、酒を飲ませた。その際、「まず風呂にはいれ」と言う。部下がお湯につかっていると、「湯加減はどうか」と外から声がする。聴きなれた声に驚き外を見ると、氏郷自らが、薪をくべて、火を焚いている。自分の部下を必死にもてなそうとする姿勢に、皆が涙し、この話は、部下たちに伝わっていった。そして、この「蒲生風呂」という名誉に自分も預かりたいと、部下たちは、進んで功績を争うようになった。それでなくても、率先垂範して、突っ込んでいく氏郷公である。信長にも、武将の役割は、首を取ることではないから、突っ込むなとたしなめられたほどであった。

 戦続きで、苦労していた状況も、会津へ出世したときには、環境がかわりました。今までの労に報いるため、過去にさかのぼって、自分の労苦を換算し、希望する給与を申告させました。もちろん、皆喜んで申告したが、家老が計算すると、結果、手持ちの石高の二倍以上となってしまった。氏郷の取り分もなくなり、これからの戦にも困る。調整が必要だが、それでも氏郷は笑って出そうとする。こんなやりとりが、皆に伝わってしまうと、あわてて、自分達で申告を再検討して調整した。家臣に対する愛情と、それに応えたい信頼で繋がっていた。まるで、現代のティール組織です。払いきれない分は、蒲生の姓を名乗らせることも進んでやった。家臣たちの取り分が多いということは、それだけ力が強くなります。40歳で早逝の後、嫡男・秀行の代に移ったあとは、「お家騒動」が勃発し、それを治められずに、蒲生の軍団は瓦解する。秀吉により、秀行が宇都宮18万石に格下げ転封となることの一因は、家臣団の強さの裏返しだったともいえるのです

文武両道の優れた才覚、戦国時代のキリスト教伝来

 そのほかの氏郷の特長として、「文武両道の優れた才覚」が特徴として、あげられる。武将としての戦の場での勇猛果敢な実力と、部下に慕われるリーダーシップは、信長に仕え、戦場ではその急先鋒である柴田勝家に仕えたことで磨かれていった。また、「本能寺の変」のあとは、信長の妻たち一族をかくまったのち、次の天下人を秀吉に見据え、しっかりとシフトできる機転の良さも優れた点である。幼いころから、禅寺で修行をし、茶の湯にも、造詣が深く、能も見事に舞ったという。

 そして、キリシタンである。同じキリシタン大名である高山右近の再三の進めにより、キリスト教の洗礼を受け、レオ、またはレオンという洗礼名を受けることになります。現代版組踊の舞台の名前は、この洗礼名から名付けています。

 キリスト教を受け容れたのは、信長。禁じたのは、秀吉、家康という史実とイメージがあると思いますが、ことはそう単純ではありません。元来、日本人は外から来るものを受け容れ、自分のものにする能力にたけている集団です。例えば、漢字や仏教を取り入れ、自らの智慧としていました。キリスト教の宣教師がもたらす外国の情報が手に入ることを珍しがったり、面白がったりしていたため、信長は、寛容に情報を収集していたといいます。彼らがもたらすものは、世界の情報に加え、珍しい物資、特に火薬や武器など、戦国の世における必需品でありました。当時のキリシタン大名は、信仰というより、これらを得ようと飛びついた大名がほとんどだったと言います。一方、信長、秀吉クラスには、宣教師の狙いが見えていました。武器を餌に、布教の許可を得て、いつの間にかその国に入り込み、力を得て、攻め込みたい。信長は、これを逆に利用して、世界を知ろう、見ようとしたが、秀吉は大いに警戒したのでしょう。
 
 こうした状況下で、秀吉が「伴天連追放令」に踏み切ったのは、大村純忠のように完全にカトリックの側につき領国内の寺院や仏像を焼き払った大名がいて、土地を進呈し、結果として、日本人が奴隷として、海外に売られていた現状を知ったからです。これについて、宣教師を問いただしても、差し出した方に問題があると改善する意思を示さなかったことで、宣教師の国外追放を決めました。一般の民衆に対して、信教の自由に制限を加えようとしていたわけではありません。

 とはいえ、影響力のある諸大名をそのまま置いておくわけにはいかず、「伴天連追放令」のあとは、諸大名に棄教をせまり、表向きは皆、これに従いました。いつまでも棄教せず、国外追放になったのは、片山右近くらいである。その右近の薦めで、入信した氏郷公は、そこまで情勢が厳しくなる前に、早々と亡くなってしまいました。

