【雑記】政権批判批判の”正しい”使い方(2020.10.06)

「怒髪天を衝く」とか「俺の怒りが有頂天になった」とかいう表現では生ぬるい発言を見てしまった。

知らないようであれば説明するが、この問題の論点は、第一に、総理の独断専行で過去の法律解釈や運用(総理には任命権はあっても拒否権はないというもの)をねじ曲げているというところにある。そのため、この問題については学術界のみならず法曹界などからも疑問と恐怖の声が上がっているのである。このような行為を安直に許してしまうと、行政府の長の”お気持ち”による介入に歯止めが利かなくなる。行政の手続きの正当性に関わる極めて重大な問題なのだ。

何せ今回の問題については自民党内からも苦言が呈されているほどだ。

第二に、この行為が学問の自由の侵害なのではないかということだ。前者に比べればどちらかと言えば副次的な問題ではあるものの、憲法(表現の自由)に関わる重要な問題であることには変わりはない。このような行為は「政府の意向に反するものには政府の支出は必要ない」ということを正当化するものであり、萎縮効果は大きいだろう。実際、昨年の「あいちトリエンナーレ2019」において同様の問題に直面した津田大介は、自分たちの受けた仕打ちの延長線上に今回の件はあると述べている。

それらの問題を西田は少しでも知らないわけがないだろう。その上であのようなことを言っているのである。

本人の談によると、政府と直接的な利害があるからそう言っているのではなさそうである。現に堀江宗正との応答でこのように述べているからだ。

そういった理由でなければ何か。結局のところ、騒がしい反権力=”左派”連中と距離を置きたい、というごく私的で純粋な理由に他ならないのではないだろうか。物事の構造を理解せず、自分のスノッブ態度を維持こそがまさに政権批判批判の正しい使い方なのだろう。しかし、そんな空疎な行為にいかなる正当性があろうか。

現に先の問題のあとに、アノニマスポストやツイッター速報といったまとめサイト、さらにはフジテレビなどのマスコミによるネガティブキャンペーンが貼られ(これらの報道や論説は、政府の意向を忖度したというものよりも、西田と同じような「私的で純粋な」理由に基づくものだろう)、全く的外れな論点で「学術会議の改革」が論じられている。

そういった動きを表立って煽っていなくても、西田の行為はそれを助長、正当化する行為にしかなり得ない。冒頭の発言のような「中立フリーク」的な態度を科学的で冷静だという風潮を疑わない”論客”は、未来の市民に対してどのような責任をとるのだろうか。

(2020.10.06 22:00ころ追記)

津村は《先週来「今は任命拒否を批判してる最中だ。余計な話をして邪魔するな」という運動論の前に、組織改革の議論が押し潰されている状況》などと述べているが、そもそも「組織改革の議論」自体今回の任命拒否案件に”抵抗”する形で急にピックアップされたものではなかったか。そしてそれに「期待」してしまう西田。語るに落ちたというほかない。

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