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始皇帝陵・兵馬俑のベースデザインをもたらした呂氏

始皇帝陵・兵馬俑の考察です。長くなります。いつもの通り妄想が激しいので、ご了承ください(ちゃんと通説も勉強しております)。

晩年には70万人以上が動員されたという始皇帝陵ですが、着工は紀元前246年。この年に嬴政が秦王として即位したので、なんと即位してすぐ着工が始まったということになります。

もしかして「始皇帝」になるのが出来レースだったの?と思ったりもしてしまうのですが、当時は生前から陵墓を作り始めるのが通例だったようです。

それにしても、いつも不思議に感じるのは、なぜ「始皇帝の時」だけ突然兵馬俑が写実的になったのだろうということです。

始皇帝以前の秦と、始皇帝以降の前漢は、言葉は悪いのですが「中学生の図工」レベルだと思いませんか。私でも作れそうです(過信)。

もちろん、始皇帝の時は膨大なお金を使い、非常に厳しい使役を課し、始皇帝の権威を頂点まで高めたから…ということは理解しています。お金のことを除外して考えても、始皇帝の時代だけ「技術・職人が秀でていてその後は没落した」とは考えにくいと思いませんか。日本で言えば、縄文時代の「ある一時期だけ」土偶が極端に写実的になっているようなものです。あり得ませんよね。

となると、始皇帝の時代に別の人種・別の文化が「どこからともなくやってきて」、秦が滅亡したあとに「いなくなった」と妄想してしまうのです。そしてやはり始皇帝自身が異民族の血族だった(後述します)。

では一体、どんな人種・文化が突然現れたのでしょうか。

私の考えですが、既にアレクサンドロス3世=アレキサンダー大王(紀元前356年~紀元前323年)の時代には、中国の「ある地域」と西側諸国は交流があったことは間違いないと見ています。

つまり、シルクロードは既に開通していた、と。

そのシルクロードを使い、大商人になったのが呂不韋ではないでしょうか。

調べたところ、アレキサンダー大王率いるマケドニア東征軍がインドまで到達したのが紀元前327年頃。その後パミール高原、タクラマカン砂漠を越えて中国に達したのがシルクロード北ルートだと思います。

下記は参考まで、漢の時代に張騫(ちょうけん)が開拓したと言われている北ルートです。

ここで考えなければならないのは、漢の時代の北ルート開通ではなく、秦の始皇帝の時代に既に「別のルートがあった」ということです。

以前からお読み頂いている方は覚えているかもしれませんが、「無理やり逸話が作られた感」のある不韋県のことを思い出してみましょう。

「南のシルクロードの物資の集積地」である不韋県=雲南省保山は、さらに西側の諸国と繋がっていて、そこから古代ローマや古代ギリシアの文化・芸術が入ってきていたと考えることは、可能性としてゼロではありません。

今回、地理的な考察もしてみます。

その前に、マガダ国(当時インド最大の鉄鉱石の産地)のことを書いておきます。紀元前312年、チャンドラグプタがマウリヤ朝を建てインドを統一しました。それがマガダ国です。呂不韋が生まれたのが紀元前290年ですから、その少し前にインドは統一帝国を築いていたのです。

呂不韋が統治した不韋県と、このマガダ国は目と鼻の先です。

直線距離で約1,400kmですから、平地だとすると歩きっぱなしでたった12日間ほど。ちなみに咸陽から保山までが約1,400kmなので、移動できない距離ではありません。こうして地理的な考察をしてみると、秦とインド統一国家・マガダ国が交流していてもおかしくないと思うのです。

仮に呂不韋が成人した年=紀元前270年から商売をスタートしていたとすると、嬴政の即位=始皇帝陵の建設開始(紀元前247年)まで23年あります。この23年の間に、呂不韋がマガダ国とのシルクロード南ルートを経由して入ってきた古代ユダヤ商人たちとの交易を通じて、写実的な美術品をいち早く買い付け、我が子の嬴政に見せていた…と妄想することも出来なくはありません。

「我が子、嬴政よ。西側のマガダ国は国家統一を果たした。平和が訪れると、さらに西側の国からこのような素晴らしい彫刻などの宝物が入ってくる。国家統一を秦が成し遂げる日を楽しみにしておるぞ」