 氏郷公の真意は、どこにあったのでしょうか。この時代の背景は、疑い始めるときりがありません。単なる貿易上のメリットを求めただけだったのか。氏郷公は、會津にきてから、4回、遣欧使節を派遣しているという記録があります。よりよい教えを求めてというのは、聞こえが良すぎるのではないでしょうか。それにしては、熱心に、民衆に改宗を進めている。一方で、寺社仏閣を焼き討ちにしたりはしなかった。會津は、氏郷公をきっかけに、この時代から、キリシタン浸透がじわじわ進んでいったとみられる。間違いなくきっかけになっている。戦乱の世にあって、常に戦に明け暮れ、自身が何かにすがりたいという背景があったのかもしれません。家康、毛利に次ぐ大大名に上り詰めながら、一人の側室も置かなかったこと、民衆の幸せを願い、平和を祈った姿が見えてくるような氣がしています。

 あるいは、改宗させることが、貿易上のメリットにつながる条件だったかもしれませんが。伊達政宗も、天下人を目指し、海外から力を得るために、取引をしようと、遣欧使節を出した記録が、欧州側には残っているようです。氏郷の思いもそこにあったり、場合によっては、外国と共謀し、謀叛を起こし、天下を狙っていたかもしれない。信長に対してすら、宣教師と共謀して、殺害を狙ったエージェントなのだという過激な説もあります。茶の湯とキリスト教のミサの儀式は似ており、そして、利休七哲は、ほとんどキリシタンです。
 こういう疑いは、しっかりと原典にあたり、研究しないと答えはでないであろうが、外国が、日本への侵略を目指していたこと、その先発部隊が宣教師であったことは明らかで、結果として、この時代の日本を侵略から守ったのは、秀吉、そしてそれを継いだ家康ということになるでしょう。

「早すぎる死」と氏郷公がみた未来

 氏郷公がキリスト教と絡めて、どういう立場であったかは、わかりません。天下人を目指すにあたって、どんな世を描いていたのか。部下を信じ、民衆を愛していたからこそ、常に最前線で戦い、計略はするも、後先考えずに、今の最善に力を尽くし、目指す理想に邁進した。そして、「早すぎる死」を迎えることになったのではないかと考えたい。

 ひたすら戦うことの先に、天下人となったとき、どんな世を描いていたのか、それは信長、秀吉も、そして明智も柴田も石田三成も同じである。家康だけが、その先の未来を私達に見せてくれたことになります。ただし、長く政権を維持できたからといって、すべてをよしとするつもりはありません。苦しい時代もあったでしょうし、間違いもあったでしょう。ただし、自分達で作り直し、立派に国を動かしてきた幸せな時代が江戸時代であったのではないかとも思いますし、それを創り出したのは、何も戦国武将一人の力ではなく、日本人の一人ひとりの民衆の力なのではないかと思います。

 歴史に學ぶことは、多々ありますが、先人たちがつくりあげ、願った未来は何なのか、と想像し、そして、今を生き、未来を選ぶことが出来る私たちは、真剣に生きることをあきらめてはいけません。

辞世の句~「現代版組踊」で描く舞台と歴史に何を学ぶか

辞世の句が刻まれた碑(下村P撮影)

かぎりあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風

(風など吹かなくても、花の一生には限りがあり、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は、何故こんなに短気に花を散らしてしまうのでしょうか)

 この歌は自己の早世を嘆いたものといいます。勇猛果敢な武将としては、眉唾という意見もありますし、こういうことから、自らの置かれた境遇を嘆く様子が、病死ではなく、暗殺されたのだとする説がいくつも上げられる要因になっています。とはいえ、成し遂げたかった大志があり、ひたすら邁進してきた自分の人生がここで終わるのはさみしいという思いは残っていても不思議でない氣がします。やりたいこと、成し遂げたいことに、本氣で想いを込めていたのでしょう。だからこそ、その実現できなかった未来は、残るものに託して旅立ったのでしょう。
 
 自らも信長や様々な先人達に託されて、生きてきたように、想いを次の世代に伝えたのでしょう。

 こうした辞世の句も含め、現代版組踊では、氏郷公の生涯を描き、會津でどんな未来を理想に描き、どんな想いを後世に伝えたかったのか、小中高校生の子ども達が表現してくれるでしょう。観劇することで、感動を得て、私達もまた、氏郷公の思いを受け取り、今を一所懸命に生きようと決意できることでしょう。約430年前のお話です。会津若松発展の原点、礎に触れながら、今の會津を生きる我々がどう過ごすべきか、子ども達が語り継ぐ、記念すべき第一歩をともに見届けましょう。

 100年続く舞台の第一幕が、今始まります。

※「吼えろ獅~SAMURAIの夢 舞うが如く」は、この舞台オリジナルのテーマソングです。この映像は、令和4年の息吹喜多方公演のオープニングで初披露したときのものです。

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