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昌文君の死に迫る(前編)

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キングダム本誌・659話では、「什虎城が他とは何か違う」という疑問点がクローズアップされました。騰は既にそれを感じ取っており、急襲した楚本陣の軍師・寿胡王を生け捕りにしてそれを聞き出そうとしたのです。

妄想が長くなってしまうので、前編・後編の2回に分けて書きたいと思います。ブログ読者の方は既にご存知だと思いますが、今回の秦・魏同盟軍vs楚軍の戦い(月知平原の戦い)のポイントになっているのが、昌平君です。

まだご存知ではない方は、下記をご一読ください。

昌平君と昌文君は楚の公子

昌平君に関する史実は上記に記載した通りですが、そこに今回、昌文君に関する史実を重ねて書いてみました。

<史実にある点>
・昌平君は楚の公子(熊啓)だった
・昌文君は楚の公子(熊顛)だった
・紀元前238年、昌平君と昌文君が嫪毐の乱を鎮めた
・紀元前235年、秦・魏連合軍が楚を攻めた
・紀元前226年、昌平君は郢陳に送られる(楚民の人心安定のため)
・紀元前226年、昌平君が丞相を罷免される、昌文君死去
・紀元前225年、郢陳で反乱が起きる(李信・蒙恬敗走の原因)
・紀元前223年、将軍・王翦と副将軍・蒙武が楚を攻める

昌平君も昌文君も、いずれも楚の公子でした。秦に仕官して以降、嫪毐の乱を鎮圧していることからも、嬴政からの信頼も厚かったのでしょう。昌平君は呂不韋が去った後に丞相となりますが、紀元前226年に罷免されます。

ここから先を読まれる方は、かなり深い妄想になるので、覚悟してください(笑)。

昌文君の死

私は、紀元前226年、225年に注目しています。

・紀元前226年、昌平君が丞相を罷免される
・紀元前226年、昌文君死去(平輿県…現在の河南省駐馬店市)
・紀元前225年、郢陳で反乱が起きる(首謀者は恐らく昌平君)

まず、昌平君が丞相を罷免された年と、昌文君が死んだ年が紀元前226年というとろです。これはどちらが先か分からないのですが、「昌文君の死」が昌平君の丞相罷免のきかっけになったと考えてしまいます。

というのも、『睡虎地秦簡』によると、「楚の国人たちに昌文君を楚王に擁立する動向があった」らしいのです。つまり、昌平君が楚王に担がれる前に、本来であれば昌文君が楚王になる計画があった。

ではその当時の嬴政の心境も妄想してみましょう。

秦と楚がいよいよ本格的な闘争という時に、嬴政が極度の疑心暗鬼になったのではないか、と。その理由として、「どうやら楚と昌文君が何かを企んでいる」ということが分かったからかもしれないと考えました。

厚く信頼した部下が、ここに来て敵国・楚と通じている。また嫪毐のような反乱が起きるかもしれないし、前年の紀元前227年には燕太子・丹への酷い扱いを恨んだ燕の荊軻が、嬴政を暗殺しようとした事件がありました。ここで嬴政が、「他国の公子や太子を生かしておくことは将来の禍根になりかねない」と考えていた矢先、「楚と昌文君が密通している決定的な証拠」が見つかった。

そこで嬴政は、昌文君を秘密裏に処刑することを決心するのです。

昌文君が死んだ地

紀元前226年、昌文君は死去します。場所は平輿県、現在の河南省駐馬店市だと言われています。

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広域地図にすると分かるのですが、ここは楚の領土です。

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そして、この地の北側、目と鼻の先にあるのが、反乱が起きた郢陳(現在の河南省周口市)です。私は昌平君が首謀者だと思っています。

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そもそも、なぜ秦の重鎮であった昌文君が、楚の地である平輿県で死んだのか。この件については、史記にも説明がありませんし、どうも納得が行かない点でもあるのです。

月知平原(南陽市)の先にある平輿県

ここで改めて、秦・魏同盟による楚攻撃を振り返ることが重要です。キングダムでは「月知平原の戦い」または「什虎城占拠」として描かれています。

史実では月知平原も什虎城も存在しないので、架空の名称と思われますが、私は過去に南陽市あたりではないかと書きました。その理由は、「楚の長城」が築かれていた要所だからです。

まず広域地図で確認してみましょう。下記のように、魏・韓・楚の国境が接する場所であり、西方の秦からの侵略を止める役目をしていました。

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下図は、月知平原の戦いがあったと思われる南陽市の、現代地図です。ここを秦・魏同盟が攻撃し、楚から奪還。結果的に魏の領地になります。秦としては、魏を使って蓋をした格好ですね。その魏の領地を超えた東部に、楚の平輿県(現在の河南省駐馬店市)があります。なぜか昌文君はここで死んだのです。

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楚としては、この長城を破られたことはかなりの大打撃だったはずです。長城近辺を拡大してみます。赤丸が南陽市です。北側の空いているところから秦・魏同盟が侵攻し、南陽を奪取したと思われます。

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後編では、なぜ昌文君が楚の地で死んだのか、その地はどういう土地であるのか、そして昌平君との繋がりは…に迫ってみたいと思います。

本日もお読み頂きありがとうございました。

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