その彫刻を見た嬴政は、自分の陵墓に「中華初の写実的な兵馬俑」を作らせることを決意した。今までの秦王もやっていない、ましてや秦と楚を除く国では俑を作る文化すら無かった時代。タイミングとして、生前から始皇帝陵の建設をスタートしているわけですから、これも可能性としては間違ってない。

…こうして考えると、「不韋県」が成立したのは呂不韋左遷の時ではなく、ましてや漢の武帝の時代でもなく、「もともと呂氏が勢力下にしていた羌族の土地」であったのではないかと思うのです。となると、呂不韋は左遷されたのではなく、「呂氏の勢力地に帰っただけ」ということになります。

実際にそういった痕跡があったとしても、後世の人たちは時に歴史に対して残酷なのです。特に呂氏に関しては。

この不韋県があった保山に関する後世の記載も、酷い伝説とともにわけが分からなくなっています。保山に「哀牢国」があったとされているのですが、これが唐突過ぎる「創作伝説」とともに記載されているのが後漢書です。

「後漢書」には益州の諸夷が平定された話の後に、突然に「哀牢夷(哀牢にいる蛮族)」の話が出て来ます。

「哀牢夷の先祖は、哀牢山に住んでいた沙壱という娘が、川で魚を捕っているとき、沈んでいる木に触り懐妊し十人の男子を産む。この沈木が龍となって現れた。子供達は驚き逃げ去るが、末っ子は逃げず龍の前に座り、龍から頭を舐められた。この子が「九隆」と名づけられ、長じて哀牢国の王となる。九隆や兄弟たちの子孫は、あちこちの谷の邑に散在している。それらの邑は最果ての地で、山川が険しく深く、古来より未だ中国に交通していない。」

チョット待ってくださいよ、です(笑)。

史書から読み解けば、紀元前236年に呂不韋が左遷された土地でしょう。後漢書の編者・范曄(はんよう、398年~445年)が生きた時代から、600年前の出来事を無視して、「古来より未だ中国に交通していない」と断言することはおかしな話です。三国志・蜀にも、呂凱が呂氏の子孫として登場しています。それを、意味不明な神話的創作でかき消そうとするのは、呂氏について過去に書いてきた通りですし、日本神話も同様です。

不韋県の呂氏は呂不韋から600年経った後世でも、「いなかったこと」にされたわけです。哀牢夷を面白おかしく書くことは良しとしても、少なくとも、「交通はしていた」はずです。史書と言えど、色々と辻褄が合わなくなってきています。

私の中では、絶対に民族的・政治的隠蔽があると確信しています。それは、秦の統一が純粋な中原の血族によるものだという前提にしたいがために、呂不韋が混血であったこと、嬴政が呂不韋の子であったこと、呂不韋が圧倒的な財力と政治力を持っていたことを曖昧にしなければならなかったのです。また、シルクロードによる西側の国々との文化的交流・交易開拓の手柄も、「漢の時代」のものにしたかったと思われます。

その漢も、呂氏である呂雉の財力を活用した劉邦が項羽を打ち破って建国したわけですから(妄想)。改めて妄想家系図を掲載しておきます。劉邦以下の劉一族にも、呂氏の血が一部流れているのが分かります(王としては第4代で途絶え、側室側の血脈が王家となり長く続きます)。

長くなったのでこのあたりにしたいと思いますが、やはり歴史を考える時に妄想をふくらませると、どうしても世界史を学ばなければならなくなってきます。日本史が日本国内だけの影響だけでは片手落ちになってしまうのと同様、陸続きの中国でも秦以西との関連性を否定することは出来ないと思うのです。

長くなったついでに、エジプトについて少し。

エジプト観光古代省(Ministry of Tourism and Antiquities)が、古代遺跡を巡る3Dバーチャルツアーを公開しています。これが凄いクオリティなので、ご紹介して終わります。

入り口は下記。

例えばこちらはメフの墓(Tomb of Mehu)。

古王国第6王朝(紀元前2300年頃)に作られたと言われているので、なんと4300年前…気が遠くなると言いますか、もはや理解を超えています。

解像度が肉眼レベル。

本日もお読み頂きありがとうございました。

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