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鶴間和幸先生の「呂不韋像」

鶴間先生の新著

今日は最初に、今月12日(2024年7月12日)に発売された鶴間和幸先生の新著を紹介させてください。

始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団 (朝日新書) 新書

鶴間和幸先生の新著(2024年7月12日発売)

統一戦争を支えた李信、王齮、桓齮、蒙武ら将軍たちは、戦時でどう動き、何を成し遂げたのか。映画「キングダム」の中国史監修も務めた始皇帝研究の第一人者が、「史記」や近年出土の古代文献をもとに、統一戦争の実像を解説。李牧・龐煖(ほうけん)ら、秦に立ちはだかった英傑たちの史実にも迫る。

鶴間先生には拙著(「歴史から消された呂不韋の真実」)を読んで頂いた上に感想まで頂戴し、本当に感謝してます。私もこちらの新著を購入して、読んでいるところです。ぜひ本ブログに訪れた皆様も、手にとって頂けると嬉しいです。

映画キングダムも、最終章が上映されてますね。まだ観てないのですが、8月に入ったら観ようと思っています。また、これは余談ですが、同時代の作品として『達人伝』という漫画も大変面白いです。秦を中華の脅威として描いた世界観は、当時の状況を様々な角度から見ることができます。

鶴間先生の「呂不韋像」

鶴間先生は、呂不韋についてどう考えているのでしょうか。鶴間先生の記事(AERA)から少し引用します。

呂不韋は嫪毐(ろうあい)の乱に関わったとして相邦を罷免され、咸陽から雒陽に下ったが、そこでは諸侯、賓客、使者たちが道に列をなして集まったという。呂不韋のもとに集まった人々は、何を求めたのであろうか。

呂不韋が悪人だったとして、果たしてこれだけの人たちが呂不韋のもとを訪れたでしょうか。確かに資金はあったでしょう。個人的な意見ですが、呂不韋は人格者であり文化人の側面も強かったと考えています。秦国から罷免された後で呂不韋と会うということは、始皇帝から睨まれることになりかねません。そのリスクを犯してまで会いたい人物とは、傑物以外の何者でもありません。

呂不韋は韓・魏・趙の国境を自由に越えた商人としての国際感覚を持ち、それが若き秦王嬴政の相邦(政治の最高権力者)を務めていた頃の外交と戦争に活かされていた。商人として基盤を置いていた韓・魏・趙に軍事的に進出する動きは、十代の若き秦王の意志とはとうてい考えられない。
始皇四(前二四三)年、趙にいる秦の質子を趙から帰国させ、趙の太子を秦から趙に帰している。外交上の一種の断交である。
始皇五(前二四二)年に設置した占領郡の東郡は、呂不韋の故郷である濮陽の地を中心とする地域であり、呂不韋が商人として熟知していた土地であった。濮陽は黄河に面した交通上の要地であり、自立した経済力をもっていた。蒙驁将軍の魏地への侵略戦争(始皇三〜五年)を続けた結果、占領郡の東郡が置かれることになる。また濮陽は小国の衛の都であった。その君主の衛君・角を殺さずに、一族ともに野王の地に遷す政策も、呂不韋の判断であったと思われる。

鶴間先生は「商人として基盤を置いていた韓・魏・趙に軍事的に進出する動きは、十代の若き秦王の意志とはとうてい考えられない」と書いてます。私も同感です。現在、本誌キングダムで進められている「韓攻略戦」も、呂不韋の壮大な世界観がベースにあったはず。

やはり、「勝者が残した歴史」は、一度疑って見る価値はありそうですよね。呂不韋は過小評価され、人物像まで歪められています。

さて、今日はこのへんで。お読み頂きありがとうございました。他の記事は下記のリンクからお読みください。


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