無意識の、そして無自覚な、防衛反応
昨日の霊気のお話あたりから、
癒やしは人と人の「間」に起こるのだよなあと、つらつらと一晩考えていた。
しかし私たちが傷つき緊張を強いられるのもまた、
人と人の間のことだ。
野生動物は、
一日中、捕食者の影にセンサーを張って
人間よりよほどリアルな命の危機にさらされているが、
いつも誰かに命を狙われていることを気に病んで心と身体を閉ざしたりはしない。
仲間の存在や、太陽の光や、草の匂いや、季節の気配もまた
捕食者の影と同様にリアルで、
自己をそこから切り離されたものと捉えていない。
(ちなみに死ぬことで全てが終わるという死生観も備えていないのでヒトのような恐れがない、という話がある)
死への備えをしながら、開放された生を味わうという
この2極を、激しく往復しながらもその瞬間の健全を生きている。
ふと思い出す忘れられない光景があって、
それは数年前にプラネタリウム併設のショップで買物をしたときのこと。
買い物の列に並んで前の人の会計を待っていたが、
若い女の店員さんが、気の毒なほど緊張しなにかに怯え
震えるような手でレジを打っていた。
お客さんが威圧しているわけでも急かしているわけでもない
ごく普通の買い物客に対してそこまで活性してしまうのはなぜなのだろう。
うさぎのような差し迫った危機がやってくる気配なんて当面ないのに。
わたしたちは日々、SNSやメディアを通して、
何気ない日常や、時には自分が明確に被害者でしかないようなケースにさえも、攻撃の刃が向かうことを目にし続け、
そのイメージは深層に刻まれる。
社会的な生き物にとって孤立は死に相当する。
ヒトという同種の生き物全体に、
本来は群れで連帯しお互いの安全を担保し合うはずの存在に、
そうされる「かも知れない」ド最悪な攻撃のイメージを
投影し続けるようになってしまったのがこの社会の不幸と病理の一つのコアである。
無自覚な防衛反応なので、言語化して意識に上ることはないが、身体はその無意識下の「攻撃のイメージ」に膨大なエネルギー的防衛費を割き続けながらこの安全なはずの日本を生きているのだ。
なんというしんどいことか!(ごくろうさん!)
ヒーリングやセラピーは、
その無意識的防衛を働いている身体に、
あらためて「安全」のシグナルを送り正気を取り戻させることだと、わたしは捉えている。
そのことで身体はふと我に返り、エネルギーの再分配が行われる。戦いを前提に備えるのではなく、安全を前提に繋がったり遊んだりしていいのだ、と自分自身を再起動する。
わたしが生きているというこののびやかなエネルギーを、身体に充満させていいのだと。
そのプロセスはヒーラーではなく、受け手の知性と力によって完全に行われるけれど、安全のシグナルだけはどうしても「人」に入力してもらうことが、原理的には必要になる。
もらったりあげたり、という単なるエネルギー交換ではなく、
「間」にあったプログラムを更新するために。
AIによるカウンセリングやコーチングを、
私も体験してみたことがあってそれは大変面白く可能性を感じるものではあったし、場面によっては積極的に活用したいとも思う。
でも最終的には思うのだ。
「私はよくてもKARADAがなんて言うかな?」
・・・ええ、もちろん「俺はいいけどYAZAWAがなんて言うかな?」へのオマージュでございます・・・。
立春。
Birth of spring.
2024/02/04 17時27分
KARADAいっぱいの春を迎えましょ☆
無意識の防衛反応には、身体への働きかけがおすすめですよ▼
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