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昌文君の死に迫る(後編)

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後編を読む前に、前編をご一読ください。

今回の記事は、昌文君が死んだ土地と、秦・魏同盟が楚を攻撃した地(月知平原、什虎城)を妄想的に繋げて書いています。

楚軍の動き~大軍を編成していた平輿(へいよ)

楚としては、秦・魏同盟の更なる侵攻に備える必要がありました。ここで改めて地図を載せておきます。

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月知平原・什虎城が南陽市あたりにあったと考えると、楚の長城を乗り越えてここを支配することの意味は、秦にとってかなり大きかった。というのも、次に楚に侵攻開始するにあたり、長城の攻略が不要になるからです。魏からの南陽割譲も大きかった(後述します)。

そして、楚と直接対峙することを避け、兵力を他所に向けるために、魏の領土とした。魏を使って蓋をすることで、楚が直接秦に攻め入ることが出来ない状況にしたわけです。

これは非常に賢い。

情勢から見て、総司令である昌平君が考えた戦略であることは、ほぼ間違いないでしょう。

楚は、否が応でも南陽を奪還しなければなりません。いつでも南陽に侵攻出来るように、楚が軍を配置したのが…南陽の東にある平輿(現在の河南省駐馬店市)なのです。

平輿はもっとクローズアップされるべき

なぜ平輿に楚軍が布陣したことが分かるかと言うと、それは紀元前225年の李信による楚侵攻を見れば分かります。改めてこのあたりの時系列を記載しておきます。

・紀元前226年、昌平君が丞相を罷免される、昌文君死去
・紀元前226年、昌平君は郢陳に送られる(楚民の人心安定のため)
・紀元前225年、郢陳で反乱が起きる(李信敗走の原因)
・紀元前223年、将軍・王翦と副将軍・蒙武が楚を攻める

昌文君が死んだ年、そして昌平君が丞相を罷免され郢陳に送られた(自ら行った)年の翌年に、李信は将軍として楚攻めを開始します。その時のルートを妄想してみました。

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<補足>
秦・魏連合軍が紀元前235年に楚の南陽市のどこかの城を支配した後の紀元前231年に、韓は南陽を秦に割譲しています。当時の南陽は、現在の南陽市・襄陽市・随州市・平頂山市に跨る一部のエリアです(イコールではない)。

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これを見ると、割譲された南陽のすぐ東が平輿(現在の河南省駐馬店市)であることが分かります。ここで昌文君が死に、翌年に李信が楚の大軍を撃破するのです。

この一連の流れの中で、やはりなぜ罷免もされていない昌文君が44歳でこの楚の地で死ぬのかが理解出来ません。

昌文君がなぜ死んだか

改めて妄想すると…

1.昌文君は左丞相を免職となり、既に引退していた
2.昌文君は楚と密通していた(と疑われた)
3.昌文君が楚を攻めて戦死(弔い合戦のために李信が平輿攻め)

1.はちょっと考えにくいですね。一説ですが、昌平君の弟とも言われていた昌文君です(昌平君より1歳年下)。昌平君と違い、免職になる理由が無いからです。
※昌文君は考烈王(昌平君の父親)の弟だとする説もありますが、生まれた年から判断し、昌平君の弟だという説を有力視します。(昌平君:BC271年生まれ、昌文君:BC270年生まれ)

2.は個人的に一番濃厚だと思っているのですが、密通していた情報を嬴政が入手し、刺客によって殺されたのではないでしょうか。この説だと、左丞相を罷免する前に死ぬことが出来ます。でもなぜ平輿なのか。ストーリーが必要です。

3.は昌文君は武将でもあったので、もしかしたら李信が10万の兵で攻撃する前哨戦として、昌文君が楚攻めをしたのかな…という説です。でもこれは秦にとって名誉の死なので、史記などに記載されないわけがないのかな、と。ドラマチックではありますが。

ここでの私の一応の結論としては、2.で考えたいと思います。ストーリーはこうです。

妄想小説

紀元前226年、春。嬴政は楚侵攻の策を軍議にて協議していた。嬴政は総大将・王翦に「どれくらいの兵力で楚を攻略できるか」と質問した。王翦は少し考えてから答える。「私の見立てでは、60万人は必要でしょう」

嬴政は同じ質問を李信に投げかける。将軍として頭角を現してきた李信は、自信満々に答える。「オレなら、20万だ。20万いれば十分だ」

嬴政は熟考した上、李信を総大将、蒙恬を将軍として、20万の兵力で楚攻略を開始することを決定。昌平君は王翦の実績や、自らの分析により、やはり60万人は必要だと嬴政を諭す。李信に武功を上げてもらいたい想いと、なるべく省エネで楚を攻略したい想いが強い嬴政は、昌平君との議論が白熱してしまう。昌平君も確かな戦術眼で60万を主張、折れない。

