【雑記】若い世代から選択肢を奪っているという自覚と反省はあるのか(2020.10.04)

この手の論説で疑問なのは、こういった論説が前提としているのが「若い世代は現在の自民党政権しか知らないから権力に忖度するような考え方を”自然と”身に付けるようになってしまっている」というものだ。しかし、我が国の”言論”を10年以上見てきている身として、そして『「あいつらは自分たちとは違う」という病』(日本図書センター、2013年)のようなものを書くときに過去の言説を参照してきた私としては、そういった表面的な考え方ではただの若者バッシングにしかならないと思っている。

遅くとも1980年代のバブル期以降から、「政治」に関する議論は若い世代を取り巻く文化において忌避され(この時代のトップランナーであった糸井重里の現在の振る舞いを見ればわかろうというものだ)、さらに1990年代における若者向け保守言説や、それよりも悪影響が大きい、実質的なリバタリアニズムを”正しいリベラル”にすり替えるような宮台真司などの言説の悪いところだけを抽出したような「若手論客」たちは、「イデオロギーフリー」を謳いつつ結局攻撃の対象になったのは反権力、反差別的なものばかりだった。そうして権力への反抗が「ダサい」という風潮が作られていったことは、何よりも上の世代の責任ではないのか。

実際私も「中高年を批判してももう無駄だから若い世代を批判している」みたいなことを複数回見たことがあるが、そうしてここまで述べてきたような風潮を作ってきた高年齢層を”聖域化”しているのではないか。そして、責任を避けるために若い世代を叩いて鬱憤を晴らしているとしか思えない。そういう文化を放置して、若い世代から選択肢を奪ってきたのではないのか!

そういった言論や文化の歴史的な流れを無視すると、先のように若い世代のみを単純な世代論で問題視することしかできないし、次のように若い世代に呆れて終わり、ということしかできなくなるのである。

もういい加減不毛な世代論はやめるべきではないか!

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