しかし李信に命令を下してしまっている手前、嬴政のプライドは昌平君の案を受け入れられない。ついには王翦を「年老いて臆病になったのだ」と見下す。昌平君はさらに嬴政を諭す。「我が君。総司令である私と、総大将である王翦将軍の意見は、非常に重いものです。秦国の統一を願えばこそ、前言は撤回ください」
ついに嬴政は激昂。「そんなにオレと李信が信じられないのか!」と。「これは君主の命令だ!昌平君、そなたから丞相の職を解く!」

周囲は言葉を失う。王翦は自ら将軍職を返上、隠居を決意し、昌平君は何かを悟ったように受け入れる。「もう、オレの居場所はここにはない」と。「分かりました。では私は一介の民間人となり、故郷の楚で静かに暮らします」

そう言って、昌平君は去った。王翦も去った。事の顛末を見ていた昌文君はたまらず嬴政に進言する。「殿、ちと言い過ぎではないでしょうか。天下統一のために、昌平君の力は必要です。丞相としてでなくても、今すぐ呼び戻してください」

嬴政も少し落ち着きを取り戻し、「ではそなたが昌平君を呼び戻してまいれ」と昌文君に命じる。昌文君は自ら早馬で昌平君を追う。昌文君は、南陽の秦と楚の国境、平輿に入る直前で昌平君に追いつく。
この時、嬴政のもとに、密偵から1つの驚くべき情報が届く。それは、楚の民が昌文君を次の楚王に担ぐための画策をしているという情報だった。これは代王・嘉が李牧の無念を晴らすべく仕組んだ謀略だった。秦に楚の公子が2人もいることに目をつけていた李牧は、生前に代王・嘉に策を献じていた。秦の内紛を狙い、嬴政を疑心暗鬼にさせようと画策した謀略だった。李牧が用意した最後の剣であった。

但し、秦で頭角を表し全土に名が轟いていた昌文君・昌平君を、次の楚王に迎えるという想い自体は、楚民の中には実際にあった。代王・嘉は上手く、それを利用した。

嬴政は嫪毐の謀反や、太子丹がきっかけとなった荊軻による暗殺未遂などを経験し、少しでも隙を見せると国の存亡に関わることを身を以て体験していた。ここまで来て、全国統一の夢を阻まれてはやりきれない。嬴政は秘密裏に刺客を雇い、なんと左丞相・昌文君と昌平君を殺すように命じたのである。
この時昌文君は、平輿に入る直前で昌平君を説得していた。だが昌平君は「今まで尽くしてきたものが、全て裏切られた思いだ」と嘆き、「私は故郷の楚で、静かに暮らしたい。昌文君も一緒に過ごさないか。もう平輿に入れば秦とはおさらばだ」と言う。

昌文君は笑った。「それもいいかもしれない。でも、自分は我が君が天下統一するのを見届けてからでも遅くないと思っている。楚で暮らすのは、統一後であっても良いではないか」

その刹那、嬴政が放った刺客が突然2人の目の前に現れ、昌文君の腹を鋭い刀で突き刺す。背中まで貫通する深い傷だ。昌文君は刺客が刀を抜いて昌平君を切りつけないように、最期の力で刀を握りしめつつ、刺客の首を絞めて殺した。致命傷を負った昌文君は、昌平君に担がれ平輿で手当を受ける。しかし、鴆毒が塗られていた刀で腹を刺されており、昌文君は手当の甲斐なくこの世を去った。

昌平君は慟哭の中、嬴政への復讐を亡き昌文君に誓う。

昌平君の反乱

これは以前書いた記事をご覧ください。昌文君が刺客によって殺された翌年の紀元前225年、郢陳で反乱が起きるのです。この地に昌平君が送られた、ということではなく、罷免された昌平君が自ら反乱の地として郢陳を選んだと考えたほうが良いでしょうね。

昌文君が殺された平輿は、秦軍が必ず通ることを昌平君は知っていた。それで、李信軍がここを通る時にわざと負けたフリをして、実際には楚軍は昌平君のいる隣の郢陳へ「反乱軍」として潜伏したのです。

ただの民衆の蜂起であれば鎮圧するのは簡単でしょう。なぜ李信軍が反乱鎮圧に向かい、手こずったのかは「打ち負かしたはずの楚軍がいた」からです。全て昌平君の策でしょう。李信軍の背後を急襲した楚の項燕軍も、昌平君の指示で動いたはずです。

最期に

今回も妄想全開で非常に長くなってしまいました…少しドラマチックなストーリーにしたのは、昌平君にも大義名分があったことにしたいのです(笑)。

そこまでの理由がないと、あれだけ聡明な昌平君が反旗を翻すことは難しい設定だと思っています。ただ、実際のキングダムではこういう流れにはならないでしょう。なぜなら、嬴政が悪役になってしまうからです。

私のストーリーだと、改めて李牧の強かさもクローズアップされます。史実ではこうあってもおかしくないとは想いますが、実際はどうだったのでしょうね。昌平君の動きは、色々と妄想するだけで楽しくなります。また、別のストーリーが思い浮かんだら記事を書いてみようと思います。

本日もお読み頂きありがとうございました。